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「西欧の東」 ミロスラフ・ペンコフ

藤井光 訳  白水社エクスリブリス  白水社

「マケドニア」


冒頭の短編。1905年のマケドニア解放(ブルガリアではマケドニアはブルガリアのものとされることが多い)戦線などの戦争と、それに出かける男と待つ女。それを思い出す老人の語りとその妻がとっておいた上記の戦争で殺されたかっての恋人の手紙。それらが交互に映し出されていく。聴覚と味覚の交換あるいは交感。

 私はノラの車椅子に座り、世界に耳をすます。目ではなく、耳で、壁の向こうを見る。職員室にいる看護師たちがコーヒーを淹れている。お湯がゴボゴボといっている。誰かが靴下を繕っていて、二本の編み針が当たる音が聞こえる。ベンチ、木々、山の音が聞こえる。それぞれに独自の音があって、私はコウモリのように、生きているものも死んでいるものも含めてすべての音を飲みこむ。音に対する味覚が発達したのだ。
(p17)


(2021 07/04)

「西欧の東」


ブルガリアとセルビアの国境の村。元々はブルガリアだったのだが、第一次世界大戦までに村の中を流れる川が両国の国境になった。姉と弟(語り手)の川向こうの相手との恋、その相手との結婚式直前に川を渡って撃ち殺された姉と相手。母はそのショックからか亡くなり、父も共産主義政権崩壊後、農場が荒れて行くのに耐えられなくなって他で亡くなる。語り手は今はベオグラードに住む相手ヴェラに会いにいくことにする。ヴェラの夫は戦争で亡くなっていてヴェラから手紙が来ていた。しかしようやくベオグラードに着いた語り手の前に現れたのは第二の夫だった。

という話の中で一番印象的なのは、川に沈んだ教会。川が国境ならば、川の流れを変えてしまえばよい、と川を堰き止めた教会画家。結果、教会自体が川に沈む。そこは後に、語り手とヴェラの会う場所となる。

 冷たい水、急流、塊になって渦を巻く茶色い落ち葉、太い枝がそばを流れていく。樹皮ははげ落ちて、つるつるで、朽ちている。人を土地や水に縛りつけるものは何なのだろう?
(p73)



オビには「現在と過去を行き来しながら紡がれる、長編小説のような読後感を残す8つの物語」とある。そうか、今まで考えたことなかったけど、前の短編の変奏のような気もする。こうやって重なり合って変奏していけば、長編小説とも言えるのかも。

「レーニン買います」


アメリカに渡った語り手の孫と、筋金入りの共産主義者の祖父との、アメリカとブルガリアとの間のやり取り。

 人の見る夢には、個人の無意識だけでなく、集合的な無意識も反映されているのだと知って、僕は夢中になった。集合的無意識だなんて、そんなものがあるのか。もしあるのなら、そこに入れてもらいたかった。その一部になってみんなとつながって、ほかの人たの夢を見たい、ほかの人たちにも僕の夢を見てほしいと願った。鮮やかで超越的な象徴を夢に見ることを望みつつ、眠りについた。
(p88)


この短編、なんか一番作者ペンコフに語り手が近い。東欧革命の時8歳くらいというのも、1982年生まれのペンコフ自身と同じだし、アメリカに行ったのもアーカンソーという経歴そのもの(でなければかなりマイナーな設定(笑))。

祖父は、1993年に「革命」を起こして、祖父の村をレニングラードと改称した(最初、年と記述が誤植かと思った(笑))。そしてレーニンの冷凍遺体を5ドル(プラス海外発送料5ドル)でインターネットで購入(「レーニン買います」というタイトルは、なんらかの比喩的表現かと思っていたのだが、ガチな意味でした)…その冷凍遺体が祖父の村に届く…
というなかなか意外な展開の一方、レーニン全集の「親族書簡集」を勧められて読んだ語り手は、今現在アメリカで孤独に彷徨っている自分も、家族に頼み事しているここでのレーニンと同じなのだ、ということに気づく。

この作品、ペンコフが認められるきっかけとなった作品でもある…でも、なんでアーカンソーだったのだろう?
(2021 07/23)

「手紙」

逃げる血筋(ペンコフのまた違う一面)
ブルガリアの田舎町の経済格差。貧しい家族の双子の姉妹。姉の視点で、妹は発達障害で孤児ホームに入っている。父はイギリスで働いていて、母は逃亡し一か月に一回くらい金せびりの電話をかける。そういう中でこの語り手は富裕な「イギリス人夫婦」(実際は違うみたい)からいろいろ盗んでいる。
そんな中、妹が妊娠していると言う。さっきのイギリス人夫婦の妻から千ドルをもらった語り手は妹連れて町まで中絶しに行くが…母親の血か、千ドル持って逃げ走ってしまう。最後は千ドルも使い果たし、家にお金せびりの電話をするシーンで終わる。
「西欧の東」や「レーニン買います」よりは幻想味は減るが、現実の貧しい田舎町を垣間見れて味わい深い。
(2021 07/25)

「ユキとの写真」


シカゴオヘア空港の荷物運搬係として働くブルガリア人青年と、何故か知り合って結婚した日本人女性「ユキ」が、不妊治療のためブルガリアを訪れる。祖父の村、親切な隣人たち、川に飛び込む子供達、離れたところに住むジプシー(作者の指示でここでは「ジプシー」表記。そこでは並んでいる車のナンバーは全て別の地方のものだという)…
と、すれ違うこともありながら、まずまずの日常生活になっていたが、ジプシーの子供と車で接触しそうになった、その子供は自転車乗って帰ったのだけれど、その夜父親に折檻されて3日後に亡くなってしまう。その父親に子供の写真を撮ってくれと依頼された二人は彼の家に向かうが…

という流れで、今まで出てきたいろいろな物だったりエピソードだったり、が、ストーリーのここに焦点を合わせるために配置されていたのだと気づく短編のお手本みたいな作品。子供達の自転車、ユキがジプシー達に変な憧れを持っていたこと、ネクロログというブルガリアの遺族が出す訃報の貼紙…

 太陽は大きなクルミの木の向こうに沈もうとしていて、葉のない枝のなかでオレンジ色に輝いていた。
(p137)


ここは序盤。この後、この文章と呼応する(たぶん)月の文章があった。

p148では、1944年に曾祖父が共産党パルチザンに絞首刑にされた話が出てくる。彼らは曾祖父の家の門に人民の敵とタールで書いた。その門(納屋に保存してある)をユキに見せる…彼自身が父親に見せられた時は特に何も感じなかったというが、こうしてユキに見せている時に何かが彼に込み上げてきたという、そして、それは彼女には伝えたくない、とも思ったという。
ここ読んでいて印象深かったのだけど、今こうして振り返ってみると、ジプシーの子供の件と相対していることがわかる。最後に子供の父親に話すべきとは思うけれど、しかし(たぶん)話さなかったという。
こうして、話さなかったことに包まれて、人は生きていく。
(2021 07/30)

「十字架泥棒」


 なかは暗くて寒く、どういうわけかしんとしている広場で上がる声は風が井戸のなかで暴れてるだけって感じだ。吠えるみたいな言葉はあっても、要領を得ない。この教会のなかで言葉は意味を失くして、俺とゴゴはしばらく中央で茫然と立ち尽くす。ロウソクの匂いがあたりに立ちこめてるが、燭台にも、死者のための砂の盆にも、ロウソクは灯っていない。真鍮の燭台に垂れて固まっている蠟と、凍っている砂しかない。
(p195)


記憶がウリの「天才少年」ラドが、友人のゴゴと一緒に、政府が辞職した1997年、ソフィアの街頭デモたけなわの時に、教会に盗みに入る。この文章はそうした中の描写。そしてその後、彼ら二人は、教会に置き去りにされた瀕死の老人を見つける。
(2021 08/12)

「夜の地平線」

トルコ系バグパイプ作りの一家の物語。娘に「ケマル」という男の名前つけて、髪の毛も剃ってバグパイプ作りを教える父親、病気になる母親、とそこに軍曹なる男がやってきて名前をブルガリアの名前に変えろ、と命令する…この話、第二次世界大戦前くらいの話かと思えば、実は1980年代に共産党政権が出した政策なのだという。これによりブルガリアのトルコ系住民は多くトルコに逃れたのだが、この一家はそうせずに、仔山羊をたくさん盗みバグパイプを作ろうとするが、露見し父親は連行される。作品名はその後、今までは会うことがあまりなかった母親と聴くラジオ番組の名前。

「デヴシルメ」

現代のブルガリアからアメリカに移住した夫婦と娘の話、それからその父親が娘に話すひいおばあさん(の若い絶世の美女だった頃)とデヴシルメで徴発されたアリー・イブラヒムとの話がシンクロして進む。が、既にこの夫婦、別居していて、妻は同じブルガリア系の医師と再婚(この医師が夫婦の借金等を払った)。彼のテキサス移住とともに、この元夫もテキサスに行き、時々娘と会うことができるようにさせてもらう。

テキサスでは、この語り手とも言うべき元夫が、ジョン・マーティンというベトナム戦争帰りの男に厄介になりながらの、読み手にとってはなかなか楽しいコンビ。一方民話的要素も含むひいおばあさんとアリー・イブラヒムのパートでは、「血で始まった物語は血で終わらなければならない」と予告しておきながら、そこまでの展開にはならない(アリーはひいおばあさんの為、スルタンに刃向かうが、殺されまではしない)。これは、もともともっと悲惨な結末で終わるはずだったこの話を、語り手である元夫が自分のため娘のためにねじ曲げた結果なのかもしれない。
(2021 08/15)

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