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「ポスト・プライバシー」 阪本俊生

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 かつては他人に見られることが、自己を不安に陥れた。だが今日では、他人に見られないことがかえって自己を不安にする。だとすれば、他人に見られないことがプライバシーであった時代から、誰かに見られることがプライバシーであることへと反転してもおかしくはない。すでに見たように、プライバシーというのは、基本的に自己を保守するためのものである。
(p26)

従来のプライバシー論との違い


プライバシーを守る個人側からではなく、プライバシーを利用する生産者?の側から見る。

隠蔽するプライバシーの問題と現代のデータベースにあるプライバシーの問題とは全くの別物であるという指摘が従来からされてきたが、この本ではそのどちらも同じ「土俵」で取り上げることを重視する。その「土俵」となるものが自己外に自己の何ものかを作り上げる「ダブル」(分身)。

隠蔽するプライバシーのダブルをファンタジー・ダブル(物語化)
データベースにあるプライバシーをデータ・ダブル


と区別する。前者は公表を前提とし、侵害された側は反発を感じる。後者は個人はデータベースに自己の情報があること自体は問題としないが、そこ(外部)にあることに不安を感じ、一つのデータだけでなく複数のデータが構造的に造り出す自己のダブルが増殖することを恐れる。
ちょっと前の現代人?が「レーダー型」(リースマン)であったのなら、今の現代人?は「GPS型」?(自己の位置のデータベースは外部にある)

 かくして個人の自分自身に関する超越的な特権性は、個人が自己の一貫性・同一性を引き受けることを意味していた。ところが人間は、現実にはそれほど一貫した行動をとりうるものでもなければ、生き方を変えることさえありうる。その一方で、自己の首尾一貫性のイデオロギーのもとでは、こうしたルールに反すること、つまり個人が矛盾する行動をとったり生き方や性格を変えたりすることは、個人の自己そのものを揺るがすことになる。このような近代の個人の自己の脆弱性こそが、プライバシーへの希求が生まれてくる産屋となった。そして実際、プライバシー問題の大半は、多かれ少なかれこの自己の脆弱性とかかわってきたのである。
(p87)


中世から近代への移行はもう少し丹念に見ていきたい気もする。またこうした「矛盾」を正当化してくれる装置の一つが近代小説ではなかったか、とも思う。すなわち、「人間は他人もあなたと同じように「矛盾」を抱えている存在なのですよ」と教えてくれる存在が。でもこれはこの本の立場からみれば「ファンタジー・ダブル」の創造でもある。

近代以降の聖域


では、近代以前では「超越的な特権性」「聖域」はどこにあるのか。それは遠い過去や離れた場所なのだという。それは神話や宗教といってもよい。その聖域が個人内部に移行したことによって、そこへのアクセスが簡易になり(アクセスという概念は「データ・ダブル」を論じる時にもまた重要になってくるのかしら)、プライバシーという概念が生まれる。この考え方はルックマンが提唱する、趣味・物神化から始まる宗教というのと同じ発想ではないか。

「個人自らも自分自身のなかにある複数の(自己の)ストーリーをもてあますという問題もある」
(p88)


あと、18・19世紀のスキャンダルやゴシップ記事が多く出るようになってきたという辺りも、また詳しく調べてみたい。

公私混同の問題


以前見た電車内の携帯電話の使用や化粧なども(公私空間の混在)、身体の社会性(ゴッフマン的に言えばドラマトゥルギー)の度合が低下しているから現れてきたという。

 むしろそれ(プライバシー)は個々人が、自らについての情報を(中略)生産し、そこから生まれる個人の自己を保持するために不可欠な情報流通回路の抵抗器なのである。
(p214)


この抵抗器が個人の内面にあったのが近代社会だったとすれば、現代はそこから外部のデータベースに抵抗器を移行しようとしている。その分個人の内面に対する抵抗は薄れる。個人の内面の優位性が社会の外部に立つことで可能とするならば(そこで詐欺師に対するある種の共感も理解できる)、現代は社会の外側に立つことができない状況だとも言える。上記の携帯電話や化粧は当人にとっては「なんか上が見ているからいいんじゃない」くらいの認識なのかも。こうした世界観はギデンズとかルーマンとか結構共通しているのかもしれない。

 社会に対して、優位にたつ可能性を主張しえた近代の個人主体は、ドンズロがいう「社会的なるものの上昇」を前に沈んでいくことになる。
(p219)


「社会的なるもの」はアレント「人間の条件」からだろうか。
(2012 12/24)

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