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「犠牲者」 ソール・ベロー

大橋吉之輔・後藤昭次 訳  白水社

読みかけの棚から
読みかけポイント:実は読みかけではなく、本整理している時の再読。続き読むことあるかな。それからベローとベロウは揺れてる…

ソール・べロウ「犠牲者」を第1章だけ再読してみた。まずは冒頭から引く。

 ニューヨークではバンコックと同じくらい暑い夜がある。大陸全土が移動して赤道に近づき、灰色にくすんだ大西洋が熱帯の緑の海にかわり、町に群がる人びとは、未開のエジプト人たちが、神秘をひめた巨大な遺跡にたむろしているかのように見え、まばゆいばかりの町の灯は空の熱気に向かって果てしなくのぼっていく。
(p7)


この調子でいけばピエール・ルイスにでもなれそうだが、これはソール・べロウだからそうはいかない(笑)。「そんな夜、エイサ・レヴィンサールは・・・」と現代世界に連れ戻される(でも、こうして始まったことや、序詞に「千一夜物語」やド・クインシーの「阿片のくるしみ」などが置かれていたことはこの物語読み進めていくときに記憶に留めておくべきこと)。
というわけで、第1章ではこのエイサという人物が、弟の妻の家に仕事を放り出して訪れる。弟自身はアメリカ中を仕事(造船業)しながら飛び回っているらしい。子供が病気だという。弟の妻はイタリア系。

これからの展開に引っかかってくるのはここかな。

 彼女の目は不安そうで、あまりに明るく、きらきらとうるんでいて、動作は過度に活発だった。それを見ていると、注意力散漫というか、あるいはほんものの狂気があらわれているのではないかと思われた。しかしそれは、そのような兆候に彼が敏感でありすぎるせいなのかもしれなかった。彼は自分でもそれがわかっていたので、早まった結論をくだしてはいけないと自分にいいきかせた。
(p11)


自分なりポイント1
「不安そう」というのと「あまりに明るく」の並置。自分の印象ではなんか正反対な言葉だけど、「あまりに」という副詞が精神的不安定さを示唆しているのではないか。
自分なりポイント2
狂気を孕んでいるのは、彼女か彼か。他人の姿や性向を見ているという自意識は、逆に自分の自意識の投影を見ているだけなのではというところに落ち込む。他人をどれだけその人として見ているのか、見ることができるのか。

この「犠牲者」はべロウの長編第二作。一作目は「宙ぶらりんの男」。この二作品の次に「オーギー・マーチの冒険」が来て、べロウの作品世界は本格的に開けてくる、という。で、この二作品、「宙ぶらりんの男」は「地下生活者の手記」(解説内表記)、この「犠牲者」は「永遠の夫」というドストエフスキーの作品を下敷きにして、これからのべロウ作品の下敷きになっている、と解説にはある(「永遠の夫」はまだ読んでない・・・)。
ほぼ同時代アメリカ作家のジョン・バースにもこうした図式があったけど、どうなんだろうこの二人の比較ってのは?
(「犠牲者」と「旅路の果て」、「オーギー・マーチの冒険」と「酔いどれ草の仲買人」ってなんとなく似てたりする?)
(2020 04/08)

後日談
あとでネット検索してみたら、「犠牲者」の主筋は「お前のせいで面接に落ちた」と因縁つけられるレヴィンサール、というもの…そうそう、なんとなく思い出してきた。ではレヴィンサールとこの義妹に何かあるというわけではないのか。ないと「旅路の果て」とはそんなに近くないけどなあ。

べロウは結構翻訳出ていたのだけど、今はほとんど絶版…根強いファンも数多くいる模様なのだが…
(2020 04/09)

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