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「もどってきた鏡」 アラン・ロブ=グリエ

芳川泰久 訳  フィクションの楽しみ  水声社

1980年代、小説とも映画ともご無沙汰だったロブ=グリエが発表した「自伝小説」? 自分のこと書きながら仕掛けもたっぷり…らしい。
(2022 05/01)

ビュトールとロブ=グリエ

昨年読んだ、ビュトールの「即興演奏」とも比べたいような。またまた困った?ものを見つけた。自伝なのかフィクションなのかそれとも・・・
それも、外枠の外にまた外枠があるようだ。ひょっとしたら、永遠に外枠しかないのかもしれない。

 だから、書き出し(「私はこれまで自分以外について語ったことなど一度もない・・・)から、七年近くが過ぎてしまったが、この言葉は当時、挑発的だった。
(p13-14)


次の章(この作品は2、3の小題を持つ多くの章からなる・・・だから目次が大変なことに(でも、手元において時々見返したい読者にとっては親切設計か?))の冒頭(p16)がまさに「私はこれまで・・・」となっている。
一方、一番の外枠章では、アンリ・ド・コラント氏という「謎」が出てくる。子供の頃のロブ=グリエ家に来訪し、しかも子供には近づけさせなかったという。これが旗印とか鍵になって、この本は進んでいくようだ。

 私は一種の探検家のようなもので、果断ではあるものの、ろくに武器を持たない軽率な探検家で、来る日も来る日も自ら歩いて可能な道をつけたところでも、だからといってそんな国が以前にも以後にも継続して存在するなどと信じていない。私は範とすべき思想家ではなく、むしろ旅の道連れであり、でっちあげの同伴者であり、予測のつかない探求の同伴者なのだ。そして、私が危険を冒して出かけようとしているのは、またしても虚構のただなかへである。
(p21)


この作品ほど「フィクションの楽しみ」という水声社のシリーズ名にフィットするのはないかも。

訳の問題になるけれど、「そんな国」というところの「国」という箇所は違う語の方がいいのかも。原語はわからないのに言うのはなんだけれど「道」とか「世界」とかいう辺りでも少し詩的な言葉(浮かばない・・・)
とにかく、ヌーヴォー・ロマンの作家と自分は近縁性?があるようで、この作品も気に入りそうな予感・・・この後、「道」、「探検」というキーワードから、少年ロブ=グリエの山(ジュラ地域)と海、山への親しみと海への恐怖、ブルターニュ地方での海岸線探索と夜の悪夢、という章が続く。

 私はそのような細部を、単に半過去形で生きてきたわけでも、そうした形容詞的な理解のもとに生きてきたわけでもない。加えて、そうした細部は、それがまさに現働化するとき、ほかの無数の細部にまじってうごめいていて、その交差した系こそが生きている生地を形づくっているのだった。
(p26)
 (現代小説の人物たちは)まるで必死に、自分たちには扉の閉ざされている本当の世界に入ろうとし、あるいは、自分たちの不可能な探求に他者を、すべての他者たちを引きずり込もうとしているみたいで、そこには無垢な読者もふくまれている。
(p32)


自伝なのに(なのか)評論の割合が高いのも「即興演奏」と近いのかも。小説を読み解こうとしているのに、いつの間にか小説に巻き込めれているような気がするのは、登場主要人物のそうした企みによるものなのか。
この後の章で、またコラント氏が出てくる。靴の音も、馬の蹄の音も全く聞こえないで来る、と書いてあるが、ということはコラント氏は幽霊なのか。そうすると、怖がりのアラン少年には近づけさせまいとした親の行動も納得はできるのだが。
(2022 05/03)

サルトルの文体の変容

 そしてそれ(19世紀の小説システム)は、理解を超える散逸する核分裂やブラック・ホールや袋小路の代わりに、安全で、明快で、一義的で、とても目の詰んだ編み目で織られた星座を据えることで、少なくとも体裁をつくろうとしたのかもしれない。目が詰んでいるので、もはやそこに死を見分けることはないだろうが、死じだいは編み目と編み目のあいだでわめき立てていて、なのにその系が切れても大急ぎで編みなおされてしまうのだ。
(p40)


「なのに」以降がわかりにくいけれど、要するに、死が綻びを読者あるいは生活者に見せても、物語あるいは生活に必要な因果関係は、新たに編み目を作って塞いでしまう、ということか。

 じっさいそれ(歴史叙述に使われる定過去)は、じつに完了していない動作を、きわめて移ろいやすい思考を、もっとも曖昧模糊とした夢想を、宙吊りにされた意味を、もろい欲望を、錯乱したり口に出せないような記憶を、瞬時に決定的に凍結すること以外のいったい何だというのか?
(p41)


ページ近いが…サルトルの「嘔吐」から「分別ざかり」の移行…定過去ではなく、複合過去と現在で書かれるという。これに青年?ロブ=グリエは惹かれていたのに、同じサルトルが「自由への道」で定過去で書き出したことに戸惑う。

フランスがドイツ占領化になった1940年、ブレストの艦隊はそこを離れ、ロブ=グリエ少年を怖がらせた夜の衝撃音の元であった燃料油備蓄地下タンクに火を放った。煙の柱がいくつも立ち昇り、それが庭先垂れ落ちてきて「ふわふわした雪の塊のよう」だったという。またその後やってきた疲れ切ったサイドカーのドイツ兵は「迷路のなかで」に挿入されている、という。ブルターニュの海岸部の出入りは禁じられた。

 私の脳裏で変容がすっかり成し遂げられるには、おそらく、そうした臍の緒的な身体的接触の切断が必要であり、そうした長期にわたる別離が必要だったのだろう。
(p52)


今はp53まで…この調子で書いてたら、一向に進まない…
(2022 05/07)

 そして私自身の分身である海が姿を見せ、私の足跡を消すのだ。そのとき私は最初の文を書いている。それは、常にすでになされた行為の、記憶にもない昔からの反復であり、行為はなされたのに、私の背後にはその行為を示すいかなる痕跡もない。
(p62)


「弑逆者」…このロブ=グリエの作品はキルケゴールからの引用と海(波)が重なり合う。
フランスの敗戦は負けるべくして負けたある意味だらしないという印象で、ナチスドイツの敗戦は一つのシステムの崩壊のようにロブ=グリエには思えたらしい。
(2022 05/09)

バルトとサルトルとロブ=グリエ


今日もほんのり?進む。
今読んでいるところは、ロラン・バルトが話題の中心。バルトは交通事故で亡くなったのだが、事故のあった日、ミッテランと会って昼食をとっていたのだとか。ロブ=グリエがこの箇所書いていた時はちょうどミッテラン政権になったばかりの頃で、政策プログラムにあったものをがっちりそのまま行っていったため、資金面含め身動きが取れなくなってきた頃。

 しかしサルトルは(ひとつの体系に統合しようとしていたのと)同時に、すでに現代的な自由観にとりつかれていて、それこそが、ありがたいことに、彼のすべての企てを侵食している。それゆえにサルトルの大きな構造物-小説にしろ、批評にしろ、あるいは純粋な哲学にしろ-はそれぞれ次々と未完成のままで、どっちから吹く風にも開かれている。
(p90)
 新たな構造とは、不確実性であり、流動性であり、横滑りである。
(p91)


というわけで、バルトよりも他のことに目がいってしまった。といっても、このp91の戦略は誰よりもバルトの戦略…しかし、バルトの小説ってあったのかな。
最後はカフカ「城」の読みから。

 自ら「城」を責め立てていながら、絶えず自身を犠牲として差しだしているのはK自身なのだ。
(p101)


門に近づきつつも、門を越えることはない。門から先へ行けば死が待っており、それは自由の消滅を意味する。
(2022 05/10)

コラント、鏡、馬、三題噺の自伝内小説


今日読んだのは、自伝内小説ともいうべき、コラントの挿話。海岸でコラントは海に浮かんでいる鏡を見つける。1メートル近くあるそんな鏡が沈まず浮かんでいるのも妙だが、その鏡に昔のコラントの恋人で既に亡くなった女が映っていたという。このマリ=アンジュという女はロブ=グリエの映画「囚われの美女」でコラントと一緒に登場している人物。また、この物語の一バリエーションとして、マリ=アンジュをコラントが殺した、というのもあるらしく…
随分前に出てきた、馬の蹄の音が聞こえないというのは、この時の恐怖が馬に伝染したから、その時以来…ということらしいのだが。
とにかく、やっと標題の鏡が出てきた。
(2022 05/11)

ロブ=グリエの家族の信条

ロブ=グリエの家庭は(当人が回想するには)右翼側で反ユダヤ主義だったという。家では、ドイツ占領下ではなく、それが終わった時からペタン元帥の写真を飾ったという(その後、ロブ=グリエの友人の左翼寄りの友人たちが家に来て、その写真を見た、という)。フランス庶民のイギリス人嫌いという気質?から、ドイツとフランスはそんなに仲が悪くない、どんな形(例えばナチス)でも、ドイツとともにヨーロッパをまとめイギリスに対抗するのだといったような漠然とした考えがあったという。また、反ユダヤ主義については、こんな文章がある。

 その最も疑う余地のない理由は、道徳の領域の維持という根本的な気がかりにあったからで、それは、いかなる国際主義に対しても覚える深い不信の念に結びついていた。
(p154)


なるほどね、今の日本で外国人が多数入国することに抵抗がある人の一部は、それにより日本の道徳が消えてしまい秩序が保てなくなるという理由から。そういう不信がちょっと前までは主流だったと思う。
(2022 05/12)

 それどころか二人(ヒトラーとスターリン)は、彼らが体現している体制の論理的帰結を本当に代表=表象しているのだ。そして、もしこれと無秩序のどちらかを選ばなければならないとすれば、私は何ら疑いなく無秩序を選ぶ。
(p171)


秩序の維持を選んでいた両親は終戦後も変わらず、しかしロブ=グリエ自身はこの後両親の考え方から離れ、変わって行く。それが成人になることと同一なのか。
(2022 05/13)

カミュとサルトルとフッサール

今日p232まで読んだ。
第二次世界大戦時にニュルンベルグの軍需工場にいた時に遭遇した空襲から始まり、ブルガリアでの鉄道工事の参加、東京行きの飛行機がハンブルグを離陸する時の事故、大西洋客船航路でのテロ騒ぎ、その二つの事故に対するジャーナリズムの騒ぎ立て方とエーコの擁護(でも、エーコはその記事の内容をロブ=グリエ自身のものだと錯覚している)、などなど。そこで何度も出てくる感覚が、自分は部外者で何かの偶然によりここにいるにすぎないというもの。こういう感覚、自分にもある。

 危険であるにもかかわらず、そのときもあらためて、まるで間違いでそこにいるという事実が、自分を守る際にも決定的な役割を演じたかのようだった。あそこを飛んでいるいくつもの飛行機と戦争をしているのは、私ではない。彼らの爆弾がねらっているのはこの私ではない。
(p193)


続いて、ロブ=グリエが衝撃を受け、そしてその方向をより一層先鋭化させようとした二人の先達、カミュ「異邦人」、サルトル「嘔吐」、特に前者について。

 それは、この上なく奇異で居心地の悪い感覚である。というのも、まさにこの感覚には内側がないからだろう。「内部」がなく、自らの存在を絶えず-とはいえ初めから終わりまで持続してではないが-自分の外に常に投影しつづけない限り(まさにそうした運動をしつづけない限り)はっきりとは示せないのである。
(p215)


自分の意識の内部からあらゆるものを汲み出し、外部へ放出させること。そこには膨大なエネルギーと内部の空虚が生まれ、やがて充満してきた外部によって破裂させられる、というイメージをロブ=グリエは提供している。そして、その破裂の後、囚人用独房で、四方の壁に上部に小さな開口部しかなく、そこにいてかって自分の部屋にあったモノを細部まで思い出す、というのが「覗くひと」のテーマなのだという。

 私たち(ロブ=グリエとその母)が広大な風景よりも、ぽつんと別に、目立たず、いくぶん余白にあるような要素に心を動かされるということだ。山の上から眺められた大きな湖より、水のたまった窪みの縁に苔むした石が三つ偶然に配置されているほうを、私たちは好む。
(p229)


こうした(母親譲りの)ミニチュアサイズのものへの偏愛が、ロブ=グリエ作品の魅力にもなっている。そしてそれらはだいたいにおいて、反復しズレを生む。
カミュとサルトル、そしてフッサール(彼ら二人はフッサール純粋意識をイメージしているという)の辺りは、まだ半分も理解できていないと思うので、解説から一文あげておく。

 余計な内面や主体の意識を前提にしてしまうからだが、そうした形容詞性や隠喩=直喩表現を徹底して排除するところに、ロブ=グリエの「幾何学的な描写」と言われるものの領域が顕わとなる。
(p299)


(2022 05/15)

母親話とスズメの話


「覗くひと」を読んだ(この時期の「最初の読者」は母親だった)母は、「こういう作品あっていいと思うけど、自分の息子には書いて欲しくなかった」と言ったという。
なかなか強烈な人らしくて、ロブ=グリエと姉が子供の頃に、発車しそうなバスのタイヤに姉妹を押し付けようとしたり、夫にナイフをつきつけたりしたり…一方、アメリカでロブ=グリエ作品をひろめたモリセットという人は、ロブ=グリエの母親に会いに来て「偉大な作家には偉大な母親がいる」と信頼した、という。

今日読んだ最後の章は、スズメを踏みつけた話。弱っていたとはいえ、一つの生命を踏むというこの作品の中では(他の箇所との対比で)異様にリアリティがある。誰しもこれに似たような体験あるのでは。
(2022 05/16)

収集癖とフロベールの穴とスタヴローギンの後継者

 間違いなくそれは世界を所有する(存在するために持つ)という途方もない欲望の一部をなしていて、切手や植物やさまざまな物を収集するのと同じで、適切な順序になんでも整理する癖とも同じなら、どんなものであれ捨てることができないこととも同じで、新たに行った国で残らずおびただしい数のスライドを取る(次いで映写用の収納ボックスに分類する)習慣とも、あるいは自分の好きな詩や何ページもの散文をできるだけたくさん暗記して覚える習慣とも同じことなのだ。それこそよくある幻想で、つまり(知であれ他の何であれ)集めるという本能は支配欲の一部であり要するに、単に生き残ろうとすることに等しい。後にようやく、それもずっと後になって気づくことになるのだが、獲得された物はすべて死の側にある。
(p259)


収集(自分にはある、ある)、順序に並び替え(ある…)、捨てることができない(ある、ある)、詩や散文の暗記(…ない…)、すべて死の側(気づき始めている…)
この後はロブ=グリエが語る文学史? デフォーからスターン、ディドロの語り手の言葉の創造の自由、バルザックのまた逆の一方にふれた世界の一貫性…そしてフロベールが来る。

 この先駆的な「新しい小説」(『ボヴァリー夫人』)は、それより前の、何もかもが充溢と堅固に基盤を置く半世紀とは完全に切断されていて、まさに「欠如と誤解の交差点」である。
(p272)
 書くことが、つづいて読むことが、欠如から欠如へと進みながら物語を形作ってゆくのだから。
(p273)


p274ではこの『ボヴァリー夫人』の穴の戦略を、囲碁(全て囲まれていない盤の升目が陣地として生きている)とか、ポッパー(作中表記による)の反証可能性と合わせて論じている。

続いて、ドストエフスキーの「悪霊」のスタヴローギン。

 『悪霊』の内部を絶えず動く「空虚な中心」であるニコライ・スタヴローギンがもどってくる。こと男は数ある悪魔のなかの一人ではない。悪魔のなかの悪魔なのだ。つまり、欠如する悪魔であり、欠けている悪魔である。
(p275)


スタヴローギンは小説世界の前面にほとんど出てこない。海外にいたり、又聞きの中に出てきたり…そして、どの位置にあったのかも不明な「告白」の手記の最後の2ページをスタヴローギン自ら破いてしまうのだ。
このスタヴローギンの後継者が(書いている時は『悪霊』読んでいなかったが)、ロブ=グリエの「覗くひと」なのだという…そして、もう一人いませんか、そう、この小説内のコラント氏もおそらくまた…

 その日、訪問者に向かって霊感を受けた言葉を口にするのだが、それは、満ちてくる海や揺らめき動く海藻や岩礁にあいた穴についての気ちがいじみた話で、そうした穴では危険な海水が渦巻き、表面には泡の小さな線ができ…
(p279)


ここで、作品冒頭近くのp23のブルターニュ、コート・ソヴァージュの海の描写と響き合う。
p283まで、あと残り2章、10ページ切ったけど、ここまでにしておこう。
(2022 05/17)

コラントの葬儀

ということで、ブラチスラヴァで警官に殴られ歯を折った話と、コラントの葬儀で「もどってきた鏡」読み終わり。アンリ・コラントはロブ=グリエ自身の映画「囚われの美女」にも出てくるという。相互テクスト性もあるわけね。

 秋の終わりだった。人びとは黒っぽい服に身を包み、雨で水浸しになった地面にひざまずいた。私の父がロシュ・ノワールに帰ってきてこの話をしてくれたとき、私が思ったのは、それこそ「人間の意識のもつ霧であり湿り気にほかならない」ということだった。
(p289)


「」内は何か著名な文章を引用しているのか。このコラントの葬儀の揺らぐ霧の中で、いつまでも終わらない?お茶を横目で見つつこの作品は終わる。

続いて解説から。

 そうした異質なものどうしがこすれ合わされるとき、いわば言葉が波立つ。本書を読むとは、まさにそうした波立った言葉にさらわれ、エクリチュールの波間をただよう体験にほかならない。
(p296-297)


自分の読後感だと虚構部分は1、2割くらいな感じだが、気づいていないだけか。飛行機事故とか客船の大西洋上のテロ騒ぎとかもひょっとして虚構?…それはないと思うけど、細かく虚構が紛れ込まれているとは思われる。
あと、バルザックにフロベールにプルーストの翻訳と、それから「漱石のそれから」三部作小説執筆と、この翻訳前後の芳川氏、凄まじい仕事量…
(2022 05/18)

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