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「ウェルギリウスの死」 ヘルマン・ブロッホ

川村二郎 訳  集英社版世界文学全集  集英社

平井の本棚で購入。
(2021 02/27)

古代から中世へ

中村真一郎による解説と、冒頭少しを試し読み。

 彼はかりたてられた。共同社会の中から、群衆の中の、このうえなく露骨な、邪悪な、野蛮な孤独へとかりたてられた。本然の素朴な世界から追いやられ、いよいよ錯綜の度をますはるかな空間へと追いたてられた。
(p6-7)

 彼が歩んでいたのはただおのが耕地のへり、彼が生きていたのはただおのが人生のへりにすぎなかった。
(p7)


このウェルギリウスの時代、ブロッホの見立てによれば、古代から中世への一大転換期だった。そして、ブロッホが生きている現代、これがまたヨーロッパ的文明が崩れていく一大転換期。小説全体は死に瀕したウェルギリウスが、未完の「アエネーイス」を焼却するか後世に残すかという葛藤が描かれており、これがブロッホのナチス収容所体験を経てアメリカに渡った後の他でもないこの「ウェルギリウスの死」を焼却するか否かにかかってきている。
「罪なき人々」という短編?は、一人一人には政治的にはナチズムの責任は無いけれど、その政治的な「無罪」が倫理的無関心に変わっていくというテーマ…作品自体はナチズム以前だからそれを予言したというべきか。
(2021 06/19)

 これまでいつも彼はこの奇妙な、いわば火山のような衝迫を両手に感じたものだった、奇妙なぐあいに自立した両手の生活をめぐる予感が、いつも彼の心にまつわりついていたものだった。しかしこの予感には、知覚の閾をふみこえることはかたく禁ぜられていた、あたかも暗欝な危険が、そのような知覚の中にひそんで待ち伏せているとでもいうかのようだった。
(p11)


この両手の予感というのが、農夫出身の、「大地の暗黒をつかんだ」死の欲求というもの…死というものの描写のここが最初か。
(2021 06/20)

古代から現代へ

p15からの群衆論は、古代ローマを通り越して、ブロッホの今いる第二次世界大戦が始まる頃の描写なのではないか。明らかに現代に移行している…

 いかなる未来になお記憶をつたえようというのか? そもそも未来は存在していたのか?
(p20-21)


未来は存在していた…って過去形?
(2021 06/23)

 この国のすべての産物、ここに用意された莫大な量の食料のにおいがした。帝国の領土内での交易のために用意され、どこであれ、売買が行なわれた後には、人間の肉体と蛇のようにくねるその内臓を通って、どろどろの滓になる運命の食料だった。
(p27)


p26から27はにおいの記述が全面にひしめくところ。この文章はそんな中からの引用。死を直前に控えた人間から見ると世の中は全てこんな感じに映るのかな。

 なぜなら、魂は常にその発端にたたずみ、その発端の大いなるめざめにむかって立っているのだから、終局さえも魂にとっては発端の威厳をそなえているのだから。
(p29)


死を目前に控えた詩人は生まれた家を思い出しているらしい。ウェルギリウスは農家の生まれだったらしい。そしてここで終局に臨んでいるのは彼だけではない、古代世界そのものが終局を迎えている…というのが、ブロッホの見立て。
(2021 06/30)

春と秋、視覚と聴覚と嗅覚

 彼のうちにひそむ何か見も知らぬ存在が声をだしたかのよう、見も知らぬ、それでいて不思議に親しい、彼自身のそれよりさらに大きな意志、意志を持たぬ意志、しかも逆らうすべもなく強大な力、夜、それが彼の内部から語りでたかのようだった。夜の中から伸びひろがる、ひそやかな強大な欲求。ひそやかな庭、ひそやかな花の吐息、ひそやかにさざめく二基の噴泉。秋というのにさながら春の宵めいて、暗くかすかな、ひそやかに湿おいを含んだにおいが、花壇の上に冷たくこまやかにただよい、そのにおいにまじって、ほのかにたなびく薄紗のように前の家から音楽がながれよせ、近づくかと思えばまたはるかに遠ざかるのだった。楽の音の織りなす薄紗の一ひら一ひらに、シンバルのひびきが点々と刺繍され、かなたの屋内の饗宴からあふれしたたる人声の灰白色の狭霧が、たたみ重なる薄紗をふかぶかとひたしていた。
(p43)


ウェルギリウスの乗った輿を先導してくれた少年を庇って一緒に宮殿入れたところから始まり、強大な意志から、夜、春と秋、視覚と聴覚と嗅覚の交差入り混じり愉しむ。ただシンバルというのはちょっと気になる。シンバルって確かオスマン帝国の軍楽隊からだよね。原文からなのか翻訳からなのか…はたまた「シンバル」の別の意味が自分の知らないところであるのかも…こういうこと調べるのには、やはり紙の辞書の方がいいなあ。
シンバルはともかく、この第一部は四大元素のうちの「水」の題がついているのだけど、それは海から物語が始まったこともあるけど、群衆を水に見立てているのもあるのかな、などとも考えてみたり。
(2021 07/02)

第一部「水」終了

 ああ、願望はそれ自体予感だったのだ。
(p50)


マートンか?

 そしてこの被造物とは、存在のやさしい覆い、無の上にくりひろげられた無の夢なのだ。
(p51)

 そう、夜はこうだった、今もなおこのとおり、この今の夜もこのとおりだった。おそらく未来永劫にわたって、夜は無時間と時間とのわかれる絶頭に、別離と帰還との、群衆の中への没入とかぎりない孤独との、不安と救済とのいやはての境界に横たわっている
(p52)


「今」とはいつなのだろう。ひょっとしたらブロッホがこれを書いている「今」なのか。
僅か3ページで引用したい文章がこんなに(厳選してこれ)…

 かたわらをながれ過ぎ、しだいに水位をたかめながらわたしに触れ、わたしを濡らし、わたしをとらえ、外からきたのにしかも中から生みだされた、わたしの死だった。
(p56)


第一部「水」の最後では水は死に喩えられる。外からきたのに中からも生み出された…溶解ということか。
やっとp58で第一部終了。二段組で文字ぎっしりだから、今の文庫本だと150ページくらい(言い過ぎ?)。
(2021 07/03)

生は死の待機


8才の少年の頃の記憶。冬のクレモナの外の灯りの仄かな残照の繰り返し。第二部は「火」なのだが、最初のこの辺りは海とか水のイメージが強く、火に関するものとしてはこの灯りの残照くらいか。
魂は上方と下方の接する線、ヤヌスの線。人間は直立しているが、眠る時と愛する時と死ぬ時は横臥の姿勢となる。「司祭」?これもブロッホの時代の投影?「ボマルツォ」とこの辺りの事情は似ているのか。
生は死の待機。

 なぜなら推移する存在と死は不断に触れあいゆれ動いているのだから。
(p63)


今読んだ最後のところでは蟋蟀が鳴く。
(2021 07/04)

 生の一秒一秒のあいだの距離は橋をかけわたすことも不可解な茫漠たるうつろな空間にひろがってしまい
 それは一秒一秒をふたたび接近させ、そのあいだに横たわるうつろな空間を、生と呼ばれるあの不可解な要素でもって、電光の一閃のあいだにみちあふれさせてしまうのだ。
(p75)


一秒一秒の間が大きく開いたり、密着したり…
(2021 07/05)

 それゆえにこそ人間は かぎりなく不安定な空間に
 かかげ入れられている たゆとう小舟にゆられながら
 いかなる船ももはや彼を載せてはいないかのように。
(p81-82)


第二部から唐突に始まった詩形式の箇所。地の文を挟みながら続いていく。これ書いたの誰だろう。ウェルギリウスの作品(実在するか、ブロッホがウェルギリウスに託したかは別にして)なのか、それとも作者ブロッホの間の手的なものか。それとも(まだある?)…
でも、「いないかのように」ということは、とりあえず載せてはいるのだよね…
(2021 07/07)

酷薄な芸術


この本の箱のオビには「芸術は必要なのか」という感じの言葉が書いてある。今日読んだところから、芸術論のようなことがテーマとなる。

 間近にひそむはるけさ、遠方をこえたはるけさ、両者の外と内とのきわみに横たわる境界、両者の外と内とのきわみに横たわる境界、両者の現実のうちにある非現実、両者のうちにある非現実、両者のうちに喚起されたはるかな惑わし-それは美だった。
(p94)

 ただ反復するばかりで成長を知らぬ完璧 けっしてみずからに到達することなく、完璧の度を加えるにつれいよいよ絶望的となる その完璧性につながれ
 発端への永劫の回帰のうちに幽閉され
 それゆえに酷薄な
 人間の苦悩に対して酷薄な 芸術
(p98)


やっと100ページ超え…
(2021 07/08)

 雲のように茫漠たる美ときれぎれに引き裂けた哄笑から救われ、言語を幽閉する鬱蒼たる叢林から救いだされ、誓約の手だてとしての機能を回復するようにと、彼は希望していたのだ。それはむなしい希望だった。創造以前の、いかなる意味ももたぬ未生の状態にまた落ちこみ、いかなる地上の死も飛びこえることのできない死以前の死の山なみに縁どられて、世界は彼の前にひろがっていた。
(p105-106)

 陶酔からめざめておのが生をふりかえるものは認識する、彼の道程はあやまっていたが、その一歩一歩には避けがたい必然性があった、それはどうしようもなく明白なものだったのだ、と。運命と神々の力によって、はじめから彼は逆転する道をたどるようにさだめられていたのだ。それゆえに彼は、どれほど前進しようと努力しても、いつもひとつ所に釘づけにされ、彫像やことばや音の叢林の中にあてどなく踏み迷うよりほかはないのだ
(p114)

進んでいるようで後戻りしているような道。
(2021 07/09)

 -そもそもどこへ行く道があったろう⁈-、そしてそのあえぎは、目標をすでに背後にしながら、自分がどこにも到着しなかったのだ、どこにも到着することはありえないのだ、と知っている走者のあえぎに似ていた。
(p128)


カフカの例えば「掟の話」を想起させる。ひょっとしたら引用に近い利用、あるいは影響。
(2021 07/10)

火-直接的な…

 それが記憶の茂みの枝という枝にまたがって、叢林の道にふみ迷い二進も三進も行かなくなったものをながめて嘲るように忍び笑いし、嘲るように高笑いしながら、自らも叢林となって、ふみわけるすべもないその圏内に人を閉じこめるのだった。
(p132)


記憶に閉じ込められ、その者を記憶の叢林にしてしまうのか。

 静止したままかりたてられる血に飢えた神々の喚声、魂の無の火山、そして要素ならぬ要素の潮にかき乗せられて滔々とながれ、しかも凝然と静止している火。町々はもえながら灰ともならず、焔はさしのべたまま硬直した舌のように、直立した鞭のようにゆれ動いていた、深みから踊りあがる焔ではなかった。
(p139)


ここの第二部は「火」という標題。直近で出てきた表現だと「呼吸」とかそれに近いかなとか思っていたけれど、この町々を燃やす火がそれを正面で表している。
そうそう、古代ローマの話だと思ってつい忘れがちなのだけれど、ブロッホはナチスの収容所に囚われてそこでこの小説の素を構想していたのだ。それを思うとこのp139の辺りはどちらかというと直にブロッホという作家の周辺を描いている、かのよう。
(2021 07/12)

神の声

 彼がうかがっていたのは、いかなる熱によってもそこなわれることなく立ちもどってきた、生の流れの和やかさだったが、そればかりではなく、うかびあがったかと思えばまや沈み、とらえたかと思えばまたのがれさり、もはやとらえるすべもない夢の声、あのささやくような夢の命令でもあった。それは彼にわれとわが著作を破棄するよう命じていたのだが、救いをさらに確実なものとするために、彼はこの命令に心から耳かたむけようと思ったし、またそうせねばならないのだった。
(p142)


ここで初めて具体的な、「アエネーイス」含む彼の著作を焼却すべし、という神の声が出てくる。
(2021 07/14)

 たとえ、物の名をたかめることが詩の窮極の、もっとも本質的な使命であろうとも、たとえ、そのもっとも偉大な瞬間の発端には、けっして硬直することのない言語の本性に一瞥を投げることが詩に可能となろうとも-その言語の深みからさす光のもとに清浄無垢な物のことばがただようのだが-、物の世界を基盤とする名前の清浄さは、たしかに詩の中では創造をことばによって重複させることはできようが、重複したものを再び統一にもたらすことはできない、それというのも、まやかしの転回であれ、予感であれ、美であれ、名の無垢を詩としてさだめ詩と化するこれら一切は、もっぱら重複の世界に生ずるのだから。
(p152-153)


(2021 07/17)

彼とは誰か

 夢の形は夢の形から生まれ 交叉し展開する
 夢の中でおまえはわたしだ わたしの認識だ
 未生の天使としてわたしとともに生まれ
 偶然の彼岸にあって みずからを認識しつつ生成する
 本質と秩序のかがやかしい至上の形姿
 わたし自身の形姿 わたしの知覚だ。
(p164)


(あれ、引用したかったのってここだっけ?)
夢の中で彼が語っている…というより、夢が語っているという。

 われらの自我のうちにひそむもののみがわれらより巨大なのだ。
(p170)


(今日読んだ10ページのうちで、「夢の中で笑うことはできず、夢の中で死ぬこともできない だから笑いと死は似ているのだ」とか書いてあったのどこだっけ?)
(2021 07/18)

 おお、すべての人間の魂の中にはひとつの行為がひそんでいる、人間自身より大きく、その魂より大きく、到達するすべもない行為が、そしてただわれとわが身に到達しえた者のみが、いやはての死の用意のさなかにおのれの行為に到達することができる、亡びのさだめを負うた世界の眠りの上に、怠りなくめざめたまま見張りをつづけることができるのだ。
(p184)


ウェルギリウスの独白、意識の動きという記述が、「彼」の人称でずっと書かれている。彼がウェルギリウスだとするならば、語っているのはいったい誰…この作品の一番最後まで辿った、死を迎え、そして「めざめた」ウェルギリウス自身ではないだろうか、というのが今現在の予想。

 彼は今一度、岸辺から岸辺へとひろがり波うつ野面を見た、かぎりない実りの波、かぎりない海原の波、そのいずれもが斜めにさす早朝の冷たい光をあび、間近なあたりもはるかかなたも冷えびえとしたかがやきにみち-彼はこの風景を見た
(p188)


第二部最後、この光景を見つつ彼は眠りにつく…ここは第二部冒頭の少年の頃の光景と呼応してはいないだろうか…
…というわけで、これで第二部終了。ただなぞっただけの読みの箇所もあるのだけど…
(2021 07/18)

十字架と二人の友人


今日から第三部「地-期待」
朝になり、少年リュサニアスの代わりに東洋人?の奴隷(これって栞にある登場人物紹介にある奴隷と同一人物?)が傍にいる。そこにアウグストゥスとの会見の前に会いにきた、友人プロティウス・トゥッカとルキウス・ワリウスが入ってくる。前者は豪農、ウェルギリウスとは「芸術よりは経済や日常生活の方が重要」という暗黙の了解があった、という。一方後者は実在の詩人、ウェルギリウスより10年くらい年長。座るのにも長衣(トーガ)のシワを気にする男だが、ウェルギリウスの死後、遺稿管理人の責を果たす。
という会話からなる第三部開始…なので、今までのところと違って(やっと)読みやすくなった…

 「わたしはもう長くないのだ。」
沈黙が生じた。自分が真実を語ったのだと彼にはわかっていた。しかし奇妙なほど平静な気持ちだった。おそらく今夜までもたないだろうと自分でもわかっていた。しかも、無限にゆたかな時を目前にしてでもいるように、ゆったりとおちついた心地なのだった。真実を語ってしまったことに彼は満足だった。
(p194)


真実とは自分が長くもたない、ということなのだろうけど、ここでウェルギリウスが言う真実とは、もう少し何か含まれているような気がしている。

 詩の背後にたかまる到達しがたい十全の現実ばかりなのだ、ひとつのことばがその核心に肉迫し、その石のようにすべらかな表面にはねかえるばかりでないときに、この現実はその財宝をひらいて見せるのだ。
(p198)


主にルキウスがいう「美」とウェルギリウスの「真実」がずれを成す。ブロッホが考えているのもこの差異。はねかえり以上の体験をするのは、自分の読書(やそれに類する)体験でもごく僅か。

 さらに彼は見た、十字架がいよいよ数を増すのを、松明にかこまれ焔にかこまれ、十字架が幾重にもかさなりあうのを、ぱちぱちとはぜる木から、群衆の咆哮から立ちのぼる焔、ローマ全市を覆いつくす焔の海、その海が干たあとにはただ黒く変色した廃墟と砕けた柱、倒れた彫像と原野に化した大地があるばかりだった。彼は見た、見ながら知っていた。この幻がやがて実現するだろう、と、なぜなら、現実の真の掟は、一切の美の生起より巨大であるにもかかわらず、もしこの美と混同され、したがって侮辱され、無視によっていやしめられることになるならば、かならず人間に報復するはずなのだから、と。
(p203-204)


十字架? イエスとの関連はあるのかないのか。それはともかく、磔の総称がここでのイメージなのだろう。
ウェルギリウスの時点から近くはネロなどの時代、ブロッホの時点はもうその(第二次世界大戦の)現実自体がそのイメージ、報復だとブロッホは考えていたのだろう。自分にも上記「美」と「真実」との差異が判然としていないのだが。
とにかく、そこまで真実に肉迫しきれない自分のような人間は、この友人二人にも興味が湧いて、楽しめる展開。
(2021 07/22)

リュサニアス、奴隷…時々ダンテと、それから…


さて、上記友人たちがアウグストゥスに会いに行くため去ったあと、ウェルギリウスの話相手は、例のリュサニアスとアジア出身の奴隷の二人?となる。リュサニアスと奴隷はウェルギリウスの呼びかけに対して交互に出てくる、一緒に出てくることはなく、前の言葉を受けて話すという…ウェルギリウスの心の中の心象風景なだけかもしれない…この二人。
p216では、ウェルギリウスが道案内をしているということをリュサニアスが言っている。これは後世(ウェルギリウスとブロッホの間)のダンテのことを暗示しているのだろう。

 かくて導きの師とわれは隠れし道をたどり
  世界の明るき方をめざして
  片時も休むことなく
 師は先に われは後えに立ちて進みしが
  ついにまるき穴より 天のになえる
  美しきもの見えたり
 星をば見んと われら穴より歩みいでぬ
(p4 ダンテ『神曲』地獄篇 第三十四歌第一三三行ー一三九行)


「導きの師」がウェルギリウス。別のとこで聞いたフラバル「あまりにも騒々しい孤独」をも思い出させる。

 「リュサニアス、あの眼が見えるかね、金色のかがやきを帯びた紫紺の大空が? 真昼が眼をひらく、その眼の奥のきわみには、かがやく夜がひそんでいるのだ。」
(p217)


なんか自分が小説とか書けたりして(ないとは思うが)、その冒頭の序詞にでもしたいくらいの文章だなあ…ということは、リュサニアスはダンテなのかも。この小説は『神曲』を裏から書いてものなのかも。
では、奴隷は誰なのか。名前を持たない、アジアから来た奴隷、父を十字架に磔にされて、三位一体を説くこの奴隷は誰なのだろう。今の自分はブロッホ自身だと感じているが、果たしてどうであろうか。
…今日はほんの少しだけ進めようと思っていたのだけど、実はこの小説の根幹部分だったかも知れない。
(2021 07/24)

今日読んだところは医者及びそのスタッフ? 医者に対し、医療談義も含めて話すウェルギリウスは軽くこの太った医者からかおうとしている。でも、なんだかんだ言って、髪を切り、身体を酢で洗って本人も気持ちよくなっている様子。

 泉の奥底から白日の空を仰ぎ見る者は眼の前が暗くなる。そして彼は大空に星を見ることができるのだ。
(p235)


昨日のp217と呼応している箇所。

 きわめておぼろげな茫漠としたものよりほかには、無の鏡像よりほかには何ひとつ確保することができないかのようだった。しかしそうした事情を超えて、まさにここにおいて、おぼろげにかすむ鏡の影、とらえるすべもなく遺棄されて行くこの鏡像が、みずからを放下しようとするその意図にもかかわらず、さながら奇蹟のように最後の瞬間、支離滅裂に解体する直前に、崩壊から救われそれみずからのうちに確保されたかのよう、ある知覚から形式と形態を受けとっていたかのようでもあったのだ。
(p239-240)


(2021 07/25)

 そして同様に風景も、いわばこの恭敬に同調するかのように、その領域から一切の被造物を放逐していた。そればかりか風景それ自体さえ極度に色褪せていたのだ。
(p253)

 すべての人間の生活と仕事には、はたされなかった残りの部分が必ずかくれているものだ。それはわれわれすべてのまぬかれがたい宿命なのだ。
(p263-264)


ウェルギリウスの意中の人らしきプロティアと、ウェルギリウスが目をかけているアレクシスというギリシア人の少年。彼らの次にはなんとオクタヴィアヌスが登場。
(2021 07/29)

オクタヴィアヌスと船出

 恐怖は感じなかった。肉体はかすかにゆれる小舟のよう、船出の支度をととのえた小舟のようだった。アウグストゥスは岸辺でまめやかに手助けし、かなたには漣ひとつ立たないなめらかな海の鏡が、その鏡面に褪せた光をうつしながら、ひろがり全体にわたって上下に動いているのだった。
(p267-268)


確かこの小説冒頭でも、海と死者の道行きが印象的に書かれていたところあったと思う。

 たとえどんなことがあろうとも、人間の微笑のうちには神が宿っている、だからこそ彼は微笑しながら隣人に、隣人の魂に神を見いだす-それこそが人間的な了解、人間の言語の微笑からの誕生なのだ-、その人間さえ、記憶によみがえりはしなかったのだ。
(p270)


ウェルギリウスは美よりこうした人間の再生が重要だと考えていて(前の豪農と老詩人との会話も参照)、それが自分の詩作品ではできていないとして、だから焼却するという。
(2021 07/31)

深淵に架ける橋

 比喩は認識ではありません、いえ、比喩は認識にしたがうものです。しかし時おり、ことばによってのみ用いられる不法な不完全な予感のように、比喩が認識に先立つことがある、すると比喩は、認識のうちに身をひそめるかわりに、さながら暗い笠のように認識を覆いながらその前に立ちはだかるのです…
(p274)


比喩は詩の、よって芸術の象徴。認識がどういうものを指すのかまだ自分には謎なのだけれど、自分を自分として成り立たせている意識? とにかくそれがウェルギリウスのこだわっている到達点。

 彼自身はどこにいたのか? どこに寝ていたのか? ここはブルンディシウムだったのか? 街路はどこにあったか? それは無何有の世界を通じてはいなかったか。縦横にもつれからみあい、ローマかアテーナイや、その他地上のすべての都市の街路とからみあってはいなかったか? 扉、窓、壁、すべてはその位置を変え、たえまなく移り変わっていた。
(p277)


おー、始まった、擬音語で表現すると、ぐにゃぐにゃというより、カチッカチッという感じ、嵌め込み式都市街路。おそらくこの第三部のはじめのローマからの友人の場面から、ウェルギリウスの閉じられた意識(幻覚、夢)なのではあるまいか、とはずっと思ってきたけれど、それが加速されて回ってきた、という印象。

 時と時のあいだの何もない空間…(中略)…突如としてがばと口をひらくうつろな無、そのために一切はおそすぎるか早すぎるか、いずれかでしかない無、時のもとに、さまざまな時のあいだにひらくうつろな無の深淵、時は戦々兢々として瞬間また瞬間を順次につらね、みずから石と化しつつ他をも石と化するこの深淵が眼にうつらぬよう、髪の毛のように細い線をその上にかけわたそうとするのだ。
(p282)


なんだかこんな表現、前読んだような気が…「寄宿生テルレス」だったと思う(指すもの違う?)
これ、アウグストゥスのセリフなのだが、語り手(ウェルギリウスと言ってよい、という説も)が「本当にこれはアウグストゥスの言葉なのか」と訝しんでいる。
アウグストゥスと言えば、今日読んだところで、p276の最後のところからp278まで、そしてp280の一箇所、ウェルギリウスの会話の呼びかけが、「アウグストゥス」ではなく、「オクタウィアヌス」となっていた。「オクタウィアヌス」の箇所ではウェルギリウスとアウグストゥスの心的距離が狭まっている印象がある。
(2021 08/03)

根無草の哲学

 人間の悟性とはかぎりを知らぬものです、けれども無限にふれると、無限は仮借なく悟性を投げ返してしまう……悟性は認識をうしない……死の荒廃が地上に登場するのです、洪水が、武器の打ちあうひびきが、ながされた汚辱の血の河が……
(p291)


悟性が投げ返されるという無限とはなんだろうか。それに触れると、いわばまるでブロッホがこれを書いていた時期の第二次世界大戦期のような状態になり、それを回避するためにも「認識」がいる、ということになるのだが。でもいかに無限が危険なものであろうとも、それに触れずに「分をわきまえる」というだけなのも違うような気も。

 (哲学は)無限にふれるために上にむかって成長しなければならなかったので、根はもはやその底には届かなくなってしまった
(p292)


似たようなところからもう少し。根が根づくための「基盤」は海の奥深くへ沈んでいくという。だからますます根が離れていく。
(2021 08/05)

「皇帝」とウェルギリウス

 今日ではわれわれの前にあるのは盲目の巨大な群衆だ。そしてこの群衆は、まばゆく光る誘惑的な自由の衣に身をつつんで威容を作るすべを心得た人間ならだれにでも、無定見につき従って行く。
(p309)

 なぜなら、人民という名のこの子どもがすさんだ狂気にとらわれるほど危険な恐ろしいことはないのだからな。それは見捨てられて途方にくれた子どもの狂気なのだ、だからわれわれは、くれぐれも人民が孤独感におちいることのないように、注意しなければならないのだ。
(p313)


ウェルギリウスとアウグストゥスとの対話は徐々に政治学領域に入っていく。都市を建設し息抜きとしての競技を提供していくアウグストゥスに対し、商人を批判し農夫を理想化するウェルギリウス。最初はアウグストゥスの実際的な政治感覚に共感していたけれど、この像が多面的な姿を見せていき…この作品が書かれたのは全体主義の時代を経たあとであることをもう一度喚起して…全体主義的な思想と群衆論的立場は実に紙一重な立ち位置にいる。
この辺りになると、オクタウィアヌスでもアウグストゥスでもなく、支配者とか皇帝と呼ばれる。
それに対してウェルギリウスはどうか。まだわからないけれど、キリスト教的人間観(その宗教そのものではなくても)を示しているのか。
(2021 08/07)

創造の危殆

今日読んだところはまさしく、キリスト教的人間観?らしきところ。

 ひとりびとりの魂が地上をこえた存在と直接に結びつくのでなかったとしたら、全体の秩序はけっして築かれなかったでしょう。直接に地上をこえた存在に仕えようとする仕事のみが、地上における全体性にも奉仕することになるのです。
(p319)

 人間が認識を放棄するならば、真実をうしなうならば、彼は創造をもうしなってしまうのです。国家は創造のために配慮することはできない、けれども創造が危殆に瀕するときは、国家も危殆に瀕するのです。
(p320 危殆は「きたい」と読む)


こんなやり取りがあってから、アウグストゥスは「きみは私を憎んでいる」と激昂する。ここまでのやり取りを書きながら、書き手は人と人との理解の「橋」の比喩を書く。アウグストゥスとウェルギリウスが険悪な対話をしている時、「世界はふたたびゆたかさを増し」(p329)、「人間の出会いの橋! おお、彼が語りつづけてくれさえすれば」(p330)となるのは不思議な気がする。対話の行く末は、この険悪な対話がつまらない口喧嘩のように、一定間続いたあと和やかになり、若い頃見た馬のつなぎが白いかどうかなどという話題で盛り上がったあと、半ば流れでウェルギリウスはアウグストゥスに草稿を渡す…そして、アウグストゥスの二度手を打ち鳴らした合図によって、第三部始めに出てきた二人の友人、プロティウスとルキウス始めたくさんの人が入ってくる…という今はここまで。

 ああ、だれも夢の中では笑わないのだ
(p334)

人間のことばはどこに


その後、遺言書を(アウグストゥスに送ってあるのとは別に)もう一通書きたい、とウェルギリウスは言う。それを書き起こそうとするルキウス…

 ペンをインキ壺にひたし、緊張した面もちで詳しい口述を待ちうけた。しかし待つだけむだだった。なぜなら彼がペンをひたしていたのはインキ壺ではなかったのだから。それはアンデスの家の前の小さな沼だった。そして彼がそれにむかって腰をおろしていたのももはやふつうの机ではなく、いつのまにか卓上にアンデスの屋敷全体が築かれていたのだった。
(p353)


現実?世界の皇帝とかルキウスとかプロティウスと、プロティア、リュサニアス、奴隷という幻想的人物が並行する、それらが交わるのはウェルギリウスの意識の中だけ、という幻想世界からもう一段進んだ幻想世界が始まる。この世界の人物だと思われるびっこの男は町の住人引き連れてウェルギリウスを侮辱する。それは第一部冒頭近くの、輿に乗ったウェルギリウスを嘲笑う貧民街のおかみたちの再来でもある。アンデスの屋敷は第二部冒頭から。
(2021 08/09)

 空しい流れのかなたへ! 湧きでる源もなければそそぐ河口もなく、岸辺もない河。われわれがどこに浮かびあがろうと、どこにふたたび身を沈めようと、その場所を弁別することはできばいのだ、なぜならこの河は、時をにない、忘却をになって滔々とながれて行く、終末も発端もなく永劫に回帰する被造物の流れなのだから
(p365)


三途の河か…

 この(作品に含まれる)不調和には呪いばかりではなく、恩寵もこめられているのだ
 不調和のうちにおいてこそはじめて人間の恐るべき栄光があらわれる。その運命はとりも直さず自己超越の運命なのだ。動物の沈黙と神の沈黙のあいだに人間のことばがある
(p370)


ウェルギリウスがアエネーイスの焼却を諦めたのは、こうした不調和・未完成さこそが人間の特徴だと知ったからだと思う。
第三部終了。第四部ぱらぱらめくってみたけれど。第四部は行替え、段落分け、ほとんどない、言葉の壁が二段にわたって40ページほど続く…
(2021 08/10)

第四部、船旅、あの世への?

船首にはリュサニアス、漕ぎ手はプロティウス。

 なつかしい過去の無限へと立ちかえることはかたく禁じられていたが、一般的に明白な未来のためにかつての多義的な存在をきっぱりと断念せよともとめる命令はさらにきびしかった。
(p386)


(第四部序盤はそれでも段落分けが少々ある)
第四部は第一部の反転した形?
(2021 08/11)

上陸、どこへ

 ありとあらゆるものを引きよせ、ありとあらゆるものを確保して内界と外界の統一にもたらす中点、その中点の沈黙-、ここに到達されたのは、はたして存在の中点だったか?
(p392)

 彼の眠りは代々の父祖たちの系譜であり、同時にきたるべき後裔たちの系譜でもあった。
(p397)


この物語の発端は秋(夏の終わり)であったのに、ここでは春になっている。
(2021 08/12)

円環とことばと全体性

 時の円環はすでに閉じ、終末は発端となったのだった。
(p411)

 ことばは万有の上にただよい、無の上にただよい、表現にたえるものとたえないものとのかなたにただよった
 ただよう海、ただよう火、海のように重く海のように軽く、しかもなおそれはことばだった。このことばを確保することはできなかった。確保することは許されなかった。とらえるすべも口にのぼせるすべもなかったそのことば、それは人間の言語のかなたにあった。
(p412)


「ウェルギリウスの死」読み終わり。これは「聖書」の「はじめにことばがあった」を思い浮かべればいいのか…

解説から

 そこで、小説は一方で、世界が分裂的で、全体的に捉えにくくなればなるほど、その全体的把握のための努力を「徹底性」をもっておこなわなければならないという、矛盾に直面している。
(p424)


ブロッホはジョイスの「ユリシーズ」を尊敬し影響を受けた、と自ら述べているけれど、読んだ実感として、ここまで違う読後感があるのも珍しいのではないか。
(2021 08/14)

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