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「マルコーニ大通りにおけるイスラム式離婚狂想曲」 アマーラ・ラクース

栗原俊秀 訳  未知谷

未知谷のイタリア人以外?のイタリア文学?シリーズ(栗原俊秀訳)。

「ヴィットーリオ広場のエレベーターを巡る文明の衝突」
「マルコーニ大通りにおけるイスラム式離婚狂想曲」
のアマーラ・ラクースはアルジェリア人。アルジェリア内戦を避けてローマに移住。 

「偉大なる時のモザイク」カルミネ・アバーテ。
こっちは現代の移民ではなく、南イタリアに中世以降多く住むアルバニア系住民アルバレッシュ作家の作品。日本の海外文学の紹介もなかなか範囲が広くなってきた。 

この中から今回は「マルコーニ大通りにおけるイスラム式離婚狂想曲」を紹介。

エトセトラ、エトセトラ

構成は「イーサー」の章が9つと「ソフィア」の章が8つが交互。イーサーはシチリア生まれのイタリア人なのだが、アラビア語を勉強し、移民たちの法律相談のようなことをしている。一方ソフィアはエジプト人で「床屋」になりたいためにローマへやってきた。イーサーは、ジューダ大尉の依頼で、ローマでのテロを未然に防ぐためという理由のために「スパイ」になって、マルコーニ大通りの「リトル・カイロ」にやってくる。

「イーサー」というのはアラビア語で「イエス」のこと。彼は本当は「クリスティアン・マッツァーリ」という名前だから、名前のつながりはある。
一方「ソフィア」の本名は「サフィーヤ」。サフィーヤ・ザグルールという「エジプト人民の母」と呼ばれる近代化に貢献した女性の名前をとっている。例えば公的な場でスカーフを初めてとったとか。だけど、ローマで暮らすようになって、ちょくちょく「ソフィア」と間違えられたり、またソフィア・ローレンに対する憧れもあって「ソフィア」で通しているのだとか。おまけに「サフィーヤ」と名付けられたのに、夫からはスカーフを強要されている。
というわけで、イーサーの方はアラビア語を習い、ソフィアの方はイタリア語を習っている、のだけれど、名前(通称)は反対、という図式。

今日は「ソフィア3」まで、ここまで交互の語りが別々に展開してたけど、ソフィアの妹ライラが結婚するけど祝いに戻れないと涙を流した時に、イーサー(とは明記してないけど)がハンカチを貸してくれた、という辺りで語りが交錯する。そこはリトル・カイロ。イーサーにしてみれば、容疑者でもあるアクラムの店。

 俺の頭には、今は亡きレオナルド爺ちゃんのことが浮かんだ。俺たちは固く結びついていた。俺が小さかったころ、俺と爺ちゃんはマツァーラ・デル・ヴァッロの海に向き合って、二人一緒に坐っていた。爺ちゃんが物語を話し、俺はそれを聞いていた。何時間ものあいだ、俺はけっして飽きることがなかった。
(p15-16)


爺ちゃんはチュニス生まれの移民2世。その話を聞いて育った後のイーサーは、13歳で船に乗り込み(どういう手順だったかは惜しむらく書いてない)チュニスへ行った。シチリアの西端トラパーニからチュニジアはそんなに遠くない。

 わたしの慎ましい意見を言わせてもらうなら、親はその場の思いつきでいい加減な名前を子どもに与えるべきじゃないわ。息子か娘が大きくなって、性格ってものにたいする考えとか外見上の特徴とかエトセトラ、エトセトラとかを持つようになるまで待つべきなのよ。
(p26)


こっちはソフィア。「エトセトラ、エトセトラ」はイーサーも口癖。とにかく、イタリア語とアラビア語はもとより、英語、フランス語、イーサーの時たま出るシチリア語(なぜか日本語訳では大阪弁)、エトセトラ・・・とにかく栗原氏の翻訳含め、読んでいてとても愉しい。多和田葉子は日本語とドイツ語の間を耕しているが、こちらは二つの(いやそれ以上の)言語を影響しあい混淆しあう。訳者あとがきでは、ポール・リクールの言葉を紹介している。

 翻訳、それは他者の言語に住まい、それと同時に、自らの言語の中にこの他者を迎え入れることである
(p283)


著者アマーラ・ラクース(1970年生まれ)はアルジェリア系イタリア語作家(アラボイタリアーニ)。この他、図書館にあった「ヴィットーリオ広場のエレベーターをめぐる文明の衝突」、それから「小さな小さな海賊」という作品がある。この二つはもともとはアラビア語だったものを作者自身の手でイタリア語に翻訳したもの(元のタイトルも異なる、また「やっぱり世界は文学でできている」で多和田氏が言っていた、「ほんとは作者自身が訳すのってよくないんだよねえ」というのも思い出す。でも多和田氏も、ラクース氏も、これは戦略)。

あと、もう一点。この作品のなんか長いタイトルはイタリア映画「イタリア式離婚協奏曲」(ピエトロ・ジェルミ監督 1961年)を踏んだもの(元の映画のタイトルがこれだったので、この作品の邦題もこうなった、原題はもう少し短い)。この映画は喜劇であるが、カトリック国イタリアでの離婚の権利獲得に一役買ったという。この「イスラム式」もそうなれば・・・という作者の思いなのか。
(2020 12/20)

ウンム・クルスーム


「イーサー4」から

 当然のごとくに、この家の壁の内側では、エジプトのアラビア語が公用語だ。流れる歌はウンム・クルスーム(エジプトのマリア・カラスだ)。俺は彼女の歌が苦手だ、いつも同じフレーズばかり繰り返すから。アラブ人というのはリピートを狂ったように愛している。生涯を通じて同一の人物に統治されるのを彼らが受け入れているのは、ひょっとしてこのせいなのか?
(p94)


続いて「ソフィア4」から。

 わたしは心の中で、その言葉を何度も反芻した。ムスリムたちは、愛とは何であるかを知らない! 控訴の余地のない、極めて重大な判決だ。それはすなわち、わたしたちは動物であり、野蛮人であり、人非人であるということだ! 要するに生きる権利を持たない人々なのだ! わたしはラジオを消して、ウンム・クルスームのCDをかけた。愛を歌う歌手だ。歌のタイトルはエンタ・オムリー『あなたはわたしの命』
(p116)


一見してわかるように、この交互の章でウンム・クルスームが重複して出てくる。章を読み進めていくに従い、こうした重複要素が増えてきて筋も交差から重なりへと移行していくのだろう、と今は思う。
とにかくローマに住むムスリム移民や周りの人々の生活の声が充満していて、とても楽しい。
(2020 12/21)

アラブの春の波

「ソフィア6」では、女子割礼の非難がされる。これは両親合意の上でのレイプと同じだ、とソフィアは言う。この「悪弊」はマグリブ諸国でもアルバニアでも行われておらず、エジプト(他の国は?)の風習なのだという。ソフィアが見たソフィア・ローレンの映画では、第二次世界大戦時、幼い子を抱えたソフィア・ローレン扮する女を、連合国軍のモロッコ兵がレイプに及んだシーンがあるが、このことは「イーサー」の章で、彼と同じアパートの下宿人紹介で出てきた話題でもある。あとソフィアは映画の「イタリア式離婚狂想曲」も見ている。
「イーサー7」より

 彼によれば、アラブの国々では現在、内からの民主化が進行している最中であり、それはまさしくテレビの衛星放送チャンネルのおかげなのだった。独裁政体による検閲はもはや力を失った。人々は三つの禁忌について、より自由に語り始めた。つまり、性、政治、宗教だ。
(p197)


この作品、2010年に刊行されたが、翌年はアラブの春。それから政治的混乱の時期になっているが、少なくとも押さえきれない何らかの流動、波が社会に起こっていることを考えなければアラブは治められないことが前提となった。
(2020 12/22)

イタリア人のイスラム改宗

「マルコーニ大通りにおけるイスラム式離婚狂想曲」は順調で、明日か明後日には読み終わる予定。イスラム移民の世俗生活が垣間見れて資料的にも手元に置いておきたい気もしてきた。
「ソフィア7」より

 リトル・カイロは混雑していた。客の多くはわたしと違って、電話をかけるためだけにここに来るわけではない。彼らはマダム・アルジャジーラを見ようと足を止めるのだ。テレビには顧客を惹きつけ、彼らに自分の家にいるような気分にさせる効用がある。残念なことに、罠にかかっている人々はたくさんいる。
(p211)
 イスラムの天国では、男は何度性交しても常に処女の天女がいる、女には…夫が待っている! 女性たちは大ブーイング…
(たぶん引用、ページ数不明)


イタリア人女性ジュリアにオーストラリアへ移住すると聞いて、ソフィアが驚いたのは、ジュリアが「イタリアには未来はない、イタリアはモンテカルロと同じで金がある人だけの世界だ」と言ったこと。

一方、イーサーはフェリーチェとともにモスク(ではない倉庫みたいなところ)で一緒に祈る。前も出てきたイマーム・ハラール(イマーム・ハラームってのもいて、彼は厳格な解釈を迫る)とそれからアリという元赤い旅団に近かった(テロ行為には手を染めてないという)イスラム改宗者と出会う。彼によると、移民ではないイタリア人のイスラム改宗者は1万人はいるという。
そのあと昼食にフェリーチェの家に…と、ここで二人はお互いを知る。どちらもフェリーチェには、前に市場でソフィアが人種差別主義者の「野獣」に絡まれたとき、イーサーが助けてくれた、ということには触れない。
(2020 12/23)

「マルコーニ大通りにおけるイスラム式離婚狂想曲」読了


「ソフィア8」と「イーサー9」
フェリーチェに「三度離縁を言い渡された」ソフィア。イスラムでは三度目で別れなければならない(女性側には離縁を言う権利はない)。内職の床屋の儲けがバレて「娼婦」とフェリーチェが言ったことからの展開。

フェリーチェは「ムハッリル」なるものを提案する。それは、このような場合、妻は一回別のムスリムの男と結婚し性交もしてからその男と別れるならば、また元の夫との縁を戻すことができるというものらしい。これが、本当にどのくらいイスラム世界で通用しているのかよくわからない(なんとなくだけど、引用されている劇の元ネタ、それにこの作品のようなところでしか現れない「夢物語」のような気がする)が、その「ムハッリル」がイーサーだと聞いた時、俄然ソフィアはやる気になる。もちろんそのままイーサー(アラビアのマルッチェロ)と結びつくことを。

当人イーサーは、ソフィアにほのかに心を寄せていることは確かだが、フェリーチェを裏切るのは嫌だし、そもそも本当は彼はチュニジア人でもムスリムでもない。とここでジューダ大尉から連絡あり、バー?に行って見ると、いろいろからかわれた?あと、一枚の紙切れを見せられ、そこには「試験は終わった。クリスティアン=イーサーは合格した。テロ組織をムスリムになってローマ、マルコーニ大通りで摘発するというのは架空の物語だ」とか書いてある。

これであっけらかんと物語は終わるのだけれど…ソフィアとの「ムハッリル」はどうなった? え、面白ければそれでいい? もしくはそんな設定してたの忘れてた?
あほ言いなや!
ま、いいか…

あ、そうそう、前作「衝突」もそうなんだけど、本の表紙のなんかの民族舞踊みたいカバー写真、内容とどう関係あるのだろう。美しいのだけどね。
(2020 12/24)

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