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「なにかが首のまわりに」 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ

くぼたのぞみ 訳  河出文庫  河出書房新社


「アメリカ大使館」

とりあえず今日は「アメリカ大使館」を読む。
この話は、アメリカ大使館に並ぶヴィザ取得の為の列を描きながら、とある記事がきっかけで書いた夫が国外逃亡し、残った妻と子供のところにならず者3人が押し寄せ、子供を殺害する、というジャーナリスト夫妻の妻の視点で描く。表題作「なにか…」の裏の人生というべきか。妻の職業は書いた当初は教師になっていた、と解説にあり。
この悲劇の元になった夫の記事は、そこまで現地の人にとって新しい情報はなかったが、BBCアフリカが取り上げてから大ごとになった、という。ジャーナリズム論としても考えてみたいところ。

 ヴィザ面接官が民主制を擁護する新聞のことを知っているかどうか疑わしかったから。大使館の門の外の交通遮断区域にできた長蛇の列のことを、木陰ひとつなく、容赦なく照りつける太陽が友情と頭痛と絶望を作りだしていることを、このヴィザ面接官が知っているかどうか疑わしかったから。
(p196)


ヴィザ面接官の方(それからアメリカ自体)の立場も、あるのはわかる。それでも何かが通じないのは、どうしてか。ここにはコミュニケーションの断絶がある。

「何かが首のまわりに」

折角だから?「なにかが首のまわりに」も再読してみた(買った当初ざっと読んではみていた)。こちらはアメリカへのヴィザが通って、渡米する話。最初の「おじさん」(父親の妹の結婚相手の兄弟)のメイン州の家でそのおじさんに性的嫌がらせを受け、そこを飛び出して、コネティカット州の町の中華レストランでウェイトレスとして働く。そこでアフリカに一定の理解を示す男と付き合うようになり、男の実家まで訪ねるようになるが…ナイジェリアからの手紙で、父親が死んだことを知る。

 きみは笑わなかった。人が学校へ行かない道を選択できるなんて、人生の方向を自分で決定できるなんて、思ってもみなかったから。きみは、人生があたえてくれるものをただ受け取ることに、人生が声に出して命じることを黙って書き留めることに馴染んできたから。
(p170)


この短編は二人称「きみ」で書かれている。ここでの「きみ」は、昔の体験を今のアディーチェが客観視して振り返っているような効果を持つ。
ナイジェリアでは社会の慣習が強い力を持ち、個人の自由は(よくも悪くも)あまり表面化しない、アメリカ人の男にとっては普通のことも、彼女にとっては理解もできないこと…でも、最後の一文は、そのこととも、ここに書かれている事態のレベルをも越えて、作者アディーチェの創作態度をも示してはいないか。先の短編もこの短編も、何か自分にはわからない領域が確かに存在するが、その原因の一端はそういう書かれ方にあるのかもしれない。

他に気になる点3つ。
メイン州の「おじさん」の家を飛び出した時「湖の近くで稚魚の臭いがした」(p165)とあるけれど、6月に読んだ時も今回も、ここ何か引っかかる。何故かはよくわからない。性的何かと関係ある? また、ひょっとしたら、次ページすぐの干し魚との連関か。
6月読んだ時は気にしなかったが、父親の死に方が謎。会社の車の運転手だった父親は、その車のハンドルに被いかぶさるようにして亡くなった、としか書かれていない。読み終わったあと、ひょっとして殺された可能性有り?と思った。アメリカの男に話した、ラゴスでの「ビッグマン」の車との衝突の話が、ひょっとしたら伏線か。

この短編、2001年発表時は「アメリカにいる、きみ」というタイトルだった。何度も書き直され、改題もされた。この元の題で、日本でも第一短編集のタイトルになったり、2010年の来日時には、松たか子によって朗読される、など代表作といってもよい作品だから、というのもあるだろう。ただ、他の作品の解説を眺めてみると、他にも書き直し・改題された作品が結構多い(「スカーフ」→「ひそかな経験」、「新しい夫」→「結婚の世話人」など)。こうなると、この作家の癖とも言えなくもないが、癖というより戦略なのかも。「なにか…」の場合は、発表時は「きみ」という表現の新しさに寄ってタイトルを付け読者を惹きつけ、それが落ち着いたら心理の何とも表現できない違和感を前面に出す、とか。何かしらのプランが前もってある可能性も。
(2023 09/03)

「明日は遠すぎて」

(昨夜分)
日本独自の第二短編集の表題作となった作品。この作品も「きみ」呼称だけれど、自身の分身のような視点人物を後から追いかけるような「なにかが…」の「きみ」ではなく、分身とは言えない他者とじっくり対峙するような「きみ」呼称。
物語は「ボマルツォ公の回想」にもあったような、邪魔と無意識に思っているような兄弟を助けずに見殺しにする子供、という主題。こっちの方が無意識というより意識的にも思える。タイトルの「明日は遠すぎて」というのは「毒蛇」の異名だという。毒蛇に噛まれたら今日生き延びるのも難しい、明日など遠すぎる…という意味。高い木に登っている兄に下から「蛇!」と叫ぶ。兄は驚いて落ちて石に頭をぶつけてしまう…

 ひとつの動作を終えて次の動作に移る、わずかな瞬間を待った。空白の一瞬、きみにはあらゆるものが、生そのものが青く見えた。-きみの父親が絵に使う澄みきった碧空、開運の、朝の驟雨に洗われた空の色だ。すかさず、きみは叫んだ。「蛇だ! エチ・エテカ! 蛇!」
(p274)


この兄弟の父親は芸術家の設定。

「セル・ワン」

(今日分)
標題は刑務所の特別室のこと。大学町の一家の恵まれた生活、盗みが少年の間に流行して、ンナマビアという少年も母の貴金属盗んでしまうが、両親はそれを半分なかったことにする。視点人物の妹(今回は「わたし」呼称)はそれを一番冷静に見ている。が、兄ンナマビアが今度は「カルト」(大学町内の少年ギャングみたいなもの。複数あって抗争状態)に関わっている、と警察に連行。この兄が、無実の罪で連行されてきた老人を助けようとして警官達に叫ぶ、そして「セル・ワン」行きになったが、その直後に釈放される。

 あなたがたのような人はみんな大学で働いているから自分が偉いと思っている。子どもの品行がわるくなったとき罰をあたえるべきではないと思っている
(p30)


釈放された時の警官の言葉。今まで彼らが下に見てきた警官に逆に諭される。こうした内容から、解説によると、この作品は作者の家族内で反発が出て、書き直しに二年半かかったのだそう。
(2023 09/06)

「先週の月曜日に」


これはアメリカが舞台の作品。ベビーシッターである視点人物カマラが足をぶつけて、子供にその足にキスされるというのは、アディーチェの実体験らしい。

 子どもの母親はどこにいるのだろう、ひょっとしたらニールが殺してトランクに詰め込んだのか? カマラはここ数カ月、コートTVばかり観ていたので、アメリカ人はなんてクレイジーなんだろうと思うようになっていた。
(p109)


コートTVというのは、アメリカの犯罪や裁判のドラマやドキュメンタリー専門のテレビ局…アディーチェの作風含め、アメリカ等先進国がアフリカ等の人々をステレオタイプで見ている、という観点はよく描かれるけれど、その逆のステレオタイプもまたある。

 空腹から解放されたアメリカ人は、どこかで読んだばかりの奇病に自分の子どもが罹りはしないかと不安になり、落胆や、欠乏や、失敗から子どもを守る権利があると考えるようになったんだ。
(p117)


特に子どものジョシュの父親のニールにその傾向あり。先のアメリカ人ステレオタイプもそうだけど、ここも「見ているのはアメリカ人だけではない、例えばここのベビーシッターのカマラもアメリカ人家庭を見ている。視線は単一方向ではあり得ず、双方向のもの。
物語は、前半では創作にこもっているジョシュの母親トレイシーと、やがて後半ではカマラは出会って惹かれるものを感じる、というもの。ちなみにこのトレイシーもアフリカ(ガーナ?)系。もっとちなみにニールはユダヤ系。カマラとトレイシーが出会ったのが「先週の月曜日」。
(2023 09/07)

「イミテーション」

昨夜から今日にかけて「イミテーション」を読む。これで6編。半分消化。
「イミテーション」は俗にいうと浮気もの。ナイジェリアとアメリカを往復する「ビッグマン」の夫と、今はアメリカに住む妻と子。視点人物は妻。今思ったのだが、アディーチェの短編これで6作目なのだけれど、全部女性が視点人物。女性作家の場合、少ないながらも男性を視点人物に据える作品も作る、みたいなのがよくあると思っていたのだが…なんとなくだけど、この作家では男性視点人物は出てこない気もする。
後は、この作品は初出の時と結末を書き換えている。やはり書き直しはこの作家の戦略たる常態であるのだろう。

 わかっている、自分がこんなふうにはっきりとものをいうのを、断固とした態度でものをいうのを、この人が耳にするのは初めてなのだ。
(p60)


おそらく書き直された結末部分。ナイジェリアに恋人を連れ込んでいるという噂を聞いて、妻はナイジェリアに戻る決心をしたのだが、この時彼女は、それよりもっと大きなものを変えたのだ。
標題の意味するところは何だろう。アメリカ暮らしそのものを指すのだろうか。
(2023 09/09)

「結婚の世話人」

(昨夜の分)。ばらばらに読んでいるけれど、偶然にも前読んだ「イミテーション」と関連あって、訳者くぼた氏が日本語訳第1短編集に「イミテーション」選んだ時、こちらも短編集に入れて欲しいと作者から送られてきたのがこの作品(当時のタイトルは「新しい夫」)。

 アメリカ人の職員がわたしのスーツケースを引っかきまわしているうちに気持ちが悪くなってきた。頭のなかに真綿を詰め込まれたようだった。
(p235)


「なにかが首のまわりに」と並ぶ、感覚がじわじわくる表現。
アメリカに住むナイジェリア人医師と結婚し、アメリカに来た語り手。夫は相当「アメリカ人になろう」と努力していて、そこで語り手とすれ違い始める。ここにニアというアフリカ系アメリカ人が語り手のよき相談相手となる。

 冬が忍びよってきた。ある朝、アパートの建物の外へ出て、わたしは思わず息を飲んだ。まるで神さまが白い綿をちいさくちぎってまき散らしているみたいだった。初めて見る雪、ふわふわと舞いおちる雪、じっと見ながら、わたしは立ちつくした。
(p255)


雪(当たり前だけど、ナイジェリアでは雪は降らない)が寒々とした関係を、そこに唯一暖かい居場所のニアの部屋を際立たせる。ちぎったような雪は、このあと語り手が何も言わずにちぎっていくクーポン券とつながっていく。

 「きみは肌の色が薄い。自分の子どもたちの外見を考えなければならなかった。アメリカじゃ、肌の色の薄い黒人のほうが良い暮らしができる」
(p258)


浮気してたり、自分だけ国外に逃げたり、この作品集に出てくる夫はろくでもないのが多いが、それを上回る酷い夫の言葉。男としてこの手の言葉に鈍感な自分でも、こんなことは言えない…
ところで、タイトルだけど、「新しい夫」の方が適切でないかい? あまりにぴったり過ぎて変えたのかもしれないが。確かに、この結婚は当人どうしではなく「世話人」が決めたのだが…

「ひそやかな経験」

続いて「ひそかな経験」。これは今夜読んだ分。
ナイジェリアを語る時には欠かせない、ハウサ人とイボ人の、イスラム教徒とキリスト教徒の対立。この作品は北部カノという町での暴動、それに巻き込まれたイスラム教徒の女と、キリスト教徒のチカが一緒に廃墟となった小さな店跡に一夜隠れる、という話。この二人の違いは宗教と民族だけでなく、出自とそれによる考え方の違いにも及ぶ。

 チカはその声に皮肉や非難の響きがないか耳を澄ますけれど、それはない。声はやさしく、低く、女はただ自分がやっていることをいっている。
(p68)

 女が泣くのはその人だけのひそかなもので、やらねばならない儀式を、他人には関係のない儀式を執り行っているよう。
(p71)


というイスラム教徒の女に対し、チカは何かを学び取っている。偶然会った二人を隔てるものは大きいけれど、それでも実際に会うと人々は理解し始める。
あとこの作品は、チカの「その後」を時々に織り込んでくるが、それはこの一夜の体験が後に参照される度に揺り戻されるため…
(2023 09/10)

「がんこな歴史家」

これは昨日の作品と並んで、それまでのこの本の短編とは異なるテイストの作品(意外にそういう作品が残ったのか?)。これは3世代にわたるナイジェリア、イボ族の村の一家の西洋人とキリスト教受容(と反発)の物語。最後の女性歴史家は「実は私(アディーチェ)のことです」となるのかと思ったら、そこには落とさなかった(笑)。解説にもあったように、このあらすじみてすぐ思い出すのは、アチェべの「崩れゆく絆」。

 グレイスはやがて、晩年、数々の賞を受賞して友人や比類なきバラ園に囲まれながら、自分の人生が根無し草だという奇妙な感覚に襲われてラゴスの裁判所へ出向き、名前をグレイスからアファメフナへと正式に変更することになった。
(p302)


祖母の陶器作りで厚くなった手を握ることによって、円環は閉じられる。
(2023 09/11)

「ゴースト」

これも「ひそかな経験」(本の中の並びとしては「ゴースト」の前)と同じくビアフラ戦争が主題。しかしこちらの方はかなりビアフラ側に寄っている。「ゴースト」が今まで読んできた作品とは違う点2つ。
1、男性が視点人物。この老いた数学教授という男性は、アディーチェ自身の父(統計学専門)がモデルになっている、とのこと。
2、超常現象(タイトルにあるようにゴースト)が出てくる。言い伝えとか迷信(例えば「がんこな歴史家」で出てきたような)もあるけど、それは庶民に信じられている社会的現象としての捉え方。一方、ここでの妻エベレの幽霊が現れるのは、物語の一番核の要素。

 わたしにできるのはせいぜい、不信と希望のあいだで宙吊りになった家族が、腑抜けのようになった男たちになげつけた砂の量を想像するくらいだ。
(p103)


ナイジェリアでは、砂を投げつけることによって、相手が幽霊かどうかを判断する、という。ビアフラ戦争終了後、ぽつぽつ、死んだとされた男たちが家に戻ってきた、という。

 すぐに電話が鳴らないなら、そのときは風呂に入って寝る。するとわたしの部屋の、しんとした暗闇のなかで、ドアが開いて、閉まる音が聞こえてくるのだ。
(p104)


この幽霊だけは存在する、というさも普通のことだろう、という結末が印象的。
(2023 09/12)

「震え」


アメリカで、失恋した女性のウカマカと、ゲイでこちらも今は一人のチネドゥの二人が、ナイジェリア国内での飛行機事故をきっかけに付き合うようになる顛末。ウカマカはカトリックでチネドゥはペンテコステ派というキリスト教でも違う宗派。だけど、まずカトリック教会へ、次の日は彼の教会へ。作品はカトリック教会の中での二人の関係を示して終わる。アディーチェの作品の中では明るい終わり方。

 彼みたいな信仰心をもつのはすごい贅沢だ、とウカマカは思った。こんなに無批判で、こんなに強力で、こんなにせっかちな。とはいえ、そこにはなにか甚だしく脆いものがあった。まるで極端なかたちでしか信仰を維持することができないような、妥協点を認めるのはすべてを失ってしまう危険を冒すことだというような。
(p231)


ウカマカとチネドゥは、ひょっとしたら違う宗派だったから関係を持てたのかも。
(2023 09/13)

「ジャンピング・モンキー・ヒル」


これは南アフリカのそういう名前のリゾートで開かれた「アフリカ作家ワークショップ」を、参加したナイジェリアのウジュンワの視点から描く。この作品は、今までの作品よりも「作家アディーチェ」に近い。そして、そこで書いた作中短編と並行する書き方というのも初めてのテイスト。
このワークショップを主催するエドワードという西洋人のステレオタイプ(アフリカという対象においても、小説というものに対しても)と、ウジュンワ始めとするアフリカ人の参加者がそれぞれに対立しあう。参加者はウジュンワ以外は◯◯人と呼ばれ、アフリカ人ではない自分は微妙な違いや立ち位置がわからないのだが(例えばケニア人とタンザニア人の違いとか)、アフリカに住む人だったらそこもかなり楽しめるのでは。

 ウジュンワはエドワードをまじまじと見た。「時代遅れ」ってどういう意味よ? 物語が時代遅れってどうしていえるの?
(p151)


ジンバブエ人の作品の評価として、エドワードが「これはジンバブエの政治状況に照らすと「時代遅れ」だと感じる」と言ったことに対する言葉。ただ、この時は質問として外には出さなかった。アディーチェの作品をこれまで読んできて、この言葉を読むとアディーチェは「時代遅れ」とされがちな様々なしかし普遍的でもある声の物語を紡いでいこうとしていると感じる。

 ケニア人がウジュンワをじっと見ていた。きみはエドワード以外のものに怒ってるな、と彼が低い声でいったので、彼女は視線をそらして「怒っている」という語が適切なことばだろうかと考えた。
(p159)


ここ、正直言って、エドワード以外というのが何なのか、自分にはわからなかった。エドワードの背後にあって、エドワードに投影されている何かなのか。それとも、エドワードとは関係ない個人的体験の何かなのか。
(作家アディーチェは、実際にナイジェリアで作家ワークショップを年1回、10日間くらい泊まりがけで開いている、という)

解説からも一文。アディーチェの言葉から。

 ジェンダーをめぐる不公平に遠慮なくものをいう女性はよく非アフリカ的といわれるけれど、アフリカの伝統の名のもとに女性が沈黙を強いられることで利を得るのは誰かを考えるべきでしょう。
(p316)


これでようやく読み終わり。
(あ、そうそう明日9/15はアディーチェの誕生日…)
(2023 09/14)

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