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「日本滞在日記」 レザーノフ

大島幹雄 訳  岩波文庫
(各章のタイトルは訳者が便宜上付けたもの)

第2章「長崎来航」まで


(この日記、公刊されたのが1994年。それまではロシアで封印されていた)
レザーノフは前段階に、露米会社というのを妻の父親の意志を継いで設立し、ロシア皇帝にまで全権を依頼されるようになる。ペテルブルクからホーン岬、マルケサス諸島を経てカムチャッカまで。
カムチャッカから太平洋岸を通って長崎まで。大隅半島沖で台風に遭いながらも、9月に長崎到着。

この前に大黒屋光太夫らを連れたラクスマン来航時に渡された国書を持って、更に石巻から出てロシアに漂着した船の船員のうち4名を連れて来訪(1804年)。長崎くんち、長崎奉行の交代時と重なり、入港はおろか、長崎湾内にもなかなか入ることは許可されなかった。レザーノフのイライラは募るが、日露双方が相手の言葉を覚えようとしたり、ドゥーフ(当時のオランダ領事)が日本式礼儀に卑屈なくらいに(とレザーノフやオランダ側も思っていたらしい)従っていたのを見る。

この時レザーノフと一緒にいた艦長クルーゼンシュテルンの世界一周記を、後に手に入れたい幕府天文方高橋景保が、日本地図と引き換えにシーボルトと取引したのがシーボルト事件。
(2021 10/24)

第3章「神崎沖にて」第4章「木鉢にて」


艦に水漏れ等有り、またレザーノフ自身も病気になっているのに、なかなか日本側は長崎に上陸させない。ごく狭い木鉢という島?にちょっとした休憩場所作ったり、代わりの中国船を用意してみれば家畜小屋みたいなものだったり、レザーノフのいらいらはつのる…日本側は老中戸田氏教が、ラクスマン以来、反ロシアの立場でいたため、この後もすれ違いが続く(この老中が病気で隠居した後、ロシアと日本の関係は緊迫したものとなっていく)。

細かいところ。
海が光り、浸した布もまるで燃えているように見えた(夜光虫?)
オランダ領事ドゥーフの誕生日に、山をイルミネーションで飾ったという。
長崎には既にパン屋武右衛門と名乗っていたパン屋があり、レザーノフも小麦粉を渡して焼いてもらうことにする。
以下は長崎通詞の一人がレザーノフに言った言葉。

 あなた方の領土は広大で、しかも世界中の人々と関係を持つことができます。しかし日本は国土も狭く、またそれゆえに大きい場所へ出ていかないようにふるまい、自分のところだけでの生活に甘んじているのです。そのため行動のすべても小さくならざるを得ないのです
(p143)


解説には、この本の影の主役は長崎通詞達だ、とある。
(2021 10/25)

江戸時代の町の風景を再考してみよう


第5章「梅ケ崎上陸」
やっと、長崎の町上陸(梅ケ崎とは、唐人街と大浦の間。自分も歩いていた辺り?)。夜には屋敷に掟をかける。これに不満をもったレザーノフに対し、通詞為八郎はこう答えた。

 そのため私たちが自由を求めるというのは、よけいな望みだと日本人には見えるらしい。自由など誰にもないし、一言でいうならば、町にはどんなに人が多いといっても、私たちは通りで誰ひとり人の姿を見たことがない。
(p180)


その他、細かなこと。
レザーノフが特記するくらい日本人はコーヒーが好きらしい。あと、持参していたマラガ産ワインも気に入ったらしい。
オランダ領事ドゥーフは、日本の役人を新年にもてなしたそう。ドゥーフとレザーノフも互いに贈り物したかったらしいが、「貿易か手紙のやり取りしているのでは」と考える日本側の思惑のため、うまくできず。
エレキテルのような実験や、気球(今でいうドローンくらいのサイズか?)を上げてみせるとか、仕事以外ではいい関係なのだが。
先に述べたオランダの正月、ロシア正教の正月、日本の(旧)正月と3つの正月がある。あと何故か12/24の記述がなく、12/25が2記事ある(その間に12/26が挟まる)。
(2021 10/26)

「太十郎自殺未遂事件」


今日は第6章「太十郎自殺未遂事件」と、第7章「レザーノフの病」の途中(p232)まで。
太十郎は、レザーノフが連れてきた、日本人漂流民の一人。この当時はまだ大黒屋光太夫らが軟禁生活を送っており、太十郎らも帰ってこなければよかったとも思っていたのか。太十郎はこの後30日くらいほぼ絶食してたという。

それから、日本の新年の飾り付け(旧正月なのだが、節分はほぼそれの直後)をロシア人住居にも行って(ヤイカガシとかも)いるのだが、レザーノフにしてみれば、そんなことより多湿なこの邸からの引越しと、奉行の返事早くしてほしいところ。それに対し、日本側は「日本では耐えるのが普通です」とか言う。今の自分からすれば、この当時の日本人は「謎」だが、実は今の日本社会もこんなものなのでは?
またもや気球を飛ばすが、上空で破裂しとある商人の家に墜落してしまった。梅香崎郵便局向かいに「気球飛揚の地」なる碑がある…ということはその辺りがロシア人邸跡か。
この頃、既にヨーロッパでも灸は知られていた。
(2021 10/27)

「陰謀?」


第7章「レザーノフの病」途中から、第8章「庄左衛門の陰謀」、第9章「警固兵たちとの交流」の始めの方まで。
「陰謀」といっても、何か貿易する品目を探り当てようとしていたことくらいか。それともレザーノフが言っているのは、江戸からの使者がいつ来るのか(「二十日」は日本では減らない概念?)ごまかしているというのを指しているのか。

とにかく、レザーノフ一行が江戸に行く機会は訪れないことを察し、またなんだか早く出港させることに仕向けようとしているようで…
(2021 10/28)

緩やかな開国の可能性


気になる表現

 「赤道では円周が大きく、両極では小さい、しかしどちらにとっても三百六十度であることにかわりなく、大きくもなければ、小さくもないのだ」
「まさにその通りだ。大きい円周側にいるものにとってはそれを測ることは簡単なことなのだが、それ以上に小さいところにいるものの方が、もっと簡単にそれを測ることができる」
(p308)


第9章から、第10章「日露交渉会談」まで。

雛祭り(長崎到着が台風にあってからの10月くらいだから、実に半年…)の風景、近くの家の娘が、レザーノフに気づいて様子を見せてあげたとか。
長崎奉行2名(本当は隔年勤務で一人は江戸に帰っているはずなのだが、レザーノフ来航で2名体制)、そこにやっと大名(江戸からの将軍代理)遠山景晋…遠山の金さんこと遠山景元の父…が長崎到着し、それから数日しやっと会談。

大波止から丘の上の奉行所まで行列(二日目は乗物(輿?)に乗った)。通りを封鎖し民家の扉を全て閉め切った。事前交渉の結果随行2名許されて、レザーノフは座布団に座り(ラクスマンの時は彼が拒否し、日本側は畳で座り、ラクスマンは椅子に座った)、通商不可の知らせを受ける。献上品も受取拒否。
警固兵や周りの人々の中には、通詞達が全て中に入ることに対して不満があった。逆に通詞達が、レザーノフの「自分が日本語で直接伝える」というのにことごとく反対したのは、その特権を侵されたくないからということもあったのだろう。

とにかく、通詞達や周りの人々、それから長崎奉行までもが、ロシア人に親切にし、また通商の可能性を掴もうとしていた、とレザーノフは書いている。また7年前くらいに来れば、ひょっとしたら可能性があったかも、とも通詞達が言っている。この時点でロシアに少しでも門戸を開いていたらどんな歴史になっていたのだろう。

その後とエペペ

レザーノフはペドロハヴロフスクに戻ったあと、北太平洋岸のロシア領視察を行う(当時はまだアラスカはロシア領であった)。その時、栄養失調で多くのロシア人が亡くなっていたのを見たレザーノフは、フヴォストフに樺太・エトロフ島襲撃命令を出す。のちにこの命令を撤回するが、フヴォストフ達は撤回することなく襲撃し(同時期、英国船フェートン号が長崎港を略奪)、レザーノフ自身は、1807年シベリアのクラスノヤルスクで死去する。
この本は実際の歴史、外交の貴重な証言であるけれど、なにか意思疎通できない絡繰の社会となんとか対峙しようとした物語として読んでも面白いかもしれない。例えば「エペペ」のような…
最後は、庄左衛門のこの言葉で締めくくろう。

 あなたが、自由を束縛されているのは、一時的なことだけですが、私たちは永遠にそれに耐えていかなくてはならないのですと。私たちの父や祖父たちは、米を食べるだけを楽しみに生活を送っていたのです。そして私たちや私たちの子どもたちも同じようにこんな生活を送っていかねばならないのです。私たちは感情をもつことさえ禁じられているのです。
(p340)


(2021 10/29)

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