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「集英社ギャラリー[世界の文学] ドイツⅢ・中欧・東欧・イタリア」 アルベルト・モラヴィア、チェーザレ・パヴェーゼ

池田廉(モラヴィア)、河島英昭(パヴェーゼ)訳  集英社

(モラヴィアとパヴェーゼ以外の作品は読んだことあったので、ここではこの二人の作品を読む)

モラヴィア「侮蔑」


昨夜から今朝にかけてモラヴィア「侮蔑」を読んだ。集英社版世界文学ギャラリー版。

この作品の中でオデュセイアの映画化(主人公はシナリオライター)が進み、ホメロスの解釈を巡って主人公と監督、それにプロデューサーとの意見が合わず、カプリ島の美しい風景の中、計画は頓挫してしまう。
その議論中、フロイトの精神分析を持ち込むドイツ人監督の前で、主人公はジョイスを引き合いに出す。が、一方で監督のオデュセイア解釈は主人公夫妻の関係を言い当てるような展開となっていく。
またユリシーズとの関係でいえば、主人公はブルームともなり、ドイツ人監督はスティーブンになる。ユリシーズ第9挿話でスティーブンのシェークスピア解釈がいちいちブルーム夫妻に当たっていたように。

ユリシーズではブルームとスティーブンは仲良く?なるのだが、モラヴィアでは、2人は仲違いし、主人公の妻も誤解?が解けないまま、事故で亡くなってしまう。これはユリシーズの時代からさらに、現代人が孤立化している証拠なのだろうか?それとも…

モラヴィアからパヴェーゼへ。集英社版世界文学ギャラリーは進む。詩小説の点描画家。
(2007 07/29)

「侮蔑」と「ユリシーズ」を隔てる時代の長さというのは、想像以上に大変なものかもしれない。昨日書いたスティーブンとブルーム、「侮蔑」のシナリオライターと監督という2組の関係も、そこに起因するのかも。
「ユリシーズ」にしても、「失われた時を求めて」でも、それから「魔の山」にしても、第一次世界大戦前への懐古の念でできている、とそんな気がする。「侮蔑」な世の中に対する、もうどこにも存在しえないアンチテーゼ。
(2007 07/30)

パヴェーゼ作品集


前に点描画家と書いたのは、心象を画家のように切り取り、断片化・再構成し、「後は見ている人の目で混ぜてもらおう」という画家に似ているところがあったから。が、パヴェーゼの場合はそれだけでなく、どうやら筋に一番欠かせないところを後回しにするか、語らないという戦術をとる。
例えば「丘の上の別荘」という短編では、どうやら主人公の幼馴染みの女と、別の青年が肉体関係を持ったという話。ここで問題なのは、久しぶりにこの幼馴染みに会いにきたという日が、彼女の結婚式(夫は主人公とも先の青年とも違う人物)だということ、そしてそれが作品中に明記されていないという点。自分は解説読むまで気付かなかった。
(2007 07/31)

ここに収められている作品を含めた、岩波文庫版パヴェーゼの感想はこちら ↓


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