たべものエッセイ 2
「料理番組の闇」
料理番組は楽しい。
プロの手際の良さにはウットリしてしまう。包丁を巧みに使い、大根のかつら向きをしたり、魚をキレイにおろすのを見るのはとても楽しい。フライパンをあおったり、巻き簾で酢飯などを巻いている姿は見ていてホレボレする。
しかし気になることもある。それは「食べものモッタイナイ問題」である。
食材をボウルからフライパンに移す時、ボウルからガスレンジに食材が落ちる。これをフライパンに入れちゃう先生と無視する先生がいる。拾ってゴミ箱に入れる先生はほとんどいない。僕は拾ってフライパンに入れちゃう先生の方が好きだな。
無視された食材の方はどうなるか。しばらく放置されたりしている。これが気になって仕方がない。しかし、その放置された落下食材は、フライパンがアップになり、またガスレンジが写ると、まるで最初からそこに存在しなかったかのように跡形もなく消えているのだ。(あの食材は目に見えない助手の手によって闇から闇へ葬られたに違いない)そんな考えが頭をよぎり、番組に影を落とすのだ。モッタイナイではないか! と思わず声を荒らげてしまうのだ。
もちろん、モッタイナイはその前段階からあったりする。ボウルに食材お残りさん問題である。玉ネギなど、割と粗めに切る食材に関してはこの問題は生じ難いが、たとえばニラなどの“へばりつく系”にはこの問題が生じる。ボウルにへばりついたニラは無視されるのが常套だ。もっと悲壮なのがシラスである。1匹1匹が極小である。しかも水分を含んでいてへばりつきやすい。これなどは、ボウルから、というより、買ってきた容器からボウルに移す時点で無駄になっているのである。僕はこの無駄シラスに同情を禁じえない。せっかく皆で大海原を楽しく泳いでいたのに巻き網や地引網などで捕獲され、それこそ一網打尽にされ、浜で釜ゆでにされた挙げ句に、容器に移される時点でへばりついてしまったが為に、その存在さえも無かったことにされるのだ。捕まって釜ゆでにされて捨てられる人生だったのだ。もしかして、その1匹が逃げおおせたら何百匹という子孫を残せたかも知れないのだ。まさに断腸の思いである。
モッタイナイ系はさらに続く。
煮込み時間などを短縮するために、「これを15分煮込んだものがこちらでございます」と言って、別の15分煮込んだ鍋を出す。番組の進行上やむを得ないのだろうが、僕ははあの“これから15分煮込むハズの食材”はどうなってしまったのかが気がかりでならない。テレビ局は忙しい。だから、あのせっかく下ごしらえした食材も無残に捨てられているに違いないのだ。「このような新鮮なものを選んでください」と先ほどまで大アップになっていたジャガイモ。ピーラーで手早く皮を剥かれ、芽をていねいに取られ、面取りをして水に浸けられたジャガイモは、ふつふつと沸き立つ熱湯に入れられ“これからボクは美味しくなるんだ!”と決意した瞬間に、コンロから外され、闇から闇へと葬り去られるのだ。
「イワシはこのように目のキラキラしているものを選んで、ウロコも丁寧に取りましょう。イワシは身が軟らかいですので、おろしたあとの血もそおっと指でこすって洗い流しましょう」と大事に扱われてきた一匹の命が、圧力鍋に梅干や調味料と一緒に入れられて、スイッチが入った途端、「15分圧力鍋で煮たイワシがこちらです」と先ほどまでは画面におくびにも出なかった別のイワシが出てくるのである。闇に葬られた新鮮なイワシ……。もはや涙なくして料理番組は見られないのである。
料理番組は犬死にを大量生産している番組なのだ。何という罪深いことであろう。
ここでハタと思ったことがある。経済がそんなに豊かでない国にも料理番組はあるのだろうか? そして、そこでの食材の取り扱いはどうなのか?
願わくば大切に扱われんことを。というのがワタクシの心境でごさいます。
ーENDー
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