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「イスラームの世界観 「移動文化」を考える」 片倉もとこ

岩波現代文庫  岩波新書

第1、2章


第1章はアラビアの遊牧民が真珠採りをしていたということ。アラビア語で砂漠を意味する言葉(の一つ)に「バーディア」というのがあるけれど、これは砂漠とともに海をも表すことがあり、「人間が生活していくことのできる、人工物が一切ない空間」と解釈される。遊牧民と海とはあんまりむすびつかないけれど、第2章の海に出て商売をした人達とともに、彼らにとってあまり砂漠と海というのは差がない、出て行く対象としての概念であっただろう。
(2012 12/30)

第3章「移動の哲学」、第4章「文化の移動」

 自分のもっているものを、いつも外にむかって、移動可能であるように考えていること、準備しておくことがよいことなのである。
(p74)


ディヤーフィアやジワールといった隣人・旅人保護制度、偶像禁止、利子禁止のイスラーム金融、これらはこうした移動の哲学、逆に言えば保有し留まっていることへの批判(嫌悪?)からきているという。片倉氏の父も娘も何故か?銀行で働いているということもあって、イスラーム金融(及び根底にあるバンキングの根源的意味)については詳しく書かれている。前に買った「イスラームと資本主義」(マクシム・ロダンソン)の言及、無利子の思想は旧約聖書とアリストテレスに行きつくというのも紹介されている。

「文化の移動」ではカナダ・バンクーバーでのエジプト人移民へのフィールドワーク。彼らは大きく3タイプに分けられるのだそうだ。
第1に同化タイプ。カナダの社会になるべく溶け込もう、自らの出自を隠そうとする、が、そうなりきれない自分も自覚している。自己のクライシスになる場合もあるらしい。第2に固有文化タイプ。エジプト文化を残していこう、守っていこうとする、片倉氏の実感ではこのタイプが一番いきいきしていてオープンでもあるという。逆かなと思っていたけどなあ。第3のタイプはムスリムならでは?のトランスナショナルタイプ。国を越えた普遍的ムスリム共同体を目指そうとする。このタイプの人はエジプト時代には考えていなかったイスラームというものを真剣に考え出すようになる。

 イスラーム信仰の内面化、個人化の問題という要因も考えられる。エジプトでは「集団ムスリム」であったのが、カナダ的異文化の中では、「個人ムスリム」としての様相が強くなってくる。神と自分との対峙という面がより強まるようである。
(p138)


ひょっとして、これはムスリム版プロテスタント?なのか。まあ、向かっていく方向性として全く同じではないけれど共通する何かもあるだろう。そうすれば、いったいどんな哲学や思想が生まれるのか。ヨーロッパなどでのイスラームへの関心(自分の信仰問題としての)と合わせ興味の湧くところ。それと上記第3章の社会や金融の分野と結びつくとしたら・・・
(2012 12/31)

「イスラームの世界観」読了

 すなわち、ある地域に属した価値観といったものは相対的に少なくなり、人に属する価値観のほうが問題になってくるであろう。属地的価値観から属人的価値観へ移行する道のりに、人間はあるといえる。人の考えかたは、ますます多様化していく。
(p210)


「イスラームの世界観」を今さっき読み終えた。5〜7章はイスラームを時おり参照しながらの現代世界評のようなものになっている。ここで述べられている人間の多様化は今問題になっているグローバリゼーションではなくてもっと別のものだと思う。それを実現する鍵は「まあい共生」と片倉氏が述べているものにある。
(2013 01/01)

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