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「対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義4 8歳から80歳までの世界文学入門」 沼野充義

光文社

この4回目の「世界文学講義」のテーマ(特に2から4章の小川氏、青山氏、岸本氏)は子供と世界文学。

岸本佐知子の章を「ノリーのおわらない物語」朗読手前まで(日曜日)。池澤夏樹と小川洋子の章(昨日)

岸本佐知子の章

岸本氏が子供の頃に読んだ「にんじん」(実際はいじめの陰惨な内容らしい)のルビに「だいこん」と降っていた(それから消しゴムで消したけどうっすら跡が残っている)という話、スティーヴン・ミルハウザーとニコルソン・ベイカーの翻訳。言い間違いを訳す時のために、日頃から周囲の言い間違い語録を貯めておくということ。

池澤夏樹の章

世界文学全集と日本文学全集。後者は江戸期(と樋口一葉)は、今の現役作家に現代語訳を依頼した。川上弘美とか町田康とか内田樹とかいろいろ。古事記は池澤氏自身が「指揮官が先頭に立って戦わなければ兵士はついていきませんよ」と河出書房の人に言われて訳した。後は、日本文学には英雄(戦争)叙事詩的なものがない(「平家物語」も無常感云々を表現するのが主)。それと池澤氏は中上健次とか石牟礼道子とかとは違って「根無し草」なのだと言っていた。

小川洋子の章

炬燵の中で寝転がりながら読んでいた子供の文学全集を家の間取りや町の地図書きながら読んでいたという子供時代。早稲田の文芸科で書いていた作品がなかなか採用されないのを「自意識過剰」と説明していた。沼野氏が言うには、小川洋子の作品には自分のことを説明できない人物がよく登場する、という。

 もはや名前もわからなくなった人々を死者の世界に探しに行くこと、文学とはこれにつきるのかもしれない
(p97 パトリック・モディアノ「1941年。パリの尋ね人」より)

 一つの小説を海にたとえると、案外、作家って上のほうを泳いでいるんです。水面近くを泳いでいて、あまり深く考えていない。考えすぎるとかえってよくないことがあって、流れに任せているほうが遠くまで行ける。
 しかし、翻訳家は一回、完成されたテクスト、織物を解かなければいけない。一番海底深くまで潜っているのは、編集者でも読書でもなく、校閲者と翻訳者だと私は思っています。
(p104)


それに対して沼野氏

 表層に向かって浮き上がろうとする言葉の浮力みたいなものに邪魔されて、本当の深みまで降りていけないのですね。言葉にできないような深いものがあるはずなのに、言葉にひっかかって表層を突き破れないというのは、外国語の専門家でもある翻訳者にとって、辛いところでもあるのです。
(p107)

岸本佐知子の続き

 ジャンルで好き嫌いというのは特になくて、出会い頭の衝撃の強度とか、内容よりも文章の肌合いだったり、そういうものが翻訳の決め手になることが多いです。
(p234)

 人間はあれやこれやのことを考えるものである。だが、たいていの場合はあれである
(p249 ムロージェクの超短編)


岸本氏が「大事なことは忘れていて、どうでもいいことばかり覚えている」と言ったのを受けて、沼野氏が引用。あれというのは、どうでもいいことなのか。
(2021 03/27)

青山南の章


1949年生まれ、「青山南」というのはペンネームで南青山に住んでいたからだという。兄に詩人の長田弘。沼野氏とは意外に古くからの付き合いらしく、文学雑誌で海外小説の紹介ページ持っていたり、沼野氏がジャズピアノを披露したこともあったという(そんなこともしてたのか・・・)
池澤夏樹の「海外文学全集」第1回配本、ケルアックの「オン・ザ・ロード」(昔は「路上」だったのをタイトルも改訳)が青山氏の訳。青山氏は翻訳の遅い(丁寧)なことで知られていて、河出書房の人に「青山さんだけの企画ではないのですから」と相当脅迫された?らしい。またジャニーズの歌詞に「オン・ザ・ロード」の訳文がそのまま使われていて話題になったとか。
アメリカでの翻訳書の割合は3パーセント、人文書に限ると1パーセントを切る。
五木ひろしの「よこはま・たそがれ」の冒頭は、ハンガリーのアディ・エンドレの詩のほぼ引用?
絵本の翻訳も結構している。最初は「文字数が少ないから楽だろう」的なノリだったらしいけれど。

 子どもたちが絵本の中の何を喜んでいるかというと、ノイズといったら身も蓋もないですが、そういう話の中心とは関係のない、たとえば横っちょで飛んでいるチョウチョとか、そういうものでもあるわけですね。
(p153)


絵本の方にもこうした「ノイズ」が載っているものが多いという。
小笠原豊樹の話題。英仏露の三ヶ国の翻訳のほか、岩田宏の名で詩も書いている。ブラッドベリの「火星年代記」とかジョン・ファウルズの「魔術師」(英語)、プレヴェール(フランス語)、「マヤコフスキー叢書」(ロシア語)

マイケル・エメリックの章

 『源氏』については注釈本だけだって、数えきれないくらい出ているし、明治期以降の現代日本語訳の数だって、相当なものです。となると、じつは千年前のテクストそれ自体だけでなく、こういう長い受容と読解と評価と再評価も含めて、その全体こそが『源氏物語』だと考えたほうがいいのかもしれません。
(p269)


ロイヤル・タイラー・・・『源氏物語』完訳としては2つ目(ウェイリーのは完訳ではなく、最初の完訳はサイデンステッカー)(2001年)、なのだけれど、あまりに翻訳(全般)に対する評価が低すぎるとして教授を辞任してしまった。
ヴェヌティ・・・「翻訳の不可能性-翻訳の歴史」で、翻訳の方向性を「自国語化」(ドメスティケーション)と「外国語化」(フォリナイゼーション)に分けた。英米では前者の比率が、ドイツやフランスでは後者の比率が高いという。ただ、二項対立ではなく、程度の問題。
ロシアでの日本文学アンソロジーの記者会見で、沼野氏は「『源氏物語』から吉本ばななの『キッチン』という日本文学は進歩していると言えるのか?」と質問を受けてしまった。その時は曖昧に?切り抜けたが、後でロシアの新聞の文化欄に写真入りの記事で大きく掲載され、記事タイトルが「ミツヨシ・ヌマノ 進歩を信じない男」となっていた、という。
川上弘美の「真鶴」のエメリック氏の英訳、それにロシア語、ポーランド語、フランス語の訳文比較。

あとがきに代えて


2015年の文部科学省の「人文社会系の大学組織の社会的要請の高い分野への転換」指示は、沼野氏だけでなく、「ウォール・ストリート・ジャーナル」も批判したという。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ・・・「戦争は女の顔をしていない」、「ボタン穴から見た戦争」、「アフガン帰還兵の証言-封印された真実」、「チェルノブイリの祈り」地道なインタヴュー、聞き取りの積み重ね、どの著作も全く手法を変えずに「金太郎飴」のごとくやっている。彼女自身の言葉はほとんどないものの、これは彼女自身の著作なのだ(ここは石牟礼道子も同じ)

エミリー・アブター・・・「トランスレーション・ゾーン」・・・「戦争とは極度の誤訳や不一致を、他の手段によって継続したものである」「戦争とは翻訳不可能性や翻訳の失敗の状態がもっとも暴力的な頂点に達したもののことだ」
(p332)


「詩とは、翻訳によって失われてしまうもののことだ」(ロバート・フロスト)
「『世界文学』は、翻訳によって価値が増す文学である」(デイヴィット・ダムロッシュ)

 うまく翻訳できない、相手のことがよく理解できないということをきちんと受け止めて、なぜ翻訳できないのか、なぜ理解できないのか、について考えることから、翻訳も異文化理解も始まります。
(p340)

(これで、このシリーズで読み終わった分は終了)
(2021 03/28)

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