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「泥の子供たち ロマン主義からアヴァンギャルドへ」 オクタビオ・パス


竹村文彦 訳  叢書アンデスの風  水声社

「弓と竪琴」に続くパスの詩論。前作が詩一般論に近いものなのに対し、こちらはもっと具体的な、近現代詩の歴史。確かちくま文庫でも出てた。
「弓と竪琴」は岩波文庫版購入。できるだけ日をおかないで読まないと…


いくたびも、オクタビオ・パス

 情熱と批判が結びつくことで、近代的なものに対するわれわれの崇拝の、逆説的な性格が浮き彫りになる。批判的情熱-批判とその精密な解体装置への、常軌を逸した、熱烈な愛。しかしまた、対象に惚れこんだ批判。否定せんとする当のものを熱愛する批判。自分自身に恋をし、常に自分自身と格闘しているので、永続するものは何も認めないし、いかなる原理にも依拠しない。あらゆる原理の否定、果てしない変化こそが、その原理なのだ。
(p20-21)

 われわれの時間に対するイメージが変わったとき、われわれと伝統との関係も変わった。というより、時間の観念が変わったゆえに、われわれは伝統を意識したのだ。
(p26)


近代は批判を自身に取り込むことで、先代との断絶を旗印にする。変化するための変化。下の文は「だからこそ、伝統という概念が発見されたのだ」という逆説。
(2022 01/09)


「方法異説」終わったので、こっちを集中して進めることにする。
 原始人の非時間的過去は、東洋と地中海の大文明で時間化、受肉し、周期的時間に変ずる。インドは周期を霧消させる。周期は文字通り、ブラフマーの夢なのだ。
(p32)
 インド人は周期を霧消させたが、キリスト教徒はそれを破棄した-すべては一回に限って起こる。
(p32)
 十八世紀に幕を開け、恐らくいまその黄昏を迎えている時代、近代は、変化を称揚し、それを自身の基盤とした最初の時代である。
(p37)
原始人からキリスト教徒まで、時間の捉え方は様々変わるが、理想は永遠的な変わらないもので、変化するものはその反対理念として考えた。それが反転するのが近代である…という見立ては今ではよく見られるのかもしれないけれど、この本が1974年に出た時には嚆矢だったのかもしれない。
そこに詩がどう絡んでくるのか。
第1章「断絶の伝統」読み終え。
(2022 01/19)

未来の扉を閉じて


第2章「未来の反乱」(「の」は場所の格助詞ではなく、主語、あるいは所有者をあらわす助詞なのだろう、すなわち「未来」が反乱するのだと)
パスの詩論が故に、殺し文句が多くて困る…

 未来の扉がいつの日か閉ざされるという考えは…、この考えは交互に、私を震え上がらせたり、笑わせたりする。
(p45)


ダンテ「神曲 地獄編」? フィレンツェの貴族ファリナータ・デリ・ウベルティという人物が言った言葉だという。彼はダンテのフィレンツェからの追放を予言するが、「未来の扉が閉ざされた」らその予言の能力も無くなる。未来は不変になるから、だという。

 理性と天啓の確執は、アラブ世界をも引き裂いたが、そこでは天啓が勝ち残った。西洋のような神の死ではなく、哲学の死。イスラムでは、永世が勝利したため、人間の時間のもつ価値と意味が変わった。歴史とは神業または伝説であった
て、人間のつくり出すものではないのだ。未来の扉は閉ざされ、同一律は完勝を収めた-アラーとはアラーである。西洋は同語反復から逃れた。ただ矛盾に陥るためばかりに。
(p49)


ウェーバーの「プロ倫」の問い「なぜ西洋だけが近代化を成し得たのか」を、パスが回答すると、こうなる。
でも、「矛盾に陥る」だけなのだけど。
随分長く読んでいるような気がしているのだけれど、実際はまだ50ページ。
(2022 01/20)

 もし社会が進化せず、停滞すると、革命が勃発するのだ。しかしながら、革命が必然的であるとすれば、歴史は周期的時間を必要としてもいる。三位一体論にも似た解決不能の神秘。というのも、革命は不可逆的な時間の表出であり、それゆえ批判的理性-自由そのもの-の表現なのだから。革命の両義性。その顔は、周期的時間の神話的相貌と批判の幾何学的相貌を、また最古の古さと最新の新しさを同時に見せる。
(p55)


円環的時間進行と直線的時間進行、その双方があって「革命」が起こる。ある程度の周期的時間進行がないと、革命あるいは自由は存在意義を失う。円環と革命という二つの意味を持つ「revolution 」という言葉はそれを一語で表している。

 散文と詩の間の不断の動揺は刻々と激しくなるが、優位に立つのは散文ではなくて詩の方である。散文と詩は小説の内部で戦闘を繰り広げるのであって、この戦闘こそが小説の本質なのだ。散文の勝利は小説を心理学、社会学、あるいは人類学の記録に変え、詩の勝利は小説を詩作品にしてしまう。いずれの場合にも、小説としては姿を消す。小説は、存在するためには、散文にも詩にもなり切ることなく、同時にその双方であらねばならない。
(p59)


その同時性の要望で、小説はその内部に近代の批判的精神を持つ。

 近代性だけが、本源的な始まりに帰る操作を実行できるのだ、近代だけが、自分自身を否定できるのだから。
(p63)


(2022 01/22)

泥の子供たち


 革命も詩も、現行の時間、歴史の時間-不平等の歴史の時間-を打ち壊し、〈別の時間〉を創設せんとする試みである。しかし詩の時間は、革命の時間ではない。批判的理性の日付のある時間や、ユートピアの存する未来ではない。それは時間に先立つ時間、少年の眼差し中に浮かび上がる「前世」の時間、日付のない時間なのだ。
(p73-74)


 イロニーは、単一と見えたものの二重性、同一とされるものの分裂、理性の裏面をあらわにする-同一律の破滅。苦悩は、生存が空洞であること、生が死であること、天国が砂漠であることを明らかにする-宗教の破滅。
(p75-76)


詩人は革命(ロマン派の場合、フランス革命)と宗教(ロマン派の場合、カトリシズム)、双方の憧憬と反発に引き裂かれている、という。そしてこの構図は、ロシアアヴァンギャルドなどに繰り返し現れているという。
(2022 01/28)

ジャン・パウルの「夢」。キリストが「隅々回ったけれど、神はいなかった」と発言する。

 これら二つの経験-神なきキリスト教とキリスト教的異教精神-は、ロマン修業期以降、西洋の詩と文学の構成要素となった。いずれの場合にも、われわれは二重の侵犯を前にしている。
(p83)


 ロマン主義詩は、同じ世紀の革命とともにではなく、それらに対峙して革命的なのであり、その宗教性は宗教の侵犯からなる。
(p84)


 宗教は歴史的であり、滅び去るが、そこには必ず、宗教とは無縁の、永続する芽がある-詩的想像力。この奇妙な考えに対し、ヒュームだったら微笑んだことだろう。どちらに信を置くべきか? ヒュームとその宗教批判にか、それともブレイクとその想像力の礼讃にか?
(p91)

宗教的なものに憧れるが故の、宗教侵犯。近代詩人の二重性。
(2022 01/29)

アナロジーとイロニー


 近代詩は社会の地下でミサを執り行なうが、信者たちに配るパンは毒入りの聖餅である-否定と批判。しかしこの闇の儀式は、失われた泉の探求、起源の水の探求でもある。
(p95)


ロマン主義の特徴の一つは、詩と散文の相互浸透にある、という。この点から、イギリスとドイツのロマン派詩人を見ているのがp96と97に跨ったところ。コールリッジ、ノヴァーリスらのそれぞれ自律性を保っているものから、ヘルダーリン、ワーズワース、そしてブレイクへと、だんだん詩と散文は不可分になっていく。

 宗教体験を内面化し、ローマ・カトリック教会の典礼主義を放棄することにより、プロテスタンティズムは、ロマン主義の激動を引き起こす心理的・道徳的条件を整えた。ロマン主義は、何よりまず詩的ヴィジョンの内面化であった。プロテスタンティズムは、個々の信者の意識を宗教的秘儀の舞台と化した。ロマン主義とは、ラテン系の伝統特有の客観美学、多分に非個性的な美学との訣別であり、詩人の自我を第一義的現実として打ち出したものであった。
(p98-99)


プロテスタンティズムは資本主義の精神だけでなく、イギリスとドイツのロマン主義をも生んだという。だから、ロマン主義の境界はそのままプロテスタントとカトリックの境界になる。
これらロマン主義は、ギリシャ・ローマの古典をも攻撃対象とする。あるいは古典主義に隠されている別の面を発見しようとする。それがニーチェに結実する。
ロマン主義、アナロジーの万物照応はフーリエの「情念引力」に受け継がれ、ボードレールらへと批判的に続く。

 アナロジーの中心には空洞がある。テクストの複数性は、元のテクストがないことを暗示する。この空洞から、世界の現実性と言語の意味とが同時に転落し、消え失せる。しかし、思い切ってこの空洞を見つめ、空無の凝視を詩の題材に転ずるのは、ボードレールではなくてマラルメである。
(p114)


いよいよ章題にある「アナロジーとイロニー」の対比に入る。

 イロニーとアナロジーは相容れない。前者は、直線的・継起的にして反復不能な時間の産物である。一方、後者は、未来が過去にありながら、未来も過去も現在にある時間、周期的時間の発現である。アナロジーは神話の時間に組み込まれており、しかもその基盤を成す。イロニーは歴史的時間に属し、歴史の帰結(そして意識)である。
(p117)

 アナロジーの中心は、われわれにとっては空虚な中心である。その中心はダンテにとっては結び目、つまり三位一体であって、それが一なるものと多なるもの、実体と偶有をそれぞれ和合させる。だからダンテは、アナロジーの秘密、宇宙という書物を読む鍵を知っている-あるいは、知っているつもりでいる。その鍵はまた別の書物、聖書である。近代詩人は、正反対のこと、世界が読解不能なこと、書物など存在しないことを知っている-あるいは、知っているつもりでいる。否定や批判、イロニーも、一種の知には違いないが、ダンテのそれとは対照的な知だ。一体性の懐に抱かれた他性を注視することから成るのではなく、一体性の破滅を見ることから成る知。深淵に似た知、イロニーを湛えた知。
(p120)


アナロジーとイロニーは似たようなものだと漠然と思っていたけれど、実は正反対の機能らしい。この二つの間で引き裂かれるのが、近代詩人ということなのだろう。
半分行った…と思ったけど、まだまだらしい。
(2022 01/30)

翻訳と隠喩


ここはスペイン及びイスパノアネリカの「ロマン主義」。鉤括弧付きなのは、スペインには本来のロマン主義はなかったから。

 批判的理性が荒廃させた魂に再入植せんとする詩的想像力の試み、宗教の原理とは異なる原理の探求、日付をもつ革命の時間の否定、こうしたものであるロマン主義は、近代性の裏面であり、その悔恨、その錯乱、その受肉した言葉への郷愁である。
(p128-129)


 (イスパノアメリカ諸国の独立は)ブルジョア自由主義に変装した封建制、君主の代わりに小王たち-大統領閣下-を戴いた絶対主義。かくして仮面の王国、虚偽の帝国は発足した。以来、言語の腐敗、意味の汚染は私たちの慢性病となり、虚偽は私たちの体質、特性と化した。
(p134)


直前に読んだ「方法異説」がどうしてもオーバーラップする。しかしパスによれば、イスパノアメリカ諸国が実証主義を取り入れたのに対し、スペインはドイツ観念論の傍流を宗教の代わりに据えたという。だから、スペインのモデルニスモ(ヒメネスやマチャードなど)はイスパノアメリカ経由なのだ。
(2022 01/31)

ダリーオから始まり、この間短編集読んだルゴーネスらに引き継がれた、モデルニスモ。

 モデルニスモが近代的になりおおせるのは、自分の死ぬ運命を意識したとき、つまり、自分のことを深刻に受け止めるのをやめ、韻文中に一定量の散文を注入し、詩への批判で詩を作ったときである。
(p148)

 商業活動や事務所の中には詩はない、とのたまう連中の多いこと!
 詩はどんな隙間からも入り込むものなのに…、海風の中に、僕は詩を嗅ぐ。
 そういうわけで、蒸気船や近代的な航海術についても詩は生まれる。
 なぜなら、請求書と商業文が、歴史の始まりなのだから。
(p151-152(ペソアの詩から))


次の章、アヴァンギャルドの章に既に移っている。

 この伝統を開いたロマン主義の否定とは異なり、彼らの否定がこの伝統を閉じつつあったことには、誰ひとり留意しなかった。
(p161)


アヴァンギャルドとロマン主義は、大きく言えば似ている運動だとは思うのだが、明確な違いはどこか。
しかも、アヴァンギャルドが断絶の伝統を閉じようとしている…とか。
(2022 02/01)

アヴァンギャルドの黄昏

 もし詩人が、魔術師としての半面を放棄するなら、彼は詩を放棄することになり、役人や広告屋に堕してしまう。しかし、魔術は自分の信者を貪り食うから、魔術に身を委ねることもまた人を自殺に導き得る。死への誘惑は、マヤコフスキーにとっては〈革命〉、ネルヴァルにとっては〈魔術〉という名であった。詩人は決して、この二重の魅惑を回避しない。
(p167)


「回避できない」ではなくて、「回避しない」なのだよね。
いまや、「広告屋」が「芸術家」と呼ばれる時代だから(ことの成否はともかく)…この時代のアヴァンギャルド達やトロツキーが見たらなんというだろうか。

 この解決は非・解決である。文学とは、言語を無化するまでに称えることであり、絵画とは、描かれた対象とそれを見る目を批判することなのだから。
(p175)


ここで念頭に置かれているのは、ジョイスとデュシャン。
この後、アヴァンギャルドの章の第2節、「図形の裏面」に入っていく。

 以下のページで私が試みるのは、今世紀前半の詩的傾向が、逆向きにではあるが、一世紀前にロマン主義が描出した模様のいくつかをいかに反復しているかを示すことだ。絵柄は同じである-向きが反対なのだ。
(p184)


これまでの章とは流れが逆向きになるということか。この反転する転換点がどうやらアポリネールらしいのだが。

 ある対象を構成している種々の外的・内的要素が、引力と斥力という相補的対立に律せられながら、みずからを披瀝する平面、キュビスムは絵をこのように捉えた。
(p187)


見えるものと見えないものを、同一平面に提示する「同時主義」。

 象徴主義は転移(マラルメ)であり、キュビスムは提示である。アポリネールの作品で、転移から提示への移行は達成される。
(p190)


ということで、アポリネールについての記述がこの先展開されるわけだが…今日はここまで。
(2022 02/02)

というわけで、アポリネール。

 詩人はパリの通りを歩み、まるで痛々しい、生きた磁石のように、別の時間や別の場所を引き寄せる。動く空間の切片でもある。不動の時間の切片、そこにすべては合流し、現前し、現在と化す。
(p192-193)


ピエール・ルヴェルディという詩人は厳格な同時主義、厳格なキュビスム的詩を書いていたという。彼はのちのシュルレアリスム(アポリネールの造語らしい)を準備したとも言えるのだが。

 詩の究極の目的は、ルヴェルディにとっては、詩編という言葉で出来た物を観照し、そこにわれわれの姿を再び認めることである。〈再認識〉としての詩。シュルレアリストにとっては、詩とは観照ではなく、世界と人間を変革する手段である。再認識ではなくて変貌。
(p196-197)


続いてエリオットとパウンド。パスはエリオットの方が「完璧」な詩人で、パウンドは「偉大」な詩人だとする。

 中心的伝統の再征服を企てた遠征において、パウンドはローマの彼方-紀元前六世紀の中国-まで達したが、一方、エリオットは途中の英国国教会で兵を止めた。パウンドは、ひとつどころか数多くの伝統を発見し、それらすべてを抱え込んだ。
(p209)


抱え込んで、次々と思いつくままに詩を書いている(と誤解してしまうほど)雰囲気がパウンドにはある。
(2022 02/03)

 アヴァンギャルドの歴史において、キュビスムは理性の一局面であって、古典主義の局面ではない。フォーヴィスムとシュルレアリスムの間の、深淵の上で宙吊りになった理性。カンディンスキーとモンドリアンの幾何学的模様に関していえば、オカルティズムとヘルメス思想で充満しており、それゆえ、ロマン主義の伝統の最も根深く、頑強な流れを延長している。
(p213)


ロマン主義-アヴァンギャルドの根底には、これまで「古典」とされてきたギリシャ・ローマへの批判がある。
(2022 02/04)

 ウィドブロの詩は、空気という基本要素を喚起する。バリェーホは土。対して、ネルーダは水である。湖の水よりは海の水。
(p229)


1945年以降のスペイン語詩の記述において、パスは客観性を放棄する。自身がそこに含まれるため。

 彼らを引きつけた領土は、外部にも内部にもなかった。それは内と外とが合流する地帯、言語の地帯であった。彼らの関心事は美学ではない。あれらの若者にとって、言語とはひとつの宿命であり、同時に、矛盾しているが、ひとつの選択であった。所与の何かで、われわれが拵える何か。われわれを拵える何か。
(p233)


「アヴァンギャルドの黄昏」最後の節「収斂点」は、まさに「黄昏」、近代性と近代芸術の終わりを描く。ただ、これは「近代」の終焉であって、芸術の終焉ではない、とパスは断る。とすれば、パスが模索する新たな芸術とはいかなるものか。

 非人間化の方法もいろいろで、資本主義が人間を機械として扱ったとすれば、脱工業化社会は彼らを記号として扱うのだ。
(p241 ダニエル・ベルの理論を援用しながら)


1960年代の若者の蜂起、そして様々な学問分野における「未来進歩」型思考の崩壊は、人々を「現在」思考主義に変える。そこには過去も未来も流れ込んで溶け合う。
最後にパスは、詩を書くことと、詩を読むことを、両者の境界が開放されることと並んで、時間的要素の境界も開放されるという。

 構造からテクストへ、テクストから読みへ、変化と同一性の弁証法は進展する。
(p253)

 現在、始まることなく始まっている詩は、時間たちの交差する点、収斂点を模索しているのだ。今日の詩は断言する。猥雑な過去と荒涼たる未来に挟まれた詩、それは現在なのだ、と。
(p254)


原注からは、インドの「カースト」は自然界を祖型として、それを社会に当てはめたもので「階級」ではなく「種族」である、という指摘と、それからヒュームの考察(昨年読んだ木島氏の自由意思論も振り返ってみたい)。

 意思や目的という発想のうちに、宗教思想の根はあり、無神論や唯物論の哲学も含めて、そうした発想の出没するところには、宗教もまた姿を現し、早晩、教会や神話や異端審問所も出現する。
(p266)


(2022 02/06)

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