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濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』を見ました。

 濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』を見た。泣き腫らしてしまった。映画にもまだ何かできると思ったし、映画は変わることができると思った。それはほんの少しずつ前に進むことだ。誰もが当たり前のように「映画」と呼ぶものをわたしたちは作っているように見えようとも、人々の気づかないうちにその「映画」も変化している。
 映画の中盤、『ワーニャ叔父さん』のホン読みをしている人々を、声や環境音はなく音楽にのせてひとりひとり映していくインサートシーンが印象的だった。一人を除くすべての人物がアップで映されるが、ただひとりソーニャを演じることとなるパク・ユリムだけがバスト・ショットで映される。それは、彼女が韓国手話を使っているからだ。彼女のみ手話をしている手を映さなければならないため、撮るサイズが違ってくる。それにより声を発せる他の人物と彼女の差異が強調される。映画という表現形式は、ありのままに被写体を映してしまうものであり、「平等」に対象を切り取ることなど無いという事実が露呈する瞬間だ。ことによったら映画は散々言われ尽くしているように「暴力的」なメディアであることを越えて、「差別的」な表現形式であるとすら言えるかもしれない。しかし、気がつけば、いつのまにか、パク・ユリムが韓国手話を使うときには、画面の下に日本語字幕が出ていた。複数の言語が使われるこの映画で、いつのまにか、手話も画面下の日本語字幕によって補われることとなる。手話を使う人物の画面下に日本語字幕が出ることが、複数の言語の話者が登場するというこの映画の設定を通過することで、まさに「いつのまにか」、それが当たり前のこととして、わたしには了解されていた。
 わたしには、手話もたんにわたしの理解することのできない、しかし日本語字幕があれば理解できる、なんら特殊ではない「他者の言語」であることが「いつのまにか」了解される。それは、北京語や韓国語、その他、あらゆるわたしの理解できない言語と変わらない、なんら特別ではない言語だ。映画を見ていて、そういう体験は初めてだったと思う。映画だって、微調整をくりかえしながら、「いつのまにか」変化しているのだ。

「あの人は韓国人だ」「あの人はトランスジェンダーだ」「あの人はネトウヨだ」「あの人はシネフィルだ」「あの人はレズビアンだ」「あの人はインセルだ」「あの人はカレーが好きだ」……。なんでもいいが、それらすべての「あの人は〇〇だ」を一度バラバラに解体すること。それを濱口竜介はずっと試みていたのではないか? 人間を再統合するために、一度、人間と人間のあいだに楔を打ち、バラバラに解体しなければならない。なぜなら人間は時として、人間がひとりひとりすべて異なる存在だという事実を忘れてしまうからだ。我々が連帯するためには、完膚なきまでの分断が必要なのだ。

濱口は、『親密さ』の後半の演劇パートにおいて、トランスジェンダーの女性とヤマザキパンの工場でアルバイトをする男性が対峙する瞬間を描く。そこでその若いトランス女性の口から、トランスジェンダー特有の過酷な人生と苦境が語られる。しかし、濱口はそこで話を終わらせることはしない。トランス女性の物語に応答するのは、ヤマザキパンの工場で毎日アルバイトをするしかない荒んだ日々を送った男性の独白だ。そこでなにかが起きる。その男性が言葉を紡いでいくと、やがて、誰もが同情する「かわいそうなトランス女性」の物語に対して、彼のヤマザキパンでアルバイトする「取るに足らないシス男性」の日々の物語が、みるみる輝きを帯び、彼女の物語に拮抗していく。そのとき、「かわいそうなトランス女性」の物語は、「取るに足らないシス男性」の物語と等価になる。そこに残るのは、この世界で生きる人々は、あなたもわたしも、誰もが不幸なのだ、特別な不幸などどこにも無く、凡庸な不幸もどこにも無い。濱口が映画を語り終えるときに残るのは、ただ、剥き出しの一個の人間の姿である。
 世の中から「凡庸」と言われる者が、「お前は特別な人間だ」と言われるのを欲するように、世の中から「特別」だと言われる者は、ときとして「お前は凡庸な人間だ」と言われるのを欲している。

『ドライブ・マイ・カー』の中で、何度か、「地獄」という言葉を聞いたように思う。そう、この世は地獄なのだ。しかし、劇中演劇『ワーニャ叔父さん』のクライマックス、ソーニャが「生きていこうよ」と言う。「生きてるうちはなるべく静かに過ごして、時が来たら大人しく死んで、あの世に行ったら、この世でどんなに苦しかったか、どんなに辛かったか、言えばいい」と。
 その言葉が、沈黙の中、衣摺れの音だけを響かせて、パク・ユリムの手の動きという、なんら「特別」ではない、たんなるひとつの言語として発せられる。わたしには、その衣摺れの音が、地獄がほんの少しだけマシな地獄に変わって行く音のように感じられた。

(鈴木史)

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