「黄金時代」 ミハル・アイヴァス
阿部賢一 訳 河出書房新社
「黄金時代」
アイヴァス「黄金時代」読み始め。カボヴェルテとカナリア諸島の間にある島への、二度目の旅。
「もうひとつの街」と同じようにやはり古本屋(今回はミュンヘン)から始まる。
物語前半は、この島の地誌学的、人類学的記述になるが、ユートピア的、あるいはエキゾチズムに陥らないように、度々語り手から注意が差し込まれる。まずはものと表象について。これを読む限り、この島の住人は刹那刹那で自分も外界も変わっていくらしい。それが一番エネルギーを使わない…
この島の町は「上の町」と「下の町」があり、「下の町」は貿易港のよう。一方「上の町」は、滝というか錯綜するデルタの上に建てられた町。家の外壁も内壁もそうした水の流れのみでできている。そして、輸入のほとんどを占めるという鏡が家のあちこちに置かれている、という。細い、幾筋もの上に流れる水の簾を挟んで、家の外と内で人が対峙する…このイメージで、既に自分はどこかへ持っていかれてしまった(笑)。
(2022 09/09)
秘密の戦争
第6章「秘密の戦争」昨夜読んだのだが、このヨーロッパ人の来訪と馴化を書いてあるここで、作品タイトルである「黄金時代」という言葉が現れる。
最初は近代的意識で来訪したヨーロッパ人たちが、この島では刹那の連続としか見なくなってくる。そしてそれが「黄金時代の始まり」なのだという…あと、チェコの人々は「ヨーロッパ人」ではないのか、ここら辺はアイヴァスの目配せなのかな。
(2022 09/12)
島の王
今読んでいるところの中心?話題は王について。この島には王がいる。ただそれは「君臨する」というような通常王につくイメージとは真逆のもので、様々な状況のめぐりあいを経て、島の誰も確かなことがわからないままに王の交代が静かに行われる。島の人々の意識の空白が自然に王を泡沫のように浮かび上がらせては、消えていく…といったような存在。
(2022 09/18)
バウムガルテン
第12章から物語が少し動き出す、ように見える。プラハで会った人物の語りになる。その人物はそのまた友人というバウムガルテン(アイヴァスお気に入りの美学者の名前でもある)のチェコからパリに至る話を語る。
チェコの農家では、古びた農具がギリシャ文字に見え、並べて解読するとオデュッセイアの句になったり、パリのデパートの屋上では看板文字の間で女泥棒と追いかけっこをしたり。後者では、様々な文字のヒゲとか嘴とかにつかまったり滑ったりしながら徐々に泥棒を追い詰めていく…という中で、戦前のアヴァンギャルド雑誌に載っていたというカレル・タイゲの「そうした文字装飾はブルジョア的だから廃するべき」という説が回顧されたり(実在のものかはわからないけれど)する。
…とかなんとか言いながら、またここに戻ってくるのだが…
上の町の流れる水と音の描写にもあったように、表面性と近接性(深層を追わない)というのは、この島の特質でもあるし、比喩表現などの始まりでもある。
物質と形というと、ヒューレーとエイドスというアリストテレスが頭に浮かぶが、それより何よりこの文章の巧みな味わいをみよう。そして、また、この小説自体の見取り図ともいえる?
さてさて、先程「島に戻るとしよう」と言っていたのに、2章経て、またパリのバウムガルテンと女泥棒のところへ戻ってきた。そこで女泥棒が語るのが「ベルリンの巨匠」が描いたという絵画。そこに描かれていたのか、それともこの女がその絵から勝手に物語を想像したのか、細かく増殖する物語がこの絵に挿入されている。そして、盗品のネックレスをバウムガルテンに返し、彼の家へ送って女は去っていく。翌日、彼は女の言ったその絵がある画廊に行ったがそんな絵はなかった…というところで、プラハの友人の話は終わる。
その次の章は、あろうことか?この話の振り返り…
ここ読んできて、特にこのように物語を変えた方がいいだろう…と語り手が述べる時、自分は、作者自体は語り手と違って、そんなことは思っていないのでは、とも思った。さてどうか。それに続くのが、読者への呼びかけと、ここまでは昨晩書いたものだという告白。しかし別にそれを全否定に持っていくわけでもない。
ボードゲーム(チェス?)のコマとマス目の入れ替わりは、作者と読者の入れ替わり。後半の「本」にもつながる。
最後の島
第24章「最後の島」。この最後の島というのは、例の島から帰ってきたヨーロッパのこと。ここで引かれるのがまた「オデュッセイア」。
ここまではいかないけれど、例えば海外旅行から帰ってきた時などにこれに似た感覚を覚えることがある。それが「美」がどうかは気づかなかったが。
この小説は全体が「オデュッセイア」の語り直しなのか。
島と本
今日、夜の部。ついに「本」が出てくる。の、前に、語り手が殻に入れた白いイカスミの発酵料理?(ちなみに島では全く火を使わない)の宴の際に披露した話が挿入。プラハ を散策していたら、川船に乗って人形劇を見るというもの。この戯曲がまた不条理極まりないもので、その中で、木製の人形は…
ここ、のちの「本」を予感させていないか。「本」は島でただ一冊、至るところに襞というかポケットがあって、そこにも小さなサイズの「本」が入っている。そして、「本」は背がなく屏風型になっている、先の木製人形のように。
理解するのがかなり難しいのだが、そうらしい(笑)
今はざわめき、瞬間を楽しむ島民と、バビロン的と言われる「本」の同居を受け入れることが(本の仕組みがどうあれ)まだできていない。これが「本」の話が展開されるにつれ、どうなるのか。
(2022 09/25)
唯一の本
後半、「本」の部。
第33章までは「本」の説明…島で一つしかない「本」は不定期に回され、挿入・加筆・消去で絶えず変容していた。誰でも挿入ポケットつけて話を挿入したり、ポケットごと入れ替えたり、あまり「本」を大声に取り扱っていなかったため、濡れて沁みができたり(沁みはこの島では宗教的対象になったりするもの)して。
この「本」の話は、紛れもなくこの本(「黄金時代」)の挿入であって、ひょっとしてこの自分の生活空間もなんらかの全体に挿入されているものだったりして…
このあと語らえるふたつの王家の物語は、前の世代の憎しみが少しの穏やかな時期を経ながら、次の世代の憎しみへ、そしてまた…という物語で、草地のキノコや白いポケットが続いていくこの「本」の具体例として相応しい…というか思想代弁しているところがある。
というわけで、この次の章から、ふたつの王家の物語が始まる…のだが、今までの例を見てだいたい3、4章分くらいかな、と思っていたら、なんと小説終わる直前まで(もちろん他の話の脱線含む)続いている。途中まで読んだが、小説前半の奇妙な絵画の話や不条理人形劇の話に比べて、幻想的な小道具もあるけれど全体的には通常の物語に近い、ので読みやすい。
でも、幕間でプラハ に銀色UFOが飛ぶのだけれど(笑)
(2022 09/26)
浮かび上がる物語
この発言は彼女(チェコで「イリアス」の映画を撮ろうとしている人)の発言なのだが、この辺まで来ると、誰が、とかどの階層で、とか関係なく、とにかく何回も繰り返されているものがテーマであるという読みに変わって来る。ここのテーマもまたあとで出てくる。
これも話者は同じ、プラハ の「イリアス」の女性。ということは、この島の「本」や「黄金時代」というこの(奇妙な)小説だけでなく、一般的な物語も同じ構造が含まれている、ということなのか。少し信じ難いが、それを、世界の立ち上がりを静かに聞き取ること、p222の何かを探し求めている光や、隣のスウェーデン語かノルウェー語の細々と聞こえる言葉をチェコ語で残酷な話と聞き取ってしまったこの女性の例も、新たな世界を立ち上がらせる方法なのかもしれない。
続いてガトーが織る絨毯は、小説前半の「ドイツの巨匠」の絵と対応関係にあるのかも。
ここは、フォーの宮殿の芸術家ミーについて。ということで、p222のテーマの変奏であるのと同時に、前に形相と質料(エイドスとヒューレー)について挙げたp99の文章にもつながっていく。立ち現れ方は様々。
(2022 09/27)
寄り道スルーした者は最も感動的場面を逃す
今日読んだところのまとめは明日以降まとめて。今日はただ、もう寄り道だらけでわからなくなる、と、また新たに始まったチェコの演劇の場面にご丁寧にも、「ここをスルーするのはいいけど、鍵となる場面を見逃すかも」みたいなこと書いてある。そこにあったのは、この小説で一番(通常の小説のような)感動的な場面。しんみりして暖まるハイデルベルクの場面。
とりあえず300ページ越え。
(2022 09/28)
とりあえず、昨日の読んだところの引用から。
上記、ハイデルベルクの場面から。(この小説読み切った現時点から振り返ると)最終場面の陰惨な恐怖政治と侵略が、この場面と対になっているような。
あと、「もうひとつの街」でもエイとか出てきて、こっちはダイオウイカ。アイヴァスは海の巨大生物が好みなのか。チェコは内陸国なはずなのだが…そいえば、チャペック「山椒魚戦争」もその系譜かも。あちらはご丁寧にもヴルタヴァ川遡ってくるし。
同じページの文章…どちらを引用したかった?でも鏡がどちらにも出てくるし、対な文章なのかもしれない。上の文章の後半、下の文章の前半、が理解できていないというところに至るまで。
…というところまでが、昨日分。
表層と氷山本体
さて今日は先述の通り読み終えたわけだが、だからといって、全てがすっきりこの小説を見通すことができる結末なはずもなく…
古代のリズムというところでは「弓と竪琴」思い出したり。
小説前半、島民のおだやかというか刹那主義的な部分を読んでいた時には、こういうざわめきに悪や暴力を読み取れる可能性は想定すらしていなかった。「本」はこういった力を可視化させて無力化するという意味合いもあったのか、と語り手は考える。
そして、(なんとなく想像していた終わり方と違った)主筋の物語の陰惨な結末を越えて、最終ページ。
刹那的とか考えを沈殿させないとか、島の人々から直接に学べることもあるだろう。でもこれ読んだあと、裏返して持続的に何かを考えることはどういうことか、というふうに切り替えてもよい。この小説は読んで楽しいけれど、そこは氷山の一角で、氷山本体は物語表層とは異なりアイヴァスの核の哲学ではないか、と今は思う。
(2022 09/29)
関連書籍
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?