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「海道の社会史 東南アジア多島海の人びと」 鶴見良行

朝日選書  朝日新聞社

移動社会と定着社会

今日は図書館でマカッサル海峡海道の本を借りた。
まずはミンダナオ、スラウェシ、マルクの各島とそのつながりについて、ヤシとマングローブの解説など。

 風景には全体が含まれている。その意味を読みとるには、眼と足を鍛えなければならないようである。
(p56)


駒の再使用(敵味方どちらでも使える)を認めた日本将棋のルールは中国や西洋には見当たらず、とか、日本人の正座は丸太舟がバランスを崩さないようにするところから、とか、この辺りと日本の共通点?がいろいろ浮かび上がってきて楽しい。
南スラウェシでは移動分散型の社会が成立しており、王とは「契約」で村の安全保障ともめ事調停を求めた。それがうまくいかない王の元では民衆は逃げていく。定着農業による封建制では逃げられず、最後に「反乱」する。日本人の心性としては前者か?
(後の補足:中世では日本やヨーロッパ(ここはもう少し要調査)でも「逃げる」(逃散)はあったという)
(2010 06/20)

さまざまな交易


「海道の社会史」はマルク圏に入る。ここはモルッカ諸島(香料諸島)を含む。
ここで鶴見氏は移動する人々の荷物が異様に多いことに着目し、それを手土産経済と名付けた。手土産はインドネシア語で「オレオレ」というから「オレオレエコノミー」だと。

この辺り全体で栽培等されているものを手土産とするのだから、特に自分たちのところにないもののみを交換する、というわけではなかったらしい。交換する、ということが先にあって、それで品物はあとから決められる。マリノフスキーのトロブリアント諸島の研究(クラという貝殻の交換)を思い出すが、割と位置近いのでは。
交換(交易)の必要性については、鶴見氏は19世紀のイギリス船長アール氏の言葉を引用している。

 交易は、このいがみあう人びとに平和を与え自制心ある社会にまとめていく魔術である。ここの人びとは誰もが交易商人であり、その交易がうまく運ばれるためには平和が必要だと誰もが知っており、そのために世論が生れて無法状態を防ぐのである。
(p141)


ホッブスの社会契約論に対し、社会交換論とでも言おうか。人類学の知見というものは、意外にみんなうすうす気づいていたのかもしれない。
あと、交易に関しては古いタイプの村はずれの高い木の下での沈黙交易(モノを置いて立ち去ると、隣村の人がそれを持ち去り代わりに別のモノを置いていく)も面白かった。隣村なのに言葉が通じない、ということもあるけれど、自分はサハラ砂漠の岩塩とか金の交易もそうだったなあ、と思ったりした。
(2010 06/21)

インドネシアへのアヘンと奴隷


「海道の社会史」から、今朝は19世紀頃まであった貿易の一種について。イギリスがインドなどでケシ栽培をして、それを中国に売り付けようとしてアヘン戦争が起こった…というのが、世界史教科書の本道?だが、それ以前にももちろん?アヘンは流通していて、現地交易商人達の一部は半分中毒状態であった…という話。

一方、奴隷の方も西洋到来前から海賊稼業に付随して奴隷狩りが行われていた。それがオランダ支配下になって加速する。もともとの奴隷商人等の力を借り、主にインドネシア東部からニューギニアにかけて。
ここに書いたのは本に書いた抜粋であり、実際にはもっと双方向に複雑なのだが。
あと、磁器や銅鑼のうち高級なもの(日本の伊万里など含む)は、半分呪術的に使われたそう。まあ、今で言う床の間に飾るみたいなものなのかな。
(2010 06/23)

オーストラリア大陸との関係と海産物交易


マルク諸島の人々はオーストラリア北岸で現地のアボリジニ達とナマコ漁をしていたそうな。香料貿易の熱が冷めかけたころから。一方、オーストラリア東岸との交流はほとんどなかったという。東岸地域は太平洋の島々と交流していたということらしい。この両地域を分けるのがヨーク半島とトレス海峡。

海産特産物の交易は、ほぼ香料貿易熱が冷めた(カブの栽培で家畜の餌が年中手に入ることから、香料の需要が小さくなった為)頃から目立ち始める。香料貿易との違いは、ここが特産地域ではないこと、加工などに香料に比べはるかに手間ひまがかかることなど。
(2010 06/25)

スールー海、南ミンダナオ島地域

言及地域は国が複数に渡るが、ここで鶴見氏が言っている通り、住民やモノは国を越えてここではマカッサル海道を経由して動いている。

南ミンダナオ、コタパドはフィリピンには珍しく大きな川が流れている。ここの中流域では米作農業が主流。一方河口では交易を中心とした町がある。この両者はよく対立した。またこの河口より上部で川の合流点では、この合流点を治めている所と、河口の町2カ所の二重支配が行われている。こういう状況みるとコンラッドの「ロード・ジム」や「闇の奥」を思い出させる。

当該地域は20世紀に入るくらいまで、イスラム勢力の抵抗等あった為、どの国の領有か定まっていなかったところ。その為、スペインの後で支配者となったアメリカでは、「ミンダナオをアメリカの一州に」とか「アメリカに移住してきたユダヤ人をミンダナオに植民しよう」などの案も出てきた。前者では、ミンダナオにハワイが、後者ではミンダナオにイスラエルが成立する・・・ことになったのかもしれない。

一方中国人も多く移住してきて、米の精米・流通などをとりしきる。この人達の記録は中国側(貧農だったから)にも、現地側にも残っていないという。そして鶴見氏が一番心配しているのは、現地の研究者がこういう国を越えた住民の動きというテーマをほとんど取り上げていない、というところ。
読み終わったけど、アイランド・ホッピング、してみたい…
(2010 06/28)

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