見出し画像

「モンテレッジョ 小さな村の旅する本屋の物語」 内田洋子

文春文庫  文藝春秋

栗の木と本の村


ヴェネツィアのベルトーニ古書店から始まり、この店の家系を遡る旅でもあるモンテレッジョへ。ミラノからモンテレッジョに行く途中では「露天商賞」のヘミングウェイの看板や、ダンテが立ち寄った村などを見たり眺めたり。

モンテレッジョは、トスカーナ州にあるが、リグリア州とエミリア・ロマーニャ州の境界近くにある。山の中の村。ラ・スペツィアという海沿いの町から50キロ。村の人々は代々本の行商で生計を立てていた。その中の一部?の人がだんだん平野に降りていき、例えばヴェネツィアのベルトーニ古書店のようになった、と。村の祖先の人々の写真パネルを見ながら、これは誰々で、と話す案内人のジャコモ。その名前の列挙は、姓の数があまりなく、名前も祖先と同じ名前をつける村では、同姓同名が繰り返し現れる。
村周りには栗の木が多い。建築材としては不適な不揃いの栗の木。

 村ができる前から、栗は山にあった。生えては実をなし、枯れては土に戻る。山々は、栗が繰り返してきた生死の層に覆われている。
(p88)


(2023 03/18)

鉱山労働と本の行商

 ムラッツォ村の頂まで登る。
 マラスピーナ家の城址の前に、ダンテの像が建つ。そろそろ山の向こうに日が沈もうとしている。ずっと白い像は、山を渡る風に吹かれてすっかり角が取れている。その足元の碑文を読んで、ここから山を越えていった言葉の数々が木霊となって響いてくるような気がした。
(p145)


この現地に立って過去のそこを行き来した人々の何かを感じ取る、ことができることがたまにある。そういう時は身震いする。
この後、モンテレッジョ近くの活版印刷所とイタリア初のタイプライターのあった村への旅、1816年の「夏のない年」でイタリア北部の農業がダメージを受け、奉公に通っていたモンテレッジョの人々も打撃を受けたことなどが書かれている。その時ベルギーでの鉱山労働の帰りに石を持っていった彼らは、剃刀の刃の研ぎ石売りで生計を立てたりもする。そしてこの時代はナポレオン(彼の家系はリグリア出身?)の時代でもある。民族意識をばら撒き、各地で意識が高まる。イタリアも例外ではなく、そうした庶民たちに「本」を提供していったのがモンテレッジョの人々。

 当時の出版社の多くは小規模で、印刷も行っていた。編んで、小部数を刷り、売る。在庫を抱えている余裕はない。モンテレッジョの人たちは、そういう版元から売れ残りや訳ありといった本を丹念に集めて、代わりに売りに歩き始めたのである。鉱山で掘り出されたまま放置されていた石や岩を拾い集めて売ったように。
(p198)


現在ではモンテレッジョは本の行商人の村として、少なくとも現地では有名。そこから過去を見る今の読者は、本のことだけを歴史のゴールとして見てしまう。当時においては、本はさまざまな他の売り物の候補と横並びであったことを忘れないでおこう。
第11章では、南米(アルゼンチン、メキシコ)とスペインに広げた出版社マヌッチと、村に残ってバールや左官の仕事をしていた老姉弟が、対照的にしかも抱合的に語られていて心に残る。
(2023 03/29)

モンテレッジョからイタリア各地へ

第12章からはモンテレッジョ出身の本屋巡り。
第12章…ヴェネツィアの2軒(うち1軒は冒頭第1章の本屋)。どちらも1966年の浸水が転機となって父から子へ継承。
第13章…ピアチェンツァでの五家族共同の本の取次。出版社からも「本の目利き」として重宝がられたという。

 残念ながら、すべての本を仕入れることはできません。本屋は、売る本を選ばなければならない。選んでいると、しみじみ幸福な気持ちになります。そして選んだからには真剣に売ろう、と背筋が伸びます。
(p250)


五十年前の本の行商人聞き取り調査から。
第14、15章ノヴァラのラッザレッリ書店。ノヴァラはミラノ・ジェノヴァ・トリノのトライアングルの真ん中の町。

 ノヴァラで生まれて育ち、仕事も結婚も地元です。幼い頃からの習慣で、本を買う予定がなくても、多少の遠回りになってもも必ず〈ラッザレッリ〉さんの前を通ってから家に帰るようにしているのです
(p265)


通りすがりの四十歳前後の女性の言葉。こういう書店、今の日本の町にどれくらいあるだろうか。
隣の劇場の待合スペースを改装した書店。倉庫にも立ち寄り(倉庫というよりここもお店みたい)本を売ってもらった元の持ち主の手紙とか入れてある箱を見せてもらっている。
第16章。冒頭は日本とも似たようなイタリアの読書事情と出版・流通事情。そして、スイス国境近くのビエッラという町(高級羊毛製品の町)の〈ジョヴァンナッチ書店〉。斬新なパッチワークのクッション等に囲まれた1Fと落ち着いた本が並ぶ地下。また繊維業一本ではいざという時危ないからと、本屋の教室から学校へと発展させた。

イタリア史と絡めて

イタリア統一期には、政府当局から隠れてやっと識字率が上がってきた社会に本を売る。禁書の出版はスイスで仕入れ、無断複製本は主にナポリから。この時代の行商人の移動記録を見ると目まぐるしく動いている。
やがてファシズム期へ。ファシスト党は、〈本の売り方コンクール〉などを行ったり、書店経営の為の講座を国立大学で実施していたりした。情報産業を支配しようというのもあるだろうけれど、ファシスト党も国民の教育水準を底上げしようという考えもあったのだろう。ただ戦時ともなると、出版規制や摘発も盛んになってくる。ポルノも禁書だったが、行商人たちは逆に憲兵にポルノ本を差し出して持ち帰ってもらうというエピソードも。でも、雇われてファシスト党員になるより、行商人たちはそのまま自由な行商を続けたという。

イタリアの本屋が集まって決める「露天商賞」1953年設立。先のラッザレッリ書店の前店主もその創設者の一人。受賞作は千部は刑務所とか貧しい人たちなどの図書室へ無償で送られ、あと千部は各地の行商人に配布し売ってもらう。第一回受賞が、この本の前半で出てきたヘミングウェイ「老人と海」。
あとはここに出てきた本屋は、モンテレッジョの行商人の信条?として、必ず町の中心部にある。家賃とか高いだろうけれど、それだけその町の文化を担おうとする心意気があるのだろう。
ということで読み終わり。
(2023 03/30)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?