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「日本語「標準形」の歴史 話し言葉・書き言葉・表記」 野村剛史

講談社選書メチエ  講談社

室町期まで

室町期の半ばになるまで、日本の中央と地方の関係は、中央から地方へ貴族や役人が下るという一歩通行的な側面を持つ。これが室町期になると徐々に変わっていく、という。

 ところが(物語などに描かれた姿としてだが)室町期から次第に、各地の人々が「京へはるばるのぼりゆく」という現象が現れてくる。一言で述べれば、ミヤコに一種の求心力が生ずるのである。その求心力は、言語においても生じたものと思われる。ミヤコ言葉に、ある種の特別な価値が生ずる。言語におけるその価値は、規範力となって現れる。地方の人々もミヤコの言葉を有り難がり、またミヤコの人士もその価値をことさらに自覚する。
(p18)


この辺は、言語史というより社会言語学の重要テーマになるのでは。ただ接触があるだけでは言葉は伝播しない。地方から上京するタームにならないと…
室町期における、口語(話し言葉)を保存している形態3種。狂言、抄物、キリシタン資料。この中で真ん中の抄物というのは、各地の「学校」(高野、根来寺、比叡山、三井寺、足利学校)や、ミヤコから戦乱を逃れてきた人々などによって教えられた「講義録」。この時代は講師の言葉一字一句間違えずに書き写すのが普通だったから、それで話し言葉が保存されたという。
(2024 04/04)

日本語における古代語と中世語の変化点

日本では古代から中世の言語変化は、それ以降現代に至るまでの変化より大きい、というのがこの本の第一のポイント。
以下は古代語と中世語の変化点。

1、活用語の終止形と連体形が、連体形にまとめられて合一化している。
2、形態的な現象としての係り結びが、ほとんど用いられない。
3、主格を表す際に主文でもガが用いられる。
4、「〜ている」「〜てある」という形式をよく用いる。
5、いわゆる助動詞(動詞の接尾語)が、基本的なところで大いに変化している。
(p25)


現代語では「私は起きる」「起きる人」と終止形と連体形が同じ。古代語では「起く」「起くる人」と違う場合も多かった。この1の点は実は2の係り結びと裏表の関係になっているとも言えるらしい。
(2024 04/06)

話し言葉のスタンダード

秀吉の天下統一で地方の人々が上京し、一つの口語スタンダードが生まれた。江戸期はそれが江戸にも分かれて上方と江戸で二つの中心を持つ楕円形を形成した。野村氏が重視するのは、心学などの普及とそれを取り入れた主に商人。彼らが一番丁寧な言葉を話す、と岡本綺堂などは語っていたという。
そして明治維新。幕臣、江戸詰各藩士、など士族の大多数が地方に引き上げ(士族とそれ以外の人口比、江戸期5:5、明治期1:9…江戸期に半数も士族だったのか)、先の商人などの言葉に残存士族の言葉が混ざり合って、空白の山の手に共通語として成立してきたのがこの時期の共通語。野村氏は、そうして形成されてきた共通語を、あたかも元々「東京の山の手の(自分たちがそうであるような)新しい上級官吏の言葉だとイメージを上書きした」、それにより標準語イコール東京山の手言葉という通説が生まれた、と東京帝国大学国語研究室主任になる上田萬年の例を挙げて第1章を閉めている…読み方これであってるかな?
(2024 04/07)

「スル」と「シタ」

第2章「書き言葉のスタンダード」
安岡章太郎「海辺の光景」(1958)を題材に、まずは近現代口語体の文章を。ここでは文末表現の「スル」と「シタ」の割合が1:6で、しかも普通はもっと「シタ」の方が割合高くなるらしい。けれども、次の例、安部公房「燃えつきた地図」は「スル」が連続する。こういう文体もあったりする(確か村上春樹もこんな感じだったと記憶するけど)。そして、ここからが興味深いのだけれど、実は上代の文学、例として「源氏物語」が挙げられているが、実は「スル」系の連続なのだという。そして源氏物語のそれは、現代文学のそれのような性急さというか現場レポートのような感じは全くしない(ここは「古典読んでるから」という前提が作用しているのかも)という。
(2024 04/09)

「海辺の光景」について続き。

 恐らく、この「光をはなっていた」は、物語りの基準時に従って、小説全体が「所詮は過去のことである」と教えてくれているのである。小説は現場の基準時に従って話しを展開しきれないというわけではないのだが、物語・小説はときどきこのように「過去」という物語全体の枠組みを確認している場合がある。
(p84)


そのことは次の例の「竹取物語」でも同じだという。それもそうだが、もっと大きく物語論全体を取り巻く図式にも持っていけそうな気がする。

「普通文」


続いて第2節「普通文」。小説の原文一致文体は二葉亭四迷らによって明治中期くらいには形成されていたのだが(第一次革命)、それ以外の書き言葉(新聞の論説や論文など)は文語体で書かれていて、こういったものを「普通文」と呼ぶ。明治末期以降これらも口語体に次第に遷移していく(第二次革命)。著者野村氏によれば、第一次革命の方はよく議論になるが、第二次革命の方はほんの付け足しで触れられる程度だ、という。特徴は先述口語体の特徴(p25)の変形、例えば終止形を用い連体形終止は用いられない、「〜ている」を用いないなど、口語体と違う形で差別化している。
この「普通文」は漢文訓読体をもとにしている。近代日本漢文研究の齋藤希史の論を引きながら、漢文の楕円形モデルを提唱する。楕円の二つの焦点は機能性(新漢語、普通文)と精神性(漢詩)。新漢語とはいわゆる「哲学」や「社会」などのヨーロッパ語から訳された新概念の語。精神性とは幕末維新期にかけて「天下国家」を論じる「精神」など。

 しかし、明治も中後期ともなれば漢文の精神性は次第に失われる。そこで「機能と精神の二つの焦点のうち、機能に重点を置けば、漢文は訓読文へと傾斜します。…近世後期から徐々に確立された訓読文体という型は、漢字漢語の高い機能を保持しつつ、漢文の精神世界から離脱するための方舟となったのです」と述べられることになる。さすれば漢文から離れた訓読文体は、あたかも現代口語文のような「万能の文体」となり、それは「訓読文が近代以前の文章から離脱して、現代口語文への道を開いたことを示しているのです。そんな文章はそれまでなかったのです。」
(p102)


今日でもこの「漢詩の精神性」を遺した言い回しがたまに見られる(p99の「これを省かざるを得ない」など)。今でも完全な「円」にはなっていない様子。
(2024 04/10)

文語体の成立

書き言葉スタンダードの歴史遡り、の続き。

 『三河物語』は、三河以来の大久保家の正しき由緒を述べ子孫に教訓を垂れたもので、「門外不出」としてある。公的な場所に現れることを予定していないのである。そのためもあろうか、どうもそこここに話し言葉調が出てしまっており、それが文章の個性的な面白さでもある。しかしそのことは、『三河物語』でのちの明治普通文に通じる漢文訓読調の文語体が志向されていなかったことを意味しない。大久保彦左衛門も、出来ることなら「正しい」訓読調の文語文が書きたかったことだろう考えられる。
(p121)


文語体と当時の口語体との乖離、そして漢字の宛字が多いのも特徴だとされる。この傾向は、ブケ階級のそれほど上の知識層ではないこの大久保彦左衛門の例だけでなく、最高レベルとされる新井白石でも、「折たくの柴の記」では「タ」と「シ」の混合誤用が多く見られると指摘している。それは当時の口語の「タ」を、そのまま「シ」に置き換えたと考えられる。

 文語体の成立は、文章で旧態を維持しょようとする規範の成立である。文語体は意識的な規範言語である。ここに我々は書き言葉の標準形態を見出すことができる。つまり文語体の成立は、書き言葉スタンダードの成立ということになる。
(p143)


明治期に言文一致の変化を見るとすれば、院政から鎌倉期にかけての文語体の成立も重要視すべきだ、という。ただその境は明治期に比べ明確ではなく、著者は12世紀の「今昔物語」辺り(「今昔物語」までと、それ以降の「宇治拾遺物語」や軍記物など)に境界を見ている。前にも出てきた「ている」「てある」がこの「今昔物語」の時期に口語に現れた。よって「今昔物語」ではこの表現が取り入れられているのだが、13・14世紀には一旦書き言葉としての使用が抑制される。新たな口語表現はこの頃成立した文語体には適さないと判断された。その後15・16世紀に「ている」「てある」は書き言葉においても隆盛を迎える。
(2024 04/13)

和漢クレオール?

第2章終わりまで。
文語体が口語体と完全に分離し、書き言葉スタンダードとなった作品は、意外なことに「太平記」なのだという。

 書き言葉だけで成立しているクレオールというのはふつうあまり存在しないと思われるので、「和漢クレオール」は、極めて特異な存在である。書き言葉としてのみ存在したのは、日本国土では権威語の話し手(中国語の話し手)が少なく、書き言葉として漢文を習うためであろう。漢文訓読は和訳しているのだから、クレオールではない。しかしその和訳を徹底すると不便になるため、和漢クレオールが発達したのである。このクレオールは、一部が日本語文の中にすっかり消化されてしまった。音読み漢語も日本語と見なされるようになった。また一部は次第に排除された。
(p163-164)


この「クレオール」の具体例は、和漢混淆の記録体だという。基本知識が自分は乏しいため、具体的に何を指しているのかよくわかっていないけれど、特徴は漢字列の読みが揺れている。音読み的でも訓読み的でもどちらとも取れる、ただ読みというもの自体は存在する。そういったものらしい。クレオールという言い方にはやや違和感あるけど、だからこそ刺激もある。
最後にまとめを引用。

 日本語の組織的な書き言葉の文章は、仮名文と漢文訓読という異なる系列の文章タイプへと発展した。漢文訓読は翻訳であるので、「日本語の組織的な書き言葉の文章」は仮名文であり『源氏物語』のような驚異の芸術性を獲得したが、もともとの話し言葉に引きずられて、一般的な書き言葉としては不自由であった。そこで院政期あたりから、書き言葉の文章の主流は、漢文の訓読に基づいた漢文訓読体の文章となった。漢籍・経典は絶えず学び続けられ新たな流入もあったので、漢語は一貫して漢文訓読体の文章に影響を与え続けた。主流の文章が書き言葉の標準形態と言える状態というのは、社会の状況に従う。相当に広い識字層、文章の読み手が成立していなければならない。広い識字層が実現した室町期に書き言葉文章のスタンダードが成立したと考えられる。たまたまそれは、『太平記』だったのである。
(p165)


で、その『太平記』の文章が江戸期-明治初期まで浸透し、今日にも一部残存している…わけか。

片仮名の謎といろいろ

第3章「表記のスタンダード」
現在は漢字平仮名混じり文が大半であるが、戦前くらいまで?は漢字片仮名混じり文も多かった。中古時代には、平仮名は女性や庶民を中心に、片仮名は漢文訓読の補助記号から当時の学問、宗教の文として発達。両者は最初は声に出して読めばだいたい同じ文章だったが、だんだん乖離してくる。平家物語の時には漢字の読みも音読みが多くなる。その片仮名が現在のように外来語とか擬態・擬音語とかにシフトするのはどの時代でどうしてか、という謎…は翌日回し。

いろいろ
漢字の音読み、呉音、漢音、唐音。呉音は主に仏教と同時に入り、その後やや一般的な語として漢音が入る。唐音は特殊形でないものも多い。「行」は「ギョウ」が呉音、「コウ」が漢音、「アン」(行燈)が唐音。それより?日本ではこのように漢字の音(音読み)に幾つかあるけれど、中国でも朝鮮でも漢字の読みは一つのみ。中国はわかるけど、朝鮮でもそうなのか(漢字を輸入したのは同じなのに…ちょっと脱線、ハングルの文字は、平仮名や片仮名のように子音と母音が合わさったものではなく、アルファベットのように表音文字なのだという)。
平仮名・片仮名は「表音的要素」が非常に高い(英語などのように、読まない文字とかはないとか)。
表意文字という言葉について。この章入って、漢字の説明に「表意文字」という言葉ではな「表語文字」という言葉が出てくる。表意文字という言葉は、漢字の「表音性」を軽視している、とのことで最近はあまり使われないらしい。が、野村氏は上記の通り、一つの漢字に多くの読みがあり揺れているから、「表音性」が薄くなっている以上「表意文字」という用語も価値がある、と考えている。
(2024 04/14)

とりあえず、片仮名が擬音語・擬態語・間投詞などに使われるようになったのは、江戸前期元禄の浄瑠璃辺りかららしい。それ以前の中世期、漢文訓読体の文章が書かれていたが、徐々に増えつつあった読者層の下層は、難しい漢語がわからなかった。なおかつ、同音異義語も漢語は多い。そこでこういう文章にある種の記号として用いられていた片仮名=?(何か表記がわからないもの)として把握していくようになった、とのこと。残る外来語(東アジア以外の)の片仮名もこの図式に従って考えるとわかりやすい。現れる時期も(戦国期のキリシタン文書だと外来語=片仮名とは決まっていない)、やはり江戸前期、新井白石のシドッチを尋問した記録「西洋紀聞」(これなどほぼ現代に近い)辺りから。後の蘭学の時代の文章は、地の文が漢字片仮名混ざり文なので、外来語の片仮名には「」付きとなっているものが多い。
(2024 04/15)

活版印刷、植字、そして校正

 本書は当然ながら、日本語のスタンダードを記述しようとしている。スタンダードというのは規範的であるのだから、全くの「自然史としての言語史」ばかりを対象とするにはゆかず、価値判断にかかわる人工的な問題を取り扱わざるを得ない。「仮名遣い問題」はその最たるものであって、自然言語としての日本語の歴史にとっては、さのみ重要な問題ではない。
(p213-214)


第2章でも見た通り、藤原定家の時代に書き言葉と話し言葉が乖離し始め、それに意識を向けたのが定家式仮名遣いと言われるもの。
(2024 04/16)

 活版印刷の現実は、まず原稿を書く人間の気まぐれを押しとどめようとするかも知れない。印刷されたものが、多数の人目にさらされるからである。また、活字を植えていく植字工には、相当の文字能力が要求される。その際植字工は「気まぐれのままでよいのか」と考えそうである。そして決定的には「校正者」である。「校正」の「校」は「枷、おり、教える」などの意味を持つ。「校正」には何か枠組みが必要であり、校正者はどうしてもそのオリの中に、獣を追い込みたくなる(「校猟」というそうだ)。
(p260-261)


最後の活版印刷のところから。それまでは仮名遣いも書き手それぞれの癖や好みもあったのに、活版印刷、植字、そして校正などそれに関わる制度がその手の揺れを少なくしていく作用を持つ。こうした点の研究は(特に日本においては)まだ少ない、と野村氏は述べている。
(2024 04/18)

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