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「ポーランドのボクサー」 エドゥアルド・ハルフォン

松本健二 訳  白水社エクスリブリス


「早稲田文学2015年冬号」から

「早稲田文学2015年冬号」から、エドゥアルト・ハルフォン「遠い」を読んだ。
ハルフォンはグァテマラの作家、であるけれど、先輩のアストゥリアスやレイローサとは違い、日常の何気ないことからミニマルに語って行くタイプ(最近ラテンアメリカ地域で増えてきている(アルゼンチンのセルヒオ・チェイフェクやチリのアレハンドロ・サンブラなど))だという。
この「遠い」を含む短編集が白水社エクスリブリス「ポーランドのボクサー」として出ている。この「遠い」でも、作者そのものの名前で出てくる大学文学講師の祖父のアウシュビッツ体験がちらりと出てくる(訳者は同じ松本健二氏だけど、短編タイトルはここでの「遠い」から確か変えているはず)

グァテマラの私立大学で文学講師をしている語り手。世界の著名な短編の講義をしている中で、周りの無関心な学生とは異なる二人の学生と会う、という展開。その一人フアン・カレルが父の死によって退学し、語り手がその後を追ってカレルの出身の村を訪れる。

「遠い」というタイトルを感じさせるのは、例えばその村でのこんな場面。

  私は彼女と自分を隔てているあらゆる格子窓のことを、ありとあらゆる障害のことを思い、無力感に襲われた。
(p33)

村で唯一の店で、格子窓越しに見た店の少女。格子窓は、グァテマラの何か特有の事情だけではなく、もっと一般化されたものも含む、近づこうとするものを無言で拒む「遠さ」なのだろう。

あとは、この短編で気付いたのは、インディオ先住民の料理の仕方や土地の名前、現地語の響きなどを、一つ一つ確かめようとしている語り手の姿。ユダヤ人始めとする中東出身の祖父祖母を持ち、自身はアメリカに渡って、グァテマラに戻ってきた時にはスペイン語すら忘れかけていたという作家の姿を重ね見る。
(2018 11/05)

かもめブックスにて

迷ったけど、初神楽坂にすることにした。ここ気になる店が結構あるけど、今回はかもめブックスだけ。神楽坂駅2番出口。ここは校正等の会社が開いたブックカフェ。テーマごとのまとめが小気味よい。

「チェコSF短編小説集」平凡社ライブラリー

「ポーランドのボクサー」エドゥアルド・ハルフォン  松本健二訳

ハルフォンは早稲田文学のと絡み。「遠い」はこの本では「彼方の」になっている。もともとの「ポーランドのボクサー」所収の短編に、中編の「ピルエット」と「修道院」の各章が順番入れ替えて再編されたのが、この日本版「ポーランドのボクサー」。これはハルフォン自身の指示で、「自分の作品で「石蹴り遊び」をやりたい」という。書かれた作品群が新たな読みを与えられる。ちなみに他の言語版でもまた違った配列になっているらしい。

「紙の民」もあったけどなあ…
(2018  12/10)

そして「彼方の」

「彼方の」に出てくるポーランドのボクサーへの言及箇所の、「弾痕」と「くぼみ」(p14)の違い。

(「弾痕」早稲田文学2015冬号、「くぼみ」エクスリブリス版)

「彼方の」のラスト、フアン・カレルの未来を占う黄色いカナリアが示した紙の文言を読んだフアンが、それまでの怒りの目つきから笑みが生まれたところ

 理解されるべきではない微笑みというものがある。
(p39)

理解してしまおうと(こっちが勝手に)すれば、ここで傷跡を再登場させていることも含めて、亡くなった父親に結構な虐待受けていたのでは、と思われる。父親の死は何かしらの解放だよとかそんなことを読み取ったのかな。それとも、ちぇ、何言ってんだ馬鹿馬鹿しい、という突き放した微笑みかも。でも「理解されるべきではない」んだよね。「理解できない」だろうし。


 ジョー・クルップは話すときと同じように、ゆっくりと、じっくりと、まるで足も言葉も特に目的地に急いではいないかのような、本当はどこにもむかっていないかのように歩いた。
(p48)

ジョー・クルップはマーク・トゥエインの大家。語り手はトゥエインも同じような足取りではなかったか、と想像する。それは、なんかなんとなくこの短編集(日本版順列)にも言えるような。

「ポーランドのボクサー」の3編目には、セルビアのピアニストが出てくるのだが、彼に語り手ハルフォン(オートフィクションと訳者が名づける独特の、しかし今の世代に主流になりつつなりそうな、この手法については後ほど)はセルビア語で挨拶し、驚くピアニストに「クストリッツァで覚えたのさ」と言ってのける。
セルビア・クロアチアという、外側から見ると断絶しているように見えるこの地域も、ほとんど同じ言葉話していることもあって、割と相互の情報流通があるとか、逆にハルフォンのグァテマラはスペイン語一色ではなく、現地先住民の様々な言葉が入り組んでいたり、一筋縄ではなかなかいかない。
(2018  12/26)

「ポーランドのボクサー」とジャン=ミシェル・バスキア


 バスキアは絵のなかでいったん書いた文字のいくつかをあとで上から線を引いて消しているが、それは本人いわく、もっと見えるようにするためだった。そうやって消されているという事実そのものが、それを読みたい気持ちにさせるのだと。
(p120)

「テルアビブは竃のような暑さだった」「白い煙」とだんだん物語の中心に近づいて行きそうな展開。前者は「テルアビブ」とあるが、テルアビブは到着しただけで、物語のほとんどはエルサレム。
妹の結婚式(ユダヤ教正統派?)に出席するためのイスラエル入国であったが、正統派に凝り固まってしまった妹夫妻や、昔の女友達タマラとの再会、十代のころヘヴィメタバンドでピアノ弾かないかと誘われ、それらしい格好に仕立て上げられ、語り手自身も満更ではない気持ちで家に帰ってよく見たら、帽子の徽章に鉤十字がつけてあった・・・とか。最後には弟に「妹の結婚式には出ない」と言って、弟から罵倒されるのだが。

後者はそれを受けて、というかそれより前なのか。祖父がウッチでナチスに捕らえられアウシュヴィッツに連れて行かれたこと、「ポーランド人は我々を裏切ったのだからポーランドへは行ってはならん」という祖父の言葉、それにも関わらずポーランドへ行ってミルクバー(社会主義時代の安食堂)入った時のことなどが、先述のタマラとの初見を交えて語られる。

祖父は孫の語り手に腕に刺青されていた5桁の番号を、電話番号を忘れないようにするためだ、と言っていた。この5桁の番号(当然アウシュヴィッツの管理番号)を祖父も孫も消し去ることがないようにしたい、という思いがあるのだろう。

表題作「ポーランドのボクサー」より


 祖父はまた黙り込み、私にはその話し方が穏やかな波のように思えた。記憶もまた振り子のようなものだからかもしれない。痛みとは少しずつしか耐えられないものだからかもしれない。
(p130)

 黒い壁に白い小さな跡があばたのように散らばっていた。壁のいたるところに白いくぼみがあった、と祖父は人差し指で宙の見えない鍵盤を押しながら言い、私は煙草を吸いながら、満天の星空を思い浮かべた。祖父は言った。ぽつぽつと散らばった白い点。祖父は言った。きっと弾丸が無数の後頭部を貫通したあとにめりこんだ跡。
(p138)

「弾痕」と「くぼみ」の謎がここで明らかになる。
(2019 01/01)

絵葉書みたいな小説…

と言うべきか、でもないのか、とにかく、「ポーランドのボクサー」今日は「絵葉書」。居場所を知らせずに、絵葉書の写真とは全く無関係な内容を書く(空白の時もある)セルビア系ジプシー(原文・訳文のまま)ピアニスト、ミラン。この次から次へと紹介される絵葉書自体、果たして時系列的紹介なのかどうか、届いたのは時系列だとしても、送ったときは違う順番だったのでは、とか。考えると楽しい。そもそもこの小説自体が(以下略)…

…っと、略さないでもちょっと考えてみると、前にも書いたこのハルフォンオートフィクション三部作をまとめたこの「ポーランドのボクサー」日本版。順番が各国版で違うのもそうだけど、そもそも別の作品として発表した「ポーランドのボクサー」「ピルエット」「修道院」の短編集及び中編小説(後者二つ、ただこの作家の場合、あんまり短編・長編の区別は必要ない。また短編集のが原型で中編の章に展開したのがのってるという場合もある)。ただそうは言っても、中編小説2つに比べ、短編集の方は自由度が大きいから、そこら辺がこなれているかいないかがこの試みのポイント。

で、日本版のこの短編集のここら辺りの順番が「絵葉書」ー「幽霊」ー「ピルエット」の順なのに対し、元々?の中編小説「ピルエット」では「幽霊」ー「エピストロフィー」ー「絵葉書」ー「ピルエット」になっている。「エピストロフィー」は日本版ではもう3編目で出てきている。この章みたいな、ある種経過句的な、該当本人を見せないで回想や雑多な情報を流すような章は、ラスト付近で突然訪れるカタストロフィーの直前に置く(つまり元々の順番)が効果的なような気がするのだが、合併版ではどうか。

ちょっとだけ内容に触れると、こういう絵葉書を無差別的?に送るというのがミランの戦略。それは彼自身が書いてきた昔の(作曲家・ピアニストの)リストに関する映画で、どうしても払拭できない、ジプシー少年とリストとの壁のようなものから自由になるための挑戦…

   それは現代のノマド、隠喩としてのノマド、絵葉書ノマド、もはや真のノマドになることが禁じられた世界に対するノマドだった。
(p147)

(2019  01/03)


 まるで二人がそこにいないかのように。とるに足らない存在。無意味な存在。実体がないという言葉でもまだ足りない。そして、優雅に舞うと形容するのがふさわしい粉雪のなかを歩く二人を眺めながら、私はミランのもっとも優れた才能を思い出した。
(p184)

最初の短編「彼方へ」にでも出てきた、それがなくなって組み換えあって…
(2019  01/05)

ハリネズミは魚の味がした

「ピルエット」…ピルエットとはつま先蹴って空中一回転の技。

語り手がベオグラード来て、写真と、最後の絵葉書にあったそのピルエットという言葉を頼りに、ジプシーの人々に聴いて回る。ジプシー嫌悪しているようなのに、変に協力的なスロボダンという青年とともに。

そんな中「ジプシーの好物」ということで、ハリネズミが出される…味は…

最後の引用は、先のスロボダンと語り手との道行きから。

 雪がいっそう激しく降っていた。道は混んでいた。私たちは一時間以上言葉を交わすこともなく、おそらく二人とも同じことを空想しつつ、あるいはまるっきり逆のことを空想しつつ、次第に暗くなっていく街を眺めていた。
(p208)

こういうなんでもないけど含蓄がある文章が、自分は好きだ。同じことでも逆のことでも、どちらでも語り手にとっても作者(読者)にとっても、想定内だろう、といったような。
(2019  01/07)

握りしめた左手に本当の名前が?

とりあえず、「ポーランドのボクサー」を今さっき読み終えた。

 エルサレムの歩道を足を上にして歩く、イスラエル人に混じって足を上にして歩く場面を記憶に留めようとしなくては、そのもっとも美しい細部を見つけ出して心のカメラで、盲人のカメラで写真に残しておかなくては、理由はいつかわかるだろうと。
(p258)

ハルフォンのオートフィクションの文学観がここにはあると思う。

 でも本当はどれも嘘なんだよ、と私は言った。そのうえで僕たちはみな自分自身の嘘を信じているんだ、と私は言った。みんな自分にいちばんふさわしい名前にしがみついているんだ、と私は言った。みんな自分が一番得意な役を演じているんだ、と私は言った。でもすべてはどうだっていいことさ、と私は言った。最後は誰も生き延びることなどできないのだから。
(p280)

この作中の様々な登場人物中、最も「黙ってしまう」率が高かった、ハルフォン自身が最後にきて、「堰を切ったように」話し始める。今日読んだところの最初「さまざまな日没」で描かれる祖父の死、そして「嫌々ながら」聞いていたはずのラビのティカル訪問の際の「日没を何枚も書き続ける先住民の男」の話。

個人というのは何か統一されたアイデンティティーを持つものではなくて、様々に変わり、役や名前さえも変わり、一瞬一瞬を捉えてこれも後々変化していく記憶の束に断片的に入れ込む、そんな存在なのではないか、と思える。その瞬間瞬間には、先の逆立ち少女のような美しいものも、祖父の腕に刺青されたアウシュビッツの番号のような悲惨なものもある。

処女作?の「文学の天使」(2004)ってのもちょっと気になる。ヘッセ、カーヴァー、ヘミングウェイ、ピグリア、ナボコフの五人の作家の、人生の細部の1シーン、文学観など、他の作家へのインタビューなどを織り交ぜて一つのテクストに仕立て上げているという。それは、この作家の場合、読むもの誰にも共有し入り込むことが可能な、開かれたテクストになっているのだろう。
(2019 01/08)

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