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「黄金時代」 ミハル・アイヴァス

阿部賢一 訳  河出書房新社

「黄金時代」


アイヴァス「黄金時代」読み始め。カボヴェルテとカナリア諸島の間にある島への、二度目の旅。
「もうひとつの街」と同じようにやはり古本屋(今回はミュンヘン)から始まる。

物語前半は、この島の地誌学的、人類学的記述になるが、ユートピア的、あるいはエキゾチズムに陥らないように、度々語り手から注意が差し込まれる。まずはものと表象について。これを読む限り、この島の住人は刹那刹那で自分も外界も変わっていくらしい。それが一番エネルギーを使わない…

 名前は、命名されたモノの特性によって満ちていくばかりか、モノそのものに影響を及ぼし、変形をもたらすことさえあった。対話が進むにつれて、名前とモノは熟し、変容し、そして消失した。
(p18)


この島の町は「上の町」と「下の町」があり、「下の町」は貿易港のよう。一方「上の町」は、滝というか錯綜するデルタの上に建てられた町。家の外壁も内壁もそうした水の流れのみでできている。そして、輸入のほとんどを占めるという鏡が家のあちこちに置かれている、という。細い、幾筋もの上に流れる水の簾を挟んで、家の外と内で人が対峙する…このイメージで、既に自分はどこかへ持っていかれてしまった(笑)。

 水の壁の向こう側にいる人たちが見ているのは壁の表面に揺れ動くものだけで、その形は私たちにすこし似ているにすぎないの、これが彼女の答えだった。
(p23-24)


(2022 09/09)

秘密の戦争

第6章「秘密の戦争」昨夜読んだのだが、このヨーロッパ人の来訪と馴化を書いてあるここで、作品タイトルである「黄金時代」という言葉が現れる。

 かれらは、けっしてヨーロッパを忘れたわけではない。けれども、北方にあった町は、今あるこのひとときという幸福な夢に変わってしまった。その夢は、熱い壁の間を上昇し、海のざわめきと同じくこの空間に属しているものだった。そして、沁み、ざわめき、目的のない旅という黄金時代が始まったのだ。
(p40)


最初は近代的意識で来訪したヨーロッパ人たちが、この島では刹那の連続としか見なくなってくる。そしてそれが「黄金時代の始まり」なのだという…あと、チェコの人々は「ヨーロッパ人」ではないのか、ここら辺はアイヴァスの目配せなのかな。
(2022 09/12)

島の王

今読んでいるところの中心?話題は王について。この島には王がいる。ただそれは「君臨する」というような通常王につくイメージとは真逆のもので、様々な状況のめぐりあいを経て、島の誰も確かなことがわからないままに王の交代が静かに行われる。島の人々の意識の空白が自然に王を泡沫のように浮かび上がらせては、消えていく…といったような存在。

 唯一可能なことは、言い間違えから生まれる言葉に耳を傾け、水や風のざわめきのなかで消えていく言葉に耳を傾けること。そして、それらが沈黙したら、同じざわめきに耳を傾けながら、王の夢を思い描いてみること。
(p46)

 だが、あらゆるざわめきが混ざり合う物語のうち、すくなくともひとつは解き放たれて発せられるのではないか、ざわめきのほつれから出来事の系がすくなくともひとつは解明されるのではないかという切実な期待が響いているのも感じていた。
(p56)

 (語幹は、島の語彙のなかで、島の政治組織における王と同程度の重要さしか担っていなかった)
(p59)


(2022 09/18)

バウムガルテン

第12章から物語が少し動き出す、ように見える。プラハで会った人物の語りになる。その人物はそのまた友人というバウムガルテン(アイヴァスお気に入りの美学者の名前でもある)のチェコからパリに至る話を語る。
チェコの農家では、古びた農具がギリシャ文字に見え、並べて解読するとオデュッセイアの句になったり、パリのデパートの屋上では看板文字の間で女泥棒と追いかけっこをしたり。後者では、様々な文字のヒゲとか嘴とかにつかまったり滑ったりしながら徐々に泥棒を追い詰めていく…という中で、戦前のアヴァンギャルド雑誌に載っていたというカレル・タイゲの「そうした文字装飾はブルジョア的だから廃するべき」という説が回顧されたり(実在のものかはわからないけれど)する。

 文字とモノが融合し、それに関して、チェコからの亡命者が語ってくれたふたつのシーンは話し終えてしまった。おそらく気づいたことだろう。農場の中庭のシーン(モノが文字に変わる)と百貨店の屋根のうえのシーン(文字がモノに変わる)のことだ。それでは、島にふたたび戻るとしよう。
(p87)


…とかなんとか言いながら、またここに戻ってくるのだが…

 島民の無神論は表面性と近接性に対する特殊な神秘的な感覚を有しており、高貴なとでもいうべき、繊細な振る舞いが発展していく空間を生み出したということだ。
(p95)


上の町の流れる水と音の描写にもあったように、表面性と近接性(深層を追わない)というのは、この島の特質でもあるし、比喩表現などの始まりでもある。

 ここでは、形が持っている力と強度は何の役にも立たなかった。また、物質は形に対して関心がなく、形に抗うようなこともなかったが、物質は形を螺旋の舞踊に誘い、有毒な息を吐きかけて力を消耗させていった。
(p99)


物質と形というと、ヒューレーとエイドスというアリストテレスが頭に浮かぶが、それより何よりこの文章の巧みな味わいをみよう。そして、また、この小説自体の見取り図ともいえる?

さてさて、先程「島に戻るとしよう」と言っていたのに、2章経て、またパリのバウムガルテンと女泥棒のところへ戻ってきた。そこで女泥棒が語るのが「ベルリンの巨匠」が描いたという絵画。そこに描かれていたのか、それともこの女がその絵から勝手に物語を想像したのか、細かく増殖する物語がこの絵に挿入されている。そして、盗品のネックレスをバウムガルテンに返し、彼の家へ送って女は去っていく。翌日、彼は女の言ったその絵がある画廊に行ったがそんな絵はなかった…というところで、プラハの友人の話は終わる。
その次の章は、あろうことか?この話の振り返り…

 世界のなかにあるわけでも、世界の外にあるわけでもないその空間は、奇異でありえない世界のなかにあるが、文字の力とともに開いていく。この割れ目を通して、何らかの不穏な活動を見ることができ、その活動は、私たちの世界の活動の源に到達していて、あらゆる世界の誕生でもあり、消失でもある動きをみることができる。
(p124)


ここ読んできて、特にこのように物語を変えた方がいいだろう…と語り手が述べる時、自分は、作者自体は語り手と違って、そんなことは思っていないのでは、とも思った。さてどうか。それに続くのが、読者への呼びかけと、ここまでは昨晩書いたものだという告白。しかし別にそれを全否定に持っていくわけでもない。

 物語は、そもそもこのような中断によってのみ構成されている-、そのことを確証し、補完している。つまり、物語においては、すべてが見事なまでにそれぞれの位置を占め、関連性は非関連性によって形成され、統一体は断片によって形成されていたのだ。
(p127)


ボードゲーム(チェス?)のコマとマス目の入れ替わりは、作者と読者の入れ替わり。後半の「本」にもつながる。

最後の島


第24章「最後の島」。この最後の島というのは、例の島から帰ってきたヨーロッパのこと。ここで引かれるのがまた「オデュッセイア」。

 故郷、つまり最後に訪れた島で唯一残されているのが困惑している民俗学者という役回りで、周囲で繰り広げられている、ときに憂鬱な気分になる、無意味という感動的な美に浸っている謎の儀式を観察するしかなかった。
(p140)


ここまではいかないけれど、例えば海外旅行から帰ってきた時などにこれに似た感覚を覚えることがある。それが「美」がどうかは気づかなかったが。
この小説は全体が「オデュッセイア」の語り直しなのか。

 大事なのは、この変容のリズムと融け合うことであって、私たちが訪れる島や町や土地で生まれていく時間に身をゆだねることであり、リズムの展開や目的のないメロディーに、運動の正当性があるかどうかは考えてもしかたない。運動が意味をなすとしたら、それは自分の内側や中側だけだろう。
(p141)

島と本


今日、夜の部。ついに「本」が出てくる。の、前に、語り手が殻に入れた白いイカスミの発酵料理?(ちなみに島では全く火を使わない)の宴の際に披露した話が挿入。プラハ を散策していたら、川船に乗って人形劇を見るというもの。この戯曲がまた不条理極まりないもので、その中で、木製の人形は…

 身体が、手あかのついた本のようにばらばらになりはじめるのが見える
(p159)


ここ、のちの「本」を予感させていないか。「本」は島でただ一冊、至るところに襞というかポケットがあって、そこにも小さなサイズの「本」が入っている。そして、「本」は背がなく屏風型になっている、先の木製人形のように。

 すでに述べたように、島民は境界の領域を愛していた。島での生活はふたつの境界線上で進行していた。ざわめきと螺旋という無形の世界と、「本」というバビロン的な建築の世界のふたつにおいて。両者の空間はたがいに影響を及ぼし合って次々と誕生したのだが、驚くことにきわめて似通っていた。
(p175)


理解するのがかなり難しいのだが、そうらしい(笑)
今はざわめき、瞬間を楽しむ島民と、バビロン的と言われる「本」の同居を受け入れることが(本の仕組みがどうあれ)まだできていない。これが「本」の話が展開されるにつれ、どうなるのか。
(2022 09/25)

唯一の本

後半、「本」の部。
第33章までは「本」の説明…島で一つしかない「本」は不定期に回され、挿入・加筆・消去で絶えず変容していた。誰でも挿入ポケットつけて話を挿入したり、ポケットごと入れ替えたり、あまり「本」を大声に取り扱っていなかったため、濡れて沁みができたり(沁みはこの島では宗教的対象になったりするもの)して。

 その言葉と前の言葉のあいだには絶対現実の挿入と仮想の挿入という底なしの穴が口を開いているからだ。「本」は内部から崩壊してしまった。膿を出し、幼虫が巣食い、目に見える言葉、目に見えない言葉がうごめいている。読書を中断しても、この落下から逃れることはできない。「本」それ自体がある種の挿入であるのを私たちは知っていて、この暗い落下は「本」の内部空間に限定されるものではない。
(p183)


この「本」の話は、紛れもなくこの本(「黄金時代」)の挿入であって、ひょっとしてこの自分の生活空間もなんらかの全体に挿入されているものだったりして…

 その名もなき書き手は、おとぎの国の列島で何世代にもわたって繰り広げられているふたつの王家の戦いについて-そこからは、草地のキノコのように、挿入が何十もある白いポケットが伸びている-多くのページを割いて綴っていた。
(p198)


このあと語らえるふたつの王家の物語は、前の世代の憎しみが少しの穏やかな時期を経ながら、次の世代の憎しみへ、そしてまた…という物語で、草地のキノコや白いポケットが続いていくこの「本」の具体例として相応しい…というか思想代弁しているところがある。
というわけで、この次の章から、ふたつの王家の物語が始まる…のだが、今までの例を見てだいたい3、4章分くらいかな、と思っていたら、なんと小説終わる直前まで(もちろん他の話の脱線含む)続いている。途中まで読んだが、小説前半の奇妙な絵画の話や不条理人形劇の話に比べて、幻想的な小道具もあるけれど全体的には通常の物語に近い、ので読みやすい。
でも、幕間でプラハ に銀色UFOが飛ぶのだけれど(笑)
(2022 09/26)

浮かび上がる物語

 彼女には、この世界は静かな光を探し求めているように思えた。その光のもとで自分のかたちを発展させることができ、まず夢に現れ、そののち部屋の壁や床に現れた静かな光は大いなる賭けの世界やモノを恋い焦れているように思えた。
(p222)


この発言は彼女(チェコで「イリアス」の映画を撮ろうとしている人)の発言なのだが、この辺まで来ると、誰が、とかどの階層で、とか関係なく、とにかく何回も繰り返されているものがテーマであるという読みに変わって来る。ここのテーマもまたあとで出てくる。

 どの物語にもほかのすべての物語が含まれているのを。
(p228)


これも話者は同じ、プラハ の「イリアス」の女性。ということは、この島の「本」や「黄金時代」というこの(奇妙な)小説だけでなく、一般的な物語も同じ構造が含まれている、ということなのか。少し信じ難いが、それを、世界の立ち上がりを静かに聞き取ること、p222の何かを探し求めている光や、隣のスウェーデン語かノルウェー語の細々と聞こえる言葉をチェコ語で残酷な話と聞き取ってしまったこの女性の例も、新たな世界を立ち上がらせる方法なのかもしれない。
続いてガトーが織る絨毯は、小説前半の「ドイツの巨匠」の絵と対応関係にあるのかも。

 鼓動やエネルギー、空間の力の引き潮や満ち潮を感じるようになるまで、それぞれ空間の声に耳を傾けつづけ、それらの活動をもとに、ゆっくりと形が結晶化していく。
(p249)


ここは、フォーの宮殿の芸術家ミーについて。ということで、p222のテーマの変奏であるのと同時に、前に形相と質料(エイドスとヒューレー)について挙げたp99の文章にもつながっていく。立ち現れ方は様々。
(2022 09/27)

寄り道スルーした者は最も感動的場面を逃す


今日読んだところのまとめは明日以降まとめて。今日はただ、もう寄り道だらけでわからなくなる、と、また新たに始まったチェコの演劇の場面にご丁寧にも、「ここをスルーするのはいいけど、鍵となる場面を見逃すかも」みたいなこと書いてある。そこにあったのは、この小説で一番(通常の小説のような)感動的な場面。しんみりして暖まるハイデルベルクの場面。
とりあえず300ページ越え。
(2022 09/28)

とりあえず、昨日の読んだところの引用から。

 幸せとは、山を登ったり、大学図書館に坐って、明るい光がページに差す古い分冊をめくること。私たちはここで短い自分の黄金時代を謳歌しているんだよ。そして来世になったら、不安と絶望を感じながらも、そのことを想い出すんだ。
(p289)


上記、ハイデルベルクの場面から。(この小説読み切った現時点から振り返ると)最終場面の陰惨な恐怖政治と侵略が、この場面と対になっているような。
あと、「もうひとつの街」でもエイとか出てきて、こっちはダイオウイカ。アイヴァスは海の巨大生物が好みなのか。チェコは内陸国なはずなのだが…そいえば、チャペック「山椒魚戦争」もその系譜かも。あちらはご丁寧にもヴルタヴァ川遡ってくるし。

 あらゆる芸術作品のテーマは、混ざり合っていくもの、相互に言及するもの、そのふたつであるのを。人の顔の様々な特徴は全宇宙から寄せ集められ、宇宙は顔という鏡のなかに現れる。
(p297)

 真の現実とは現実の誕生であり、現実の誕生とは、神話から否定され、亡霊が群がる営為である。奇妙な脅迫観念という凸状の鏡を通してしか、私たちは世界を見ていない。その脅迫観念は、じつは我々ではなく、私たちの意識という部屋を徘徊する化け物に取り憑いている。
(p297)


同じページの文章…どちらを引用したかった?でも鏡がどちらにも出てくるし、対な文章なのかもしれない。上の文章の後半、下の文章の前半、が理解できていないというところに至るまで。
…というところまでが、昨日分。

表層と氷山本体

さて今日は先述の通り読み終えたわけだが、だからといって、全てがすっきりこの小説を見通すことができる結末なはずもなく…

 作り話は、あらゆるものを、目的のない、悦楽的な宇宙規模の舞踊へと一変させてしまい、しかもその舞踊は、信用ならない古代のリズムで操られているからだ。
(p316-317)


古代のリズムというところでは「弓と竪琴」思い出したり。

 かれら(昔来島したヨーロッパ人たち)は島のざわめきのなかでどういった声を耳にしたのだろう、泡や葉っぱと戯れているときに、どういう顔や人が浮かんだのだろう。島民たちのおだやかで平和な気質に打ち負かされたのだろうか、それとも、権力と暴力の専門家として、この平和の奥底に秘められた悪の匂いを嗅ぎ出し、その偉大な様式を称賛するようになったのだろうか?
(p326)


小説前半、島民のおだやかというか刹那主義的な部分を読んでいた時には、こういうざわめきに悪や暴力を読み取れる可能性は想定すらしていなかった。「本」はこういった力を可視化させて無力化するという意味合いもあったのか、と語り手は考える。
そして、(なんとなく想像していた終わり方と違った)主筋の物語の陰惨な結末を越えて、最終ページ。

 島を考えることは、新しい思考や新しい旅をともなう匿名の音楽へと変わっていく、そういうのもあっていいだろう。
(p337)


刹那的とか考えを沈殿させないとか、島の人々から直接に学べることもあるだろう。でもこれ読んだあと、裏返して持続的に何かを考えることはどういうことか、というふうに切り替えてもよい。この小説は読んで楽しいけれど、そこは氷山の一角で、氷山本体は物語表層とは異なりアイヴァスの核の哲学ではないか、と今は思う。
(2022 09/29)

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