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「青い野を歩く」 クレア・キーガン

岩本正恵 訳  白水社エクスリブリス  白水社

「別れの贈りもの」


昨日は「別れの贈りもの」を読んでみた。
アイルランドの農村の家庭から「きみ」がニューヨークへ向けて旅立つ。「きみ」といったら二人称だが、ここでの「きみ」(作者と同じく女性)は、フェンテスともビュトールとも異なり、「きみ」は作者キーガンで、こういう背景を持つ作者がこれから短編集でもって読者を誘いますよ、という含みのような感じがする。空港に送り届けてくれた兄は、「きみ」がここを離れたら自分も離れるつもりだ、というが、主人公たる「きみ」は彼は農園から離れられない、と推測する。このすれ違い、兄だけでなく、父にも母にも感じたこのすれ違いこそが「贈りもの」なのであろうか。
(2022 12/23)

「青い野を歩く」

昨日から今日にかけて表題作「青い野を歩く」を読んだ。
神父が結婚式を執り行なう。この新婦(神父も新婦も同じ「しんぷ」だ)は少し前はこの神父と恋仲だった。しかし、神父は己の使命を解くことはできず、彼女と別れ、彼女はこうして別の男と結婚した。結婚式が終わり村のホテルでパーティが開かれる。ダンスまで見終わって、神父は一人家に帰るでもなく歩き続ける。
特別に何かがあるわけではない。両家の親類と他愛のない話をしたり、ダンスで新郎の弟が新婦と踊って結果神父の真珠のネックレスの糸が外れて落ちたり。神父の歩く先も、外れにあるトレーラーハウスに住む中国人のところでマッサージしてもらう程度。神父が普通にホットウィスキーを注文しているのに少し驚くが、アイルランドではごく普通のパブの光景なのだろうか。

 両側の木々は高くそびえ、風は奇妙に人間的だ。柳の枝を梳くやさしい話し声。傾くニレの裸のささやき。この場所はどこか太古の昔を呼び覚ます。猟犬、槍、紡ぎ車。歴史にはよろこびがある。最近のできごとはまた別の話で、思い出すのがつらい。
(p26)


独特な文章。本当は1、2ページくらいかけて読者に説明されるはずの村の歴史が、ぎゅっと圧縮してこの文量になったかのようだ。最後の一文は、神父の記憶に直結する(この文には主語がないが原文はどうなっているのか)。

 彼女はよろこんでついていくように見える。婚約指輪のダイヤに光が反射する。フロアでターンする夫のあとを、白い靴がついていく。
(p40-41)


夫という人間を表す言葉と、対になるのは白い靴という無生物。こうしたところも巧みな表現だなと思う。ひょっとしたら、これは作者クレア・キーガンの文体というより、訳者岩本氏の文体なのかもしれない。
(2022 12/28)

「長くて苦しい死」

昨夜「青い野を歩く」から「長くて苦しい死」を読んだ。
ハインリヒ・ベルがアイルランド来て書いていた家が、それも離島にあるの? そもそもハインリヒ・ベルって随分久しぶり。岩波文庫持ってたはず。この短編では、それにチェーホフの短編も絡んで、視点人物も作家(一つの解釈としてクレア・キーガン自身としてもいいのでは?)。ということで、なかなか楽しい読書体験。

 満ち潮でさまざまなかけらが打ちあげられていたが、彼女のまわり一面には、白く洗われたきらめく石が深く積もっていた。これほど美しい石は見たことがなかった。彼女が動くたびに、石は足の下で陶器のように鳴った。この石はいつからここにあるのだろう、どういう種類の石だろうと思ったが、それになんの意味があるというのか。石は今ここに、彼女と同じように、存在していた。
(p60)


(2022 12/30)

「森番の娘」

 はっきり言って、くよくよ考えるひまはないからだ。アゴールの農場には十代の子が三人いて、さらに乳搾りと借金があった。
(p89)

 ジャッジは、この見知らぬ場所を警戒して懸命に眠りにあらがうが、台所の暗さと、暖炉の暖かさは、これまで味わったことがないほど心地よく、起きていようとする意思はたちまち遠のく。
(p102)


ジャッジは父が子供に贈った犬。これまでもいろいろな人物の視点に滑らかに移っていくのがこの短編の味わいだったが、ここに来て、犬まで…

 言葉が話せなくてよかったとジャッジは思う。どうして人間は会話せずにいられないのか、彼には理解できない。人間は、話をするとき、自分たちの暮らしをよくするとはとても思えないむだなことを言う。言葉は人間を悲しませる。どうして話すのをやめて抱きあわないのだろう。今、女は泣いている。ジャッジは女の手を舐める。指には脂とバターがかすかに残っている。その下は全部女のにおいだけだけれど、夫のにおいとどこか似ている。犬を手にきれいに舐められているうちに、追い払いたい気持ちは消えてなくなる。その強い思いはきのうのものだ。彼女がけっしてできないであろうことが、またひとつ増える。
(p105-106)


「犬を手にきれいに舐められて」からは、この家の母親マーサの視点に移って行く。その他、ディーガンの夢とマーサのお話との対比。男女の違い…それとも個性の違い。最後のマーサのお話で、末っ子の娘がディーガンの子供ではないということを語る。それでも彼らはここで生きていく。

「波打ち際で」


舞台は珍しく(この短編集では唯一)アイルランドではなくアメリカ。

 どうしていつも、両極端がこれほど近くにあるのだろう? まるで、耳障りな音と紙一重の、バイオリンの美しい高音のようだ。
(p149)


細かいことだけど、この視点人物の祖父母の話で、祖母が大西洋を見たいとせがみ、テネシー州から大西洋へ向かう場面がある。「海へ沈む丸い太陽」とあるけど、アメリカで夕陽が大西洋に沈むところがあるのかな? コッド岬?フロリダはまた違うだろうし。

「降伏」


「降伏」はアイルランドの作家ジョン・マクガハンの父親のエピソードから作られた。彼が結婚を決意する時にオレンジを24個食べた(当時はアイルランド独立戦争の最中でもある)という話から。

「クイックン・ツリーの夜」

 マーガレットは風の日を待って、傘を開き、飛べると信じてボイラー小屋の壁から飛び降りた。そして、車道に落ちて足首を骨折した。大人になってからも、根拠なく信じていたことがじつはまちがいだったと、そんなふうにあっけなくわかればよかったのだが。大人になるとは、なによりもまず、暗闇に置かれるということだった。
(p177)


この短編集の中では一番幻想的な、ケルティックな伝統を土台にした作品。ここで対比されているのは、アイルランド島の、東の木と薪圏と、西の風と泥圏、という対比。マーガレットとスタック。西の海岸沿いにやってきた東出身のマーガレット(作者クレア・キーガンも同じく東のウィックロー県出身)は、薪の匂いを懐かしむ。
「長く苦しい死」もそうだったけれど、キーガンの中での西アイルランドへの憧れと残っているだろう余所者感がどう調和しているのか、そこが読みどころのひとつとなっている。
(2022 12/31)

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