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「日本人の中東発見 逆遠近法のなかの比較文化史」 杉田英明

中東イスラム世界  東京大学出版会

相変わらず?読み順がランダム…

第3章「近代中東世界の日本発見」から第2-4節

第2、3節
ハーフィズ・イブラーヒムの「日本の乙女」は、日藝戦争開始直後に発表され、レバノンの1970年代の教科書にも使われた。
アブデュルレシト・イブラヒムは、実際に日本に来て、日本をイスラム化してアジアをまとめようという取り組みをしていたのだが…
第4節、浦島伝説のアラブ(エジプト)とイランによる翻訳2編。エジプトのタウフィーク・アル・ハキームの戯曲「洞窟の人々」。この話自体はコーランにもあるが、オリジナル?は450年頃成立の「エフェソスの七眠人」というキリスト教聖者伝。これがアラブ・ラテン双方に伝播。この物語内物語、もしくは物語の裏構造として浦島伝説が使われている。一方、イランのサーデク・ヘダーヤトの浦島の翻訳。

 「俺は年老いてしまった」と浦島は呟いた。
 彼は小箱の蓋を閉じようとしたが、それも投げ出すと、こう言った。「なかに入っていた煙は永遠に失われてしまった。でもそれが何だと言うのだ。」
 彼は砂の上に身を横たえて死んだ。
(p250)


ヘダーヤトの関心は明らかに帰還後の浦島。杉田氏はこの8年前に書かれた彼の代表作「盲目の梟」との共通性に着目している。「盲目の梟」と同じ題材が日本に昔からあって驚きと再会の思いを感じたのだろうと。

第1章

p8、9の日本語になった中東語の表。そして日本の僧慶政(鎌倉期)が泉州で3人の南蛮人に書いてもらった当時のペルシア文字の詩が書かれた紙片など。
(2022 11/21)

第1章続き
アラブの世界地図では、日本(ワークワークの国)がアフリカ南端ソファラよりも南に位置しているのもある。これは、この地図の世界観ではアフリカが中国に対峙するほど、東に張り出しているということからきている。
ワークワーク(倭国からきているらしい)という言葉は、人間の形をした木の実という伝説の木の名前にもなっている。しかも、アラブ辺りでワークワークの木は日本や中国にあると話ではなっているが、一方、日本・中国では、ワークワークの木があるのはアラブ側という、話の交互交換みたいな現象がある。このワークワークの木の実というモティーフは、実際にはココヤシの実であるらしい。ということで、p44の人木の絵が怖い…
(2022 11/22)

第2章、日本の中東発見

江戸時代、新井白石の書はイスラムの記述も含む画期的なものだったが、キリスト教の記述もあったため、禁書扱いになってしまう。白石の理解は鎖国中の日本としては正確で、世界の宗教を異教、キリスト教、イスラム教と分けて、さらにイスラム教とキリスト教は神が一であることにおいて同じであると書いている。この当時の日本の地理書は、引用元の中国書籍が唐宋代の古い記述と明以降のものが混在していたため、同じ単語の書き方が何種も存在し、それらが全く違うものとされていた。

19世紀に入り、駱駝が二度日本へやってきた。一度目のアメリカ艦隊の時は幕府が拒否したため上陸しなかったが、二度目はオランダだったので、この2頭の駱駝も上陸、見世物としてブームになった(1821)。駱駝についての日本人のイメージとして、大きいのに役に立たない、「楽だ」にかけて気楽なイメージ、つがいで来たためそのイメージの3つがあり、そのうち前2つは今でも引きずっているという。この頃、その2つのイメージからできたのが、上方落語「らくだの葬礼」(「らくだ」)。

この頃から開国、明治初期にかけて、日本の地理書も進化し、現地写真を版画に落として掲載する本も出てきた。また日本人のヨーロッパ行きは、スエズを通るため(岩倉使節団はスエズ運河を通ったかなり初期の例)日本人が直接イスラム世界を見るようになった。その感想として、現地にある西洋技術への驚嘆(汽車、スエズ運河)、現地人への搾取、貧困、町の凋落ぶり、そして荒漠とした自然への驚き。現地社会に関しては、この時期が圧政により貧困が最低辺だった(この少し前に訪れたイギリス人の記述からはそこまでの凋落は感じられない)ことを加味しなくてはならない。また、アデン沖に停泊していた船から蘇東坡の漢詩を意識した漢詩を書いていた人もいたりする。もう少し後になるが、和辻哲郎の「風土」では

 しからば「至るところに青山があること」は風土的の意味においても人間の存在の仕方である。かかる青山的人間がある時インド洋を渡ってアラビアの南端アデンの町に到着したとする。彼の前に立つのは、漢語の「突兀」をそのまま具象化したような、尖った、荒々しい、赤黒い岩山である。…(中略)…ここにおいて青山的人間は明白に他者を見いだす。単なる物理的な岩山ではなくして、非青山的人間を。従って非青山的なる人と世界とのかかわりを。
(p110-111)


(「突兀」は「トツゴツ」(コツ?)と読む)
中東においては「沙漠」的な性格より、「都市」的性格の方が近年では重視され、和辻の記述はそのままでは受け入れられていない、と杉田氏は言う。ただここから派生して「砂漠の思想」の系譜は続いているとも。斎藤信治(のちにキルケゴール学者)「沙漠的人間」(1946)、花田清輝「沙漠について」(1947)、安部公房「砂漠の思想」(1958)など。またドゥルーズとガタリの「千のプラトー」の思想、そしてこのノマド思想を援用しアラブ・イスラム社会を論じた黒田壽郎「イスラーム世界の社会編成原理」(『共同体論の地平-地域研究の視座から』)がある(注から)。

第2章残りと第3章から第1節


エジプトのウラービー運動(民族主義運動)の首謀者で、セイロン(スリランカ)に流されていたウラービーのところへ、西欧などの行き帰りで寄って会談していく日本人が多かったという。イランへの使節は、ヘディンのロプノール探検とほぼ同じ行程を行った。
日本での「コーラン」翻訳とイスラム解釈。初期のもの(明治期)は、ヨーロッパ宣教師の手を経ているために、「マホメッドは淫乱だ」などという悪意的な眼差しがあった。明治から大正になる頃には、カーライルの超人志向マホメッドの影響を受けて、先のヨーロッパ人の悪意的要素を取り除く。コーランの原語訳は井筒氏が最初。
メッカ巡礼に行く日本人、そしてムスリムになる日本人も。彼らはメッカ巡礼での危険性(暑さなど)を述べ、また巡礼の意味を知らずに行っていた人もあるという。また彼らの一部は、日本膨張主義、大東亜共栄圏のための訪問という面も持っていた(アブデュルレシト・イブラヒムとの関わりも)。

第3章第1節では、中東からの日本発見。イランのサッハーフバーシーとメフディーコリー・ヘダーヤト(作家ヘダヤートの父親)の日本旅行記。
前者(1897)は中国・日本の商品を商う店をテヘランに持ち、しかし旅行記の筆致は結構冷めている。銭湯での混浴、裸体を構わず晒す女性に閉口した(これは西洋人も同じ)。
後者(1903)は政治家かつ友人のアターバク・アァザムに随行し、日本の政治家(桂太郎、伊藤博文)らとも会談した。文化・思想は日本のままで技術は西洋にという「和魂洋才」の思想を見抜き、これをイランでも実現させようとアターバクと話す。が、帰国後すぐにアターバクは暗殺されてしまう。
そいえば、副題「逆遠近法」って何だったのだろう?
(2022 11/23)

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