「石の幻影」 ディーノ・ブッツァーティ
大久保憲子 訳 河出書房新社
不安と進歩
今日から「石の幻影」(ブッツァーティ)を読んでいる。なんだか知らないけど、国防省から秘密の研究の為2年間拘束されることになった中年物理研究者…というさわり。
ここで、彼がこの任務を受ける気になったのは、いつも不安を感じていたからだ、というような記述があった。この登場人物始め現代人は見えない何か(他の階層だったり未来だったり神だったり…)を気にしている。彼はだからこそ不安になりだからこそ受けた(だからこそ悲劇的結末になる…のかな)。でも、こうやっていろんな人々が不安から行動することで文明が発達してきた…それを「進歩」と名付けることができるのか?
「タタール人」もそうだけど、ブッツァーティはこうした各個人の側からボトムアップ的に物語世界あるいは哲学を築き上げる。この辺は似てると言われる(そんなに似てないとも思うけど)カフカとは逆の発想(構想)ではないか。カフカは不条理な世界、官僚機構などが(先に)あって、それ対個人というトップダウン的な感じがするのだが、今は。
で、この本は短編集という触れ込みだけど、この標題作「石の幻影」が中編…ほか5つの短編という構成。その短編5つのうち1つは昨夜読んだ(1980年…)。他の1つは「イタリア幻想短編集」にあったコロンブレ。こっちは再読してみようと思う。短いし。
(2012 10/16)
言葉と感覚
「石の幻影」の前半の後半くらい。秘密の研究施設を目にした主人公?夫妻。それはこんな感じ。
ここの描写はなんかイタリア未来派の絵画思い浮かべる感じ?でもこれらの構造物はなんか生命的な何かを感じさせる…という。それもそのはず、これらは人間の知能を作り出したもの…らしい。
ここがこの作品のキーとなるところか。似たような話?(と自分が思った)「モレルの発明」や「脱獄計画」などのカサーレスの作品では、人間の感覚(視覚とか)がキーになっていた。こちらは言語…なのかな。
で、この人間の知能作品「第一号」は、中心メンバーの男の前妻(浮気中に事故で亡くなった)の再現なのだ、という。となると、言葉の不信感を表明した前の文章がずれた意味をも持ってくる…
(2012 10/17)
個人と幻影
「石の幻影」だが、いよいよ中核に入ってきた…っても何から書いていいのかよくわからないが…
第一号に事故で亡くなったラウラを復活させようとした…その第一号はオルガの裸に昔の自分を想起してしまったみたい。んで、「その辺りにただよっている」思い出が流入した第一号は慟哭?したと思いきや、翌日には静かになる。そして4日後、幼なじみのエリザは第一号に誘われ内部に入って行くが…というところで最後の謎が解けるのか?ってところまで。
どうやら第一号はラウラであるとともにラウラでないことを知っているみたい。それがタイトルにある幻影ということだと思う。でもそれはただの幻というわけでもなく、何かが映じた結果、ここではエンドラーデの思いが映じた結果となっている…第一号みたいまで行かなくとも、人が他人を見る見方というものはそういうものではなかろうか?それを人は個人そのものだと思い込む…
標題作はあともう少し。
幻影破れて現代あり
なんか漢詩みたいなタイトル(笑)…
「石の幻影」(標題作)とおまけに「海獣コロンブレ」(前に読んだバージョンでは単に「コロンブレ」)読み終えた。「石の幻影」はエリザが閉じ込められて、駆けつけたエンドラーデ達がラウラの元の装置?を壊す…となんだか映画みたいな進行になってきて…だけど…
という終わり方。で、エリザ達は助かったの?っていう素朴な疑問については書いてない。それよりこの最後の文章見てると、今の社会そのものの記述ではないか、と思えてくる。第一号とは、初期のコンピュータノイマンか、あるいは宗教的女神なのか、とりあえずは現代社会の出現ということで(そっちに本来のテーマがあるような)…
でも、「コロンブレ」なども読み終えた今では、結局この2作は同じテーマなのでは…とも思う、し…
(2012 10/18)
ブッツァーティ「石の幻影」の残りの短編3編を読み終えた。「誤報が招いた死」の柩に入る時の書き方がぞくぞくする。考えてみれば、今日読んだ3編というか「石の幻影」自身もある共通のテーマがあるような。影武者的な、でもそこからはみ出してみたい、というような。
(2012 10/19)
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