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「昼の家、夜の家」 オルガ・トカルチュク

小椋彩 訳  白水社エクス・リブリス  白水社

家と身体

「昼の家、夜の家」という小説の最初の一編(1.5ページくらい)読んだ。この小説、幻想的な断片を集めて長編にした感じで、思えば同じポーランドのシュルツみたいな感じ。なんだか汎神論の神みたいな視点に立ってこれからの舞台を眺める、という導入部的なところ。家の中には人間が、人間の中には血液が、と家と人間を対比・類推している…ってことは、このタイトルは…

この小説、ポーランドで電子書籍としても出版されて、なかなかの反響だったそう。
(2011 01/23)

始めも終わりもない…


この間少しだけ読んだ「昼の家、夜の家」。ポーランド・ドイツ・チェコの国境付近の農村を舞台に、様々な断章からなる緩やかな長編…断章のタイトルは、長編小説の中の小見出しにも見える。

中身は、独特の持ち味というかなんというか…今は言い当てる言葉が見当たらない。シュルツ…とも、やっぱりなんか違う。シュルツが空想というか妄想だとすれば、こっちは感覚というか触感というか…出てくる人物も「始まりもなければ終わりもない、歴史のない人物」。それはこの小説自体にも似て、緻密な織物(テクスト)を織り上げる。あんまり、読感?伝えきれていないが。

シュルツが「始まりも終わりもない人物」を描こうとすれば、どうすればよいのか? 無意識とか血で繋がっている土地の歴史を記述するには例えばマルケスなどラテンアメリカ作家の手法が役に立つ。ということで、ラテンアメリカ文学を経たシュルツと言ってもいいのかもしれない。
(2011 01/24)

のーほえあーまん。


「昼の家、夜の家」だが、何よりも感覚(特に触覚)を重視した語りにゾクゾクしてしまう。
「板張りのベットから起き出して、彼は足に羊の毛の柔らかさを感じた」とかとか。普通なら「彼が起きたら、足元に羊毛マットが敷いてあったのに気づいた」とかなんとか…になるはず。

語り手(イコール作者?)は、無重力の誰か固有の歴史ではない感覚がお気に入りみたい。標題はそんな感じ。
(2011 01/26)

劇中劇が中劇中になる日


「昼の家、夜の家」の作品構造は、前に述べた通り小さな断章が数珠繋ぎになっている。その数珠繋ぎ断章が、数編飛んだあとの断章で筋が繋がる。そういう筋つながりが追いかけっこしている一方で、すぐ隣の断章もなんらかの繋がりがある。小道具(キノコとか)や考え方の相似とか…

この追いかけっこストーリーの中で異質なのが、一つだけ(今のところ)時代も中世な、クマーニスとその生涯を書く修道士の物語。語り手と主な話し相手であるマルタが見つけた小さな像から増殖したこの物語。他の断章より長めに文量取りながら続いていく。ただこの断章も他と同じく、隣断章との関連構造も持っているため、まるで劇中劇が、表筋に裏返りそうな、そんな感じさえしてくる。

この裏返りこそがこの小説のテーマなのか、昼と夜、覚醒と眠り、生成と消滅…えにもあ。
(2011 01/27)

あなたはどちら?


「昼の家、夜の家」、今日のところはなんか「世界の終末」ネタ多し。そんな中、世界の人々のうち半分はもう死んでいる人々のダミーというか夢見られているというか…で、本来最初の生を生きている人々はごくわずかだ…という話があった。

この話題含め、小説内には、世界の人々の半分は誰か他の人々に夢見られているという構図がちらほら。そんなところはパヴィッチにも見られたもの。
(2011 01/31)

キノコとアロエ


「昼の家、夜の家」も残り1/3か1/4に突入。今週末には読み終えられるのか?今日のところは、厳冬下で倒れた仲間の人肉を食べて…その人が狼になるかならないかという、そんな物語を中心に回っている。そんな中、寄り添うような小品から。

まず、キノコ。キノコはこの作品全体で主役なのだが(笑)、書き手は夜にキノコが成長する音を聞いているらしい。ほんとかな?あと、毒キノコとされているモノを食べても書き手は平気らしい。ほんとかな?

次はアロエ。どんなモノでもそのモノが過ごしてきた記憶を内部に蓄積している…と語る書き手は、植物が唯一持つ感情は「退屈」なのではないか?と、お馴染みのマルタに話します。そしたら返ってきた答えが「そもそも死がそんなに悪いことなら、どうして人間は死にいくんでしょうかね」(大意)だって(笑)。

アロエは退屈なのかしらん?
(2011 02/02)

ポーランドの戦後問題


今日のところは標題にも書いた通りポーランドという国自体が大きく西に移動した(東側はソ連に取られ、西側はドイツからもらった?)戦争時の移住を描く断章。トカルチュク自身は1962年生まれなので実体験はないのだが、その世代が戦争の時代と向き合って描く…ということに、特に民主化以降のポーランドでは意味あるように思える。

この作品での描き方。やはりこの作品らしく草の根レベル(笑)。元から住んでいたドイツ人家族と、移住命令でやってきたポーランド人家族の共同生活。ポーランド人は水道というものを知らず、またある時にはドイツ人の聖画を捨てたりする。一方、ドイツ人家族の老婆は去り際にすさまじい呪いの言葉を掃き捨てたりする。そんな生活が日常生活の中に織り込まれて行く。そしてドイツ人家族が去ったあと、将校が地名がポーランド語のものになったことを告げる…
(2011 02/03)

家の主が変わる…という話は…小説冒頭の家と人間との類似性との連想も働く。家の中や庭をからいろいろ前住者の荷物が出てくる…のも、人の記憶と物の記憶のすれ違いのような、そういう小説全体のテーマと繋がっていく。
(2011 02/05)

「昼の家、夜の家」読了報告

 おなじように大切、あるいはもっと大切なのかもしれないのは、なかったこと、一度も起こらなかったこと、起こったかもしれないけど、想像のなかで起こればそれでじゅうぶんであることのために、場所を残しておくことだった。
(p150)
 いったいなにを話すことがあっただろう。人びとは、実際に起こらないことしか話さない。
(p330)


上のp150の文は、まさにこの小説の書き方の指針となるもの。断片の最初と最後をさっぱり切って貼り、かすかに見えてくる共通点を考える。
下のp330の文は確かにな、と思う一文。起こったことそのものは、その全てを言葉で規定することはできない。その為、どんな人がどんな書き方で書いても、必ず違うものになるし、そのものを描き終えることもできない。
(2011 02/06)

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