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「シルクロード世界史」 森安孝夫

講談社選書メチエ  講談社

世界史を学ぶ理由

序章は「世界史を学ぶ理由」とのことで概論。広げすぎ感は少し?ある。
人文系研究者が危惧している切り捨て感に反応。歴史学を社会学や文化人類学に吸収させようとか、世界史は近現代だけでいいのではとか、そういう動きは自分は知らなかった。
ここで細かいこと気になったのが、「地域研究に代表される「アメリカ式非歴史主義」」というのが、森安氏の考える歴史学の仮想敵?とされているところ。自分としては地域研究という分野にそのような印象はないのだが、現場近くだとまた違うのだろうか。
あとは、群青色を始めて人工的に作り出した(それまではラビスラズリ)ジャン=バチスト=ギメ、その事業を受け継いだ息子のエミール=ギメ、ギメ東洋美術館の全身を創設した人。また彼は工場の従業員の為に様々な文化的施設を作ったことでも知られる、という話。
(なんか名前「=」多いような…)
(2023 01/13)

中央アジア史から見た世界史区分

昨夜は続きを少しだけ。
世界史を学ぶ意味の次は世界史区分と、なかなか中央アジア史に入らないけど、この森安氏も著作多いので、この本の主眼は世界史の中の中央アジアの位置付けということなのだろう。
世界史区分では、中央アジアの馬の家畜化と騎馬隊の出現が区分の境界になる、というのが独自性。まだそこまで読んでないが、四大文明がまだその生まれた時代には鉄器が発明されていなかったから半乾燥地帯のみ生まれた(でなければ、コンゴ川下流やガンジス川下流も文明が起きただろう)という指摘が面白かった。ただ中国文明(黄河だけでなく長江の稲作文明含めた)は少し異なる(かつ時期的に少し遅れる)。
(2023 01/15)

馬の家畜化と騎馬軍団化

第2章まで。
中央アジアの馬の家畜化と騎馬軍団化。最初は馬車で用いられていたが、人間が直接馬に乗ることができて高速で動けるようになり、帝国化が進む。だいたい紀元前千年くらいから。馬車より騎乗の方が難しく後になってから。
中央ユーラシアでの馬の家畜化によって、人類が大移動したのは、大きく分けて4回。
1、印欧語族の移動(これのみ、上記騎馬化の前の移動)
2、五胡の東方移動(匈奴、鮮卑(北魏を建国)など)
3、ゲルマン民族西方移動(フン(この本では匈奴とみなす)から、1の印欧語族系やウラル族をも巻き込んで、西ローマ帝国を滅亡)
4、トルコ系(柔然から独立した突厥初めとして、最終的に東西トルキスタンと言われる地域へ。1で東端に達したコータン王国を支配し混血したり、ハザール、ガズニ、セルジュク、オスマンなど西方にも)
そしてこの中央ユーラシアを商人として縦横無尽に走り回ったのが、ソグド人。
(2023 01/18)

シルクロードの世界システム論

第3章。森安氏(ほか)が唱える、前近代の世界システム論は、北の遊牧民世界と南の定住農耕世界が結びつくシステム。匈奴と秦・漢、サカとペルシア、スキタイとギリシャ・ローマ。これらが公の貿易や朝貢、境界部での取引。遼や西ウイグル王国など10世紀以降の遊牧民国家では、今までに加え、農耕地帯の直接支配と文書行政の導入もなされたという。
突厥と東ウイグルの時代(6-9世紀)に一番盛んであった絹馬交易は、中国側で(軍事目的のため)需要が高く、遊牧民の倉庫に絹が集まり、それを西側に送る。p108-109の日がウイグルの都市遺跡は、各地から移住してきた人々の街と、四角の壁?で囲まれた宮城がわかる…が遊牧民の支配階級はこういった「都市」内には住まず、周囲にテントを張って生活しているという。

 牧畜はそもそも南方の農耕地帯から始まったのに、北方に遊牧世界が出現すると、文明や野蛮という差別を、農耕世界側がするようになることである。秦漢の秦もペルシアもギリシア・ローマも元々は北方の出身であったのに、農業地域に入って国家形成をなしとげるといかにも自分たちは文明人で、北方の人を野蛮人とみなすようになる。
(p93)


第3章はもうちょっと…
(2023 01/19)

ソグド人とマニ教

第3章最後と、第4章最初。
キャラヴァンにおける、短距離地元密着交易と、長距離の交易との共存。また絹馬交易のような国家が絡む交易と、私的な交易の共存。どちらか一方だけ、という説は誤り。少人数の商人は大規模キャラヴァンに幾らか払って移動中守ってもらう。行き先が違えば、途中で乗り換える。
ソグド系ウイグル人。ソグド人の末裔に商業を教わったウイグル人が、他国ではソグド人として記録される。このウイグル人の王国は、ソグド系の人々の影響により8世紀頃に、マニ教に改宗する。
(2023 01/21)

東ウイグル帝国から、西ウイグル帝国へ。だいたい西暦800年のちょっと前くらい(安史の乱のあと)にマニ教が国教となり、その後、西ウイグル帝国となる。その200年くらいにこの国は国教をマニ教から仏教へと転換した。この宗教を変える時期が森安氏の研究領域の一つ。
(2023 01/22)

仏教寺院壁画に見る宗教の変遷

ソグド語→ウイグル語→モンゴル語という展開と同時に、ソグド仏教→ウイグル仏教→モンゴル仏教という展開もある(モンゴル仏教にはチベット仏教も強い影響力)。モンゴル帝国で色目人と呼ばれ重要な地位を占めたのは(旧来言われていたようなイスラム教徒ではなく)ウイグル人で、このモンゴル帝国におけるウイグル人は、ウイグル帝国におけるソグド人と図式的に酷似。西ウイグルは西遼に半ば支配されかかっていたが、モンゴル軍が近づいているのを察知して、西遼の代官を殺してモンゴルの配下に。
マニ教が国境時代の寺院管理システムは国側の役人と寺側の役人の二人体制。伝令役がそこに挟まる。
中国に今も残る書類の解読もしていて、具体的で楽しい。ここ読んで感じたのは2点。前に読んだ「中世ヨーロッパの農村の生活」の農村役人と何か思い出す(共通性とかあるのかわからないけれど、雰囲気が似てる)のと、何かと食事のこと…「不味かったら罰」とか…気にしているのが面白い。マニ教は食事(菜食)に気を使う宗教だから。

この辺の仏教寺院では、仏教→マニ教→仏教と変遷したものがある。生命の樹の壁画とか見ると確かにマニ教。西ウイグルにおいて、マニ教から仏教に変遷したのは、その頃は既にソグド人の故地がイスラム化した為、移り住んできたソグド仏教徒の影響。

古ウイグル語の手紙解読

続いて第5章。古ウイグル語の手紙解読。現在のウイグル語とこの古ウイグル語は、文法はあまり変わらないが、他はほとんど変わって別物となっている。契約文書は型がほぼ決まっており研究も一段落している。ここでは個人的手紙の解読をしている。内容については一回限りのものも多く不明なことが多いが、逆に内容が全く無い(安否確認とか出すこち自体が目的)ことも多い。内容の前には、決まり文句が並ぶ。ここにマニ教信者の場合と仏教信者の場合には、それ特有の決まり文句が入る。前に見たように、キャラヴァンを利用して商業もこの手の手紙も送られた。安全面を考慮して、商品と手紙を別の人物に託したりもしている。手紙に封印して、それを別手紙で指示しているとか、こういうのはあまり変わらない。

シルクロードと日本

第6章。梵語漢語辞書(梵語はここではサンスクリット語に当時のインド民俗語)や蕃漢対照東洋地図などは、遣唐使などを通して日本に渡った。前者は特に中国では散逸しているだけに貴重。
続いて話題は「胡」をペルシアと見る見方を批判し、「胡」はソグドであるという説を提唱する。先の「東洋地図」でも「胡」とペルシアは別物として記載されている。というわけで、中国には多くのソグド人がいて、渤海や新羅、そして日本にも渡ってきていた。自分的に気になるのは渤海使とソグド人。渤海使が来た時に日本側の人が「商業目当てではないか」と言ったという。まさしく黒貂などを商うソグド人コロニーが渤海にはあったらしい。もちろんペルシア人も来ていたことは確か。

マニ教絵画の発見と現存

最後の話題は、マニ教絵画について(確か教祖マニ自身が画家で、絵画を布教の道具として認識していたはず)。日本で複数(9点?)のマニ教絵画が21世紀に入って発見された。その中には「マニ教のイエス」(マニにとってイエスは重要な先達)とか、マニ教世界観を絵画にしたものなどもある。それも驚きだが、中国、福建や浙江などにマニ教絵画が現存して、この辺りでマニ教が一番長く生き延びていた、というのも意外。ふと訪れてみたくなる(それより日本で発見されたマニ教絵画を見るのが先か…)。
ということで読み終わり。
(2023 01/24)

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