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「東欧からのドイツ人の「追放」 二◯世紀の住民移動の歴史のなかで」 川喜田敦子

白水社

三鷹水中書店で購入。
(2020 11/08)

政策的移住とこれまで読んだ本つながり


川喜田敦子「東欧からのドイツ人の「追放」 二◯世紀の住民移動の歴史のなかで」を、昨夜ぱらぱらめくって見て、いろんなこと書いてあったメモ。

第二次世界大戦中のポーランドとチェコスロバキアの亡命政府は、終戦後それらの国の領域にいるドイツ人を移住させることを強く主張した、という。
チェコスロバキアからマイノリティハンガリー人をハンガリーに移住させる、この計画はハンガリーからドイツ人をドイツ(オーストリアへも?)に移すのとセットで計画されていたのだが、ハンガリーからドイツへはあまり移動しなかったみたい。
これら、人工的、強制的な移住計画は、主にイギリス主導で進められたらしい。イギリスはそうした移住計画の「成功例」として、第一次世界大戦後のギリシャとトルコの住民交換を挙げていたというが…あれ、成功例なんだろうか。

と、見てきて、ハタと気付いた。自分の読んでいる小説って、この辺絡んでいること多い。
ハンガリーのドイツ系では「よそ者たちの愛」のテレツィア・モーラ
チェコスロバキア(まあ主にスロバキアだろうな)のハンガリー系といえばサムコ・ターレ(ほんとの作家の名前は違うけど)「墓地の書」
ポーランドから離れた東部からグダニスクにやって来たのがパヴェウ・ヒュレ「ヴァイゼル・ダヴィデク」の「祖父」
ドイツからポーランドになった西部のドイツ人移住がオルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」
のテーマになっている。
…と、今まで読んできたものの裏付けというか基礎知識がつきそうなのだが、ちゃんと?読むのはまた後ということで…
(2021 10/14)

序と少し先まで


この本のテーマである「第二次世界大戦後におけるドイツ人の追放」に関しては、通時的論点と共時的論点の二つが必要。前者は例えば第一次世界大戦後のギリシャとトルコの住民交換から始まる、民族主義国家での住民移動の歴史、後者では当時ドイツ人以外でも様々な人々が移動していた(ポーランドの東側など)ことの横断的研究。川喜田氏の見るところ、ドイツ人追放の研究はこれまでそれだけを見てされていたことが多い、という。
というところを昨夜読む。
(2022 03/29)

ドイツ人「追放」前史

民族国家の住民交換の最初は1910年代のオスマン帝国とブルガリアとの間(「西欧の東」の「デヴシルメ」で書かれていた)。第一次世界大戦後も主にトルコとバルカン諸国(ギリシャ、ルーマニア、再度ブルガリア、ユーゴスラビアとも締結はしたが戦争の為実現せず)。
この動きにのったのがドイツ。東欧、バルト三国、東南欧のドイツ人を、占領したポーランドやチェコスロバキア、あるいは併合したオーストリアの土地に移住させ、そこにいた非ドイツ人を追放させる。前半のドイツ人の動きは、第二次世界大戦後、「ドイツ人の追放」という形で(行き先は違う場合もある)再現されたし、後半はユダヤ人迫害等につながっていく。
ナチス・ドイツの基本的考えは「土地はゲルマン化できるが、人はゲルマン化(同化)できない」というもの。これ、極限まで推し進めると、全地球がドイツになり、ドイツ人以外は追放(宇宙に?)ということになるのだが…
(2022 04/01)

第二次世界大戦後のドイツ人追放計画

最初はポーランドやチェコスロバキアの亡命政府が主張した。ポーランドは一方で東部国境のウクライナや白ロシア(文中表記)との住民交換も関わり、チェコスロバキアは主にスロバキア側のハンガリー系住民の住民交換も関わる。
ソ連は住民交換に積極的、イギリスは留保しつつも最終的に関わり、アメリカは一番消極的だった。この時どの国も「参考になる住民交換の具体例」として、ギリシャとトルコの住民交換を挙げていた。結果として、ドイツには試算された流入人数よりかなり多い流入が起こった。
(2022 04/04)

東ドイツの「追放民」政策


米英仏ソの四カ国によるドイツ占領の内、最も「追放民」を受け入れたのはソ連占領地域(後の東ドイツ)。
初期は意外にも西側より援助をして来たが、1950年頃には「解決済み」として政治機構も縮小化されてきた。移住民という言葉も禁じられ「元移住民」となって、文化的な事象(歌とか通りの名前とか)も禁止されたり変更されたり、移住民同士の結社も(西ドイツ側ではだんだん禁止が緩和されてきていた)それに合わせ禁止されるようになった。これ以降、西側で開催される移住民結社に東側の住民も招かれ、参加するようになったのだが、そのまま帰ってこないことも多く、それが1961年に壁ができる原因になった。

東ドイツが移住民政策を解決済みとした理由は、近隣東欧諸国を刺激しないようにというのと、国境が変わる可能性があって移住民が現存するとあれば、彼らは永久に定着せず不安定な存在になるという恐れがあった。
(2022 04/06)

第4章から第6章まで


(昨日から今日分)
ここから西ドイツ側の政策。第4章は国民定義、法律関係、第5章は経済支援、負担調整、第6章は「被追放民」の政党、団体。

占領下においては被追放民の結社が禁じられていた。それが解除されるのは西ドイツ以降。被追放民の移住先は最初は戦争被害も少なく、住居も食料も比較的あった農村部への割合が多かったが、徐々に産業の復興やプロジェクト(旧兵器攻城の再利用等)もあって、再移住が進む。一方農村部では、なかなか元の住民と被追放民の溝は埋まらなかったが、そこへ外国人が移民として入ってくると、逆に受け入れる側として認知されていく。

 年間平均成長率八・二パーセントという一九五〇年代の経済成長そのものが、被追放民の社会的地位の相対的低下を前提に実現した「奇跡」だったという側面があることは考えておかねばならないだろう。
(p137)
 ナチの影から逃れられない近代ドイツの歴史に代えて、戦後史のなかにポジティヴなアイデンティティの源泉を求めようとしたときに、被追放民の早期統合神話がもった重要性が分かる。
(p138)


被追放民の側でも、自己表象をこのイメージに合致させることで周りにアピールし、なおかつこの状況で、「統合されていない」と被追放民が言うことは、そのことが負のイメージを持つことになる。早期統合神話は政府、被追放民側双方で作り上げていったもの、とここでは結論づけている。
(2022 04/10)

第7章、第8章

第7章は、「追放の記録」と「西ドイツの被追放民」という二つの「追放」記録プロジェクトについて。法律条項に基づき、国家プロジェクトとして実行されたが、反共産化と(追放は高度成長によって解決されたという「幸福理論」を避けるべきだという流れに挟まれ、どのアクターからも不満が寄せられた、という。
第8章では「東方研究」の流れ、自立した東欧研究ではなく、ドイツ人とドイツ文化のための東欧研究。ワイマル期からナチス政権においては盛んに行われたが、戦後はどうなったのか。意外にも?制度的、人的、内容的にも戦前との連続性が多く見られた。戦前からの研究所が引き続き残ることもあれば、新設の研究所でも内容の方向性は似たところがあった。
しかし、1950年代終わり頃から多くの研究所で人材交代が起こり、ドイツ人主義より、東欧諸国自体の研究(それは東西冷戦の必要性から)に焦点が移った。
(2022 04/12)

冷静終結まで


東ドイツの「同化」、被追放民はいないというスタンスに対し、西ドイツは「汲み入れ」、被追放民をそれとして受け入れ社会を変容させるというスタンスをとった。しかし東西のプロパガンダの応酬を経て、自身の政治姿勢の見直しよりは強化に繋がった。これは最終的には冷戦終結時まで続く。
また、被追放民の政治団体の指導者の多くは、元ナチ党員だったり攻撃的な思想の持ち主だったりしたが、その団体に属する一般市民はそれとは乖離して文化的なものを求めていた。

国際比較。追放等、強制的な国家主導の人口移動は20世紀前半期というそこまで長くない時期に起こった。それをアジア等を含めた(例えば日本人の引揚)視座で見ていくことはこれからの課題。
というわけで、終章から3箇所。

 戦後初期にヨーロッパ全体を俯瞰する研究の潮流が断ち切られ、ナチ時代の前史から切り離されたこと、冷戦下の目前の「敵」である共産主義国に批判の矛先を向ける記述が支配的になったことは、西ドイツ国内で「追放」を批判する者に有利な論理を提供したようでいて、実はこれにより、「追放」を批判するための有力な根拠も失われることになった。
 西ドイツで見られた「追放」批判は、住民移動そのものに対する批判というよりは、移住が暴力的に行われたことに対する批判としての性格を強くもった。民族マイノリティを国外に移住させ、国内にマイノリティが存在しない状況を作り出すことが国内秩序を安定させるという考えの根幹にある国民国家原理ではなく、あくまでもどのように住民を移動させるかという方法が批判されたのである。
(p264)
 受け入れ社会の静的な条件のなかに他者集団が一方的に順応していったというイメージを修正し、被追放民の受け入れが相互的なプロセスだったこと、すなわち、両者がともに大きな社会変動、価値変動に飲み込まれるなかで統合が進んでいったことを思い起こすことには、難民問題に向き合う現代世界にあって、ホスト社会が他者をどう受け入れるかを見つめ直すうえで今日的なインプリケーションがある。
(p272-273)
 同質な集団という理想が表立って追求された時代とそれがもたらした大きな人の動き、それにともなう犠牲、その後長く続いてきた認識のゆがみを振り返り、第二次世界大戦後のヨーロッパの秩序はこの時代の思考のうえに築かれたことを改めて意識することで、同質性だけを頼りとするのではない統合と連帯の形を模索していく必要がいっそう認識される。
(p279)


民族、国家という概念を突き崩すにはまだ時間がかかるのだろうけど、その根本原理を同質性から多様性の連帯ということに移していくことからそれは始まるということだろう。違いを前提とした社会と、その成員の意識と。

詳しい注と参考文献リストが100ページもある(ほとんど外国語文献)けど、これでひとまず読み終わり。この本の後半部分を博士論文で書いた後、それをそのまま出版しないで、前史含めた研究を15年かけて行った成果がこの本。
(2022 04/15)

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