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「セルバンテスまたは読みの批判」 カルロス・フェンテス

牛島信明 訳  叢書 アンデスの風  水声社


池尻大橋の古書いとうで、フェンテスの「セルバンテスまたは読みの批判」を1575円で購入。
「われらが大地」を書いていた時の副産物?らしい。

「セルバンテスまたは読みの批判」読み始め

 異端の理論をざっと眺めただけでも、彼らが、中世の真の小説家としての地位を与えられるにふさわしいことがわかるというものである。
(p26)


作家がやっていることは中世からルネサンスにかけては異端が行っていた、ということらしい。p22にあるペラギウスがこの系譜のスタートか(後で調べといて、この人)。
でも、確固たる過去の権威への現在からの批判、だけでは真の作家ではない、らしい。現在のみに生きるものも現在の中で使い果たされてしまう。この2つの流れはセルバンテスの時代では、騎士道小説(過去)と悪漢小説(現在)となっていた。これを一つの小説に流し込んだのがセルバンテスだ、とフェンテスは言う。前者がドン・キホーテ、後者がサンチョ・パンサ。

 彼はみずからの創造たる『ドン・キホーテ』のページの中に、創造に対する批判を根づかせた最初の作家だからである。そして、この創造に対する批判は、ほかならぬ読みという行為の批判である。
(p38)


自己言及というか自己批判というか、常に未完成たれというか開かれた作品というか、とにかくそういうものを胚胎していないと、真の小説とはいえないのだろう。
歴史批評と小説批評を、コンパクトな130ページの中に凝縮した、ある意味お得な本・・・でも、それだけに息つく暇がない・・・
(2011 10/26)

補足:ペラギウスはブリテン島かアイルランド島辺りの(笑)聖職者。苦行とかして「清貧」そのものみたいなこの人が、「人は善に創られているものだから原罪などはない。各自自由に善を積み上げていくだけでよい」(だいたいの言うところ…)と、勉強したギリシャ語とギリシャ哲学の影響を得て発言する。それがアウグスティヌスなどの正統派(アウグスティヌス自身は、ペラギウスに感心してた点もあるみたい)と対立する。元祖プロテスタンティズム?
(2011 10/31)

ロハスの「セレスティーナ」


「セルバンテスまたは読みの批判」は、ドン・キホーテではなくその先駆的作品ロハスの「セレスティーナ」。ここでフェンテスはスペインの歴史を紐解きながら、ユダヤ系やモーロ人の文学的遺産について考える。

自らも改宗キリスト教徒(コルベルソ)であったロハスはグラナダ陥落の7年後にこの、取り持ち婆という何かと何かを結ぶ役割、他人には入ることができない何かに入ることができる人物(ここら辺できれば引用しといて…自分)としてセレスティーナを創造する…

また一方の改宗キリスト教徒は、逆に宗教裁判や異端審問に協力(というより、主体…差別される側の中に体制協力者を作るのはもう定石?)しているのだから…なかなかに、なかなかだ…
(2011 10/27)

信じる・知ると、問いかけの文学…その他


さて、11月に入って、「セルバンテスまたは読みの批判」も久しぶりに続きを。

今回読んだところの主な話題は、1500年代半ばのスペインで起きた反乱。これをスペインに世界に先駆けて起きた市民革命的なものと見るフェンテス。この反乱の事実すら知らなかった自分にとってはにわかに信じられない主張だが、さあどうでしょう。

そこに載ってた話題2つ。
まず、エラスムスなどの話題にかけて、信じることと知ることの違いの話。デカルト読んだ時にも出てきた。

もう一つは、問いかけの文学。話題はセルバンテスと同時代(命日が同じ?)のシェークスピアに。シェークスピアと言えばハムレットの「生きるべきか死ぬべきか」などに代表される自己に(ということは舞台を鏡として観客に)問いかける台詞。ここではマクベスを例に挙げている。これもデカルトやモンテーニュなどの懐疑に繋がる近代的自己。

ハムレットが「言葉…」と言う時、劇の登場人物として自分を成り立たせている(のを知って)その言葉と言った…というのは新解釈。
セルバンテスの場合はそれが分裂してる感じ?
(2011 11/01)

セルバンテスとジョイスとフロイトと


「セルバンテスまたは読みの批判」…一文一文が大変濃く、全文引用して、ボルヘスのピエール・メナールみたいになりそうだが…そうも行かず…
異端的読書とか、ドン・キホーテを愚弄する現実世界が逆にドン・キホーテ化するとか、いろいろ楽しい?論点があった。今回は今さしかかっているジョイスとの論点。

むかーしはスペインもアイルランドも同じ語源の言葉で呼ばれた、という。セルバンテスは「読み…一元的世界観…」への批判、ジョイスは「書かれたもの」への批判。セルバンテスとジョイスは小説の最初と最後で呼応しあっている。ふむふむ。

自分としては、セルバンテスと呼応しているもう一人の人物としてフロイトを挙げたいなあ。ドン・キホーテは現実世界を騎士道小説として読んでいたわけだが、それはドン・キホーテとしては「心的事実」。中世スコラの一元的世界を夢見ながら、近代の多様な「読み」にバラバラとなったドン・キホーテは、世界最初の精神病者なのかもしれない。それが極限化して表面化したのがフロイトのジョイスの時代…とすれば、現代は…
(書きながらまとまらなくなったことを軽くお詫びします(笑))
(2011 11/04)

「セルバンテスまたは読みの批判」読了報告または読書中報告

 彼らにあっては、言葉の目的地はその起点であり、言葉の起点がその目的地である。
(p116)


彼らとはセルバンテスとジョイスのこと。言葉の起源を探る試み。一つ一つの言葉が発せられる時の個人内部に起こっている起源、そして、人類の言葉そのものの起源。これは「ドン・キホーテ」や「ユリシーズ」読んでいる時、自分もちょっと思っていたこと。「ドン・キホーテ」では、確か収税吏(セルバンテス自身もそうだったと思ったけど)の想い出話の所。「ユリシーズ」は「Yes」かな、やはり。言葉についてジョイス論からもう一カ所・・・

 というのは、人間の一語一語は、それがいかに安っぽく、陳腐で、無意味に見えようとも、その憔悴した外見の背後に、また弱々しい音節の内部に、刷新のあらゆる種子と同時に、先祖伝来の、始源的、創世的な記憶のあらゆる反響を秘めているからである。
(p123)


この文読むと「やっぱりフロイトも・・・」ってまた、思ってしまう。言い間違いという無意味に思われていたところから「始源」への探求・・・まあ、それはともかく、これからは周りの人のどんなありふれた発現も大切に聞こえてくる(かも? だろう? はず?)。
さて、最後は(やっぱりちょっと長め)この引用文で締めようっと。

 しかし、科学、倫理、政治、そして哲学は、みずからの限界をまのあたりにすると、その不十分性を解決するために、文学の好意と不幸に頼る。そして文学と共にそれらが発見するのは、言葉と事象の永遠の離反、言語の表示的使用と言語の存在の体験の乖離だけである。文学はその乖離をうめたいと願うユートピアである。その乖離を隠蔽した時、それは叙事詩と呼ばれ、それをあばいた場合は小説=詩と呼ばれる。<憂い顔の騎士>の小説=詩は、言葉と事象を一致させようと戦っているそれであり、若き芸術家の小説=詩は、事象によって暗殺され、言葉によって蘇ったそれである。
(p130−131)


「文学はその乖離をうめたいと願うユートピアである」なんて、文学の定義として覚えておきたいところだなあ。

古代の神話、中世の騎士道物語やスコラ哲学などが確約していた一元的世界(言葉と事象の一致)を、あばいたのが、異端であり、セルバンテスでありジョイスであるとすれば、一元化の幻想を持たせようとする力は何も中世で消え去ったわけではなく現代も大きなものであり、また逆に中世の異端にみられるように(スコラ哲学もそういう断片くらいならあると思うけど)多元化する離反を認めようとする力も昔からずっとあり続けてきたものだと思う。
後者の始源はどこなのかなあ、と考えると、やはり「書き言葉」が存在し始めたところかな。書かれた言葉と読まれる時間にタイムラグが出るようになってから。ソクラテスが危惧したこの書き言葉の上に、文学は建っているわけだが(口承文芸はここでは除いておく)、その自らの母胎、その契機を批判的に創造的に(これは実は同じこと)疑ったのがセルバンテスでありジョイスである。そしてそれを読む私達も・・・

というわけで130ページに凝縮された濃すぎるこの本。も少し薄めてほしい気もするが(笑)、読み終えた。ホントデスカ? 
・・・ほんとはもっと取り上げたい話題は山ほど・・・クザーヌスとかブルーノとかヴィーコとかスペインの歴史とかデリダ(白けた神話)とかバタイユとか・・・
でも、異端と読書をつなげる、自分の関心分野を貫く常に持っていたい本、そしてフェンテス自身の小説の解読にも。
(2011 11/06)

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