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「朝鮮通信使の旅日記 ソウルから江戸―「誠信の道」を訪ねて」 辛基秀

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漢城(ソウル)まで


江戸幕府の外交政策(「鎖国」という言葉は、19世紀のオランダ通詞が翻訳して作った言葉)は、朝鮮と琉球が「通信の国」、オランダと清が「通商の国」。文化交流会を認めたのは「通信の国」のみ。
李氏朝鮮が成立してから、室町時代の間は対等の外交でそこに関しては平和であった。秀吉の朝鮮出兵後、家康は戦争捕虜の引き渡しと善隣関係の復活を打診、朝鮮側もそれを受ける。
その窓口になったのが、対馬。江戸初期に、対馬藩では、外交書類改竄のお家騒動があり、取り調べの結果、家老柳川調興は津軽藩に、相対する外交僧規伯玄方は南部藩に流罪となったが、双方ともほとんど賓客扱い。

朝鮮通信使と庶民(民際交流)。詩や書を求めて近寄る人々、見物船が乗客多数で近付き過ぎて沈没してしまう例、唐人踊りや唐人人形(唐人は「カラ人」)。大垣市竹嶋町では唐人踊りの道具を山車の中に隠して(明治期に禁令が出たため)見つかったのは1972年。一方、昔自分が三重県津市に絵巻展示を見に行った津市唐人踊りの方は、江戸住まいだった人が行列に感動して地元の津に伝えた。分部町や鈴鹿市東玉垣町では今も行われている。江戸の山王祭や神田祭の唐人行列もその伝統。
雨森芳洲によって朝鮮語の翻訳が始まったのは、朝鮮側の日本語翻訳に比べ、三百年遅い。
(2023 02/17)

第2章釜山


(読んだのは昨晩)
1454年、釜山に入った日本人は6000人を越えたという。これらの日本人は陸の三路(中路、左路、右路)と洛東江、漢江の水路で目的地へ向かう。奇しくも、その三路を利用して素早く移動してしまったのが壬辰倭乱(文禄の役)と丁酉再乱(慶長の役)。
これに懲りて、江戸時代に通信復活しても日本人は釜山開港地の豆毛甫の倭館(日本人街)まで。そこは長崎唐人屋敷地より数倍広い。対する朝鮮側にも街が築かれ、その倭館で先述の雨森芳洲などは朝鮮側と交流を深めたり朝鮮語を勉強したりしていた。
(2023 02/18)

第3章対馬から第6章下蒲刈まで


対馬藩の人がずっと護衛に使節に従い、各寄港地では使節団だけでなく、対馬藩士も接待されたという。ここで強調されるのは、接待のエスカレート化。他藩に負けじと偵察送ったり、住民はその間山の上とかに仮住まいさせられたし、牛や豚を取り寄せ島内で飼い、朝鮮人が好きな焼肉や雉、キムチ製法も教わったという。一方、福岡藩(藍島という離れた場所)では貝原益軒が詩文の応答を求めたり、長州藩の船団を取り仕切ったのが村上水軍の末裔だったり。また藍島につけられなく、肥前に上陸した時は、使節団は戦争捕虜の朝鮮人たちが陶工として働かされているのを見たりした。
(2023 02/19)

第7章鞆の浦から第13章朝鮮人街道と彦根


鞆の浦対潮楼が正使の宿泊所であったが、福山藩主不在時に対応した藩外の人物がそれを忘れ、正使は怒ってしまった…が帰りは間違いなく正使も満足した。室津では冬の嵐の時、朝鮮側の船は着いたが、対馬藩の船がかなり遅れ、ずっと船内で待っていたという。兵庫では官の尼崎、民の兵庫と呼ばれたが兵庫の繁栄は尼崎を遥かに凌ぎ、朝鮮使も瀬戸内随一だと書いている。

大坂…1711年の大坂での責任者であった土岐氏が朝鮮人の船を描かせ、国元上野沼田に帰る時の土産にした。現地の旧家で見てほしいと依頼が著者にあって判明したという。大坂の酒屋木村蒹葭堂が財を投資して私設図書館を作ったと聞いて朝鮮使も見に行って讃嘆したという。この時(1764)通信使の一人が対馬藩の通用官に殺害されるという事件(この為、到着が遅れてしまった兵庫側の記述もあった)があって、警戒体制がひかれたが、木村蒹葭堂らは特別に交流が許されたという。

京都では耳塚という慶長の役の際の朝鮮人の5万人分の耳と鼻が埋められている塚。通信使も見ていたり、またある年には日本側で覆って見えなくしたり(個人的には誠意を込めるなら敢えて見せるべきだとは思うけれど、そこは当時の事情があるから押し付けはできない…それより本ではさらりと述べられている明治以降の耳塚の扱いも知りたい)。一方、朝鮮侵略の時に敢えて朝鮮に降った人達(清正の鉄砲隊長沙也可もその一人)も通信使に加わったという。

朝鮮人街道…大坂-京都間は淀川を船で行き(大名はもちろんオランダ商館使や琉球使も京街道などを使う)、京都から先は朝鮮人街道(関ヶ原の戦いで勝った家康が上洛した道で、これまた一般人、大名、もろもろは東海道鈴鹿越えへ)を行く。彦根では京橋筋の寺が宿泊所。信楽焼は朝鮮通信使の御用達となり、朝鮮人が嫌う(らしい)お櫃の木の匂いのため、それも信楽焼で作ったという。
(2023 02/20)

第14章大垣、第15章名古屋、第16章静岡から終章まで

第14、15章は昨晩、残りは今日の帰りに読んで、読み終わり(実は再読)。

大垣の唐人踊り再発見は上で述べた。名古屋では下級武士の通信使の追っかけ具合が面白く、静岡(駿府)での最初の通信使は家康との面会を望んだが、先に江戸の秀忠のところに行ってくれと言われたという。あと興津清見寺の額や洛山寺の絵。
江戸では家光の時の馬上才(馬に乗って行う曲芸)、新井白石の時の今までの能楽から雅楽に変更し、その中に高麗楽を入れて一行を感激させた(と白石が得意げに書いているとある)。
日光まで行ったのは3度。家光が亡くなって大猷院が完成した時の通信使では「家康の東照宮より豪華だ」という意見も出た。

辛基秀氏はこの連載(元々は雑誌の連載)出た直後2002年に亡くなった。この本の最後の方は多分口述で書かれたと思われる。朝鮮通信使の研究調査や記録映画制作など、普及に尽力した。その成果は大阪歴史博物館に収蔵されているという。
(2023 02/21)

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