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「水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ」 野崎歓

集英社

 エロチシズムと直訳調は互いに無縁ではないのだ。
(p70)
  とにかく先行する書物の存在に支えられ、過去の人々の記録をうけつぐという構えが井伏にとっては必須なのである。あたかも作品は、自分の言葉だけによっては存在してはならないかのようだ。
(p92)
  おだやかに照り返す瀬戸内の海を見下ろしながら、「波の絵」を掲げた一室で、茶を飲み、魚を食し、茶碗酒を次から次へと干していく。そこで交わされる言葉はだれが発したものやらときに判明しなくなる。狭苦しい「我」などというものが波間に揺れていつしか形を留めなくなりそうなそんな液体的な時空のありさまこそは、井伏晩年の旅がめでたくも迎えた一つの到達点だったのかもしれない。
(p237)
  新たな一日を迎えるたびに井伏は、かつて大きい池の水で顔を洗った子ども時代のしぐさを反復していた。
(p271)


昨日、読み終えた。以前のものも含めてピックアップ。
昭南島…現在のシンガポール…に国策的なルポを書けと派遣された作家などの一団(海音寺潮五郎とかもいた)、その体験を書いた「花の街」…マラヤ側の少女の日記、それが途切れるところで作家の(侵略者側の)日記が始まる。
先のp237の文でも出てきた波の絵「遠浦帰帆の図」。「かるさん屋敷」(信長)、「神屋宗湛の残した日記」(秀吉と朝鮮の役のスポンサーでもあった宗湛)、そしてそれを批判し受け継ぐ「鞆ノ津茶会記」。p92の文章にあるように、先人の文章を受け入れ塑性するという姿勢がそうした作品に現れているのだろう。
画面のほとんどに何も描かれていないような海の絵というのは、ターナーとかフリードリヒとかも連想する…ということはニューマンやロスコも?

「黒い雨」に自分の日記を提供した重松は以前にも、「小畠もの」と呼ばれる小畠村(神石高原町)の代官屋敷に眠る古文書の情報を提供していた。「黒い雨」またそれ以前にも見られる「養魚場」のテーマ。それが被爆後、玉音放送に背を向けて小川にウナギ?の稚魚が連なっているのを見るシーンにつながる。そこの文章が「水の匂いがするようだ」というこの野崎氏の本のタイトルにもなっているもの。
(2019  12/31)

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