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『シャイニング』二人のグレディ

 グレディは、ジャックより数年前にオーバールック・ホテルの冬期管理人だった男である。
 そのグレディの名前がストーリーの途中で変わってしまうのである。
 どういう事かというと、映画の冒頭で描かれるジャックの面接場面でホテルの支配人はグレディの姓名を“チャールズ・グレディ”だと説明する。
 ところがストーリーの後半、ボールルームの化粧室の場面ではグレディが自分の姓名を“デルバート・グレディ”と名乗るのだ。
 これは一体どういう事なのか?

「・・・・冬季管理人としてチャールズ・グレディという男を雇ったんだ」
「グレディです。デルバート・グレディと申します」


 単なる台本のミスなのか?デルバートはミドルネームなのか?それとも、それぞれのグレディは別人だとキューブリックは意図しているのか?

 エンドロールで紹介される役名はファーストネームが無くて単に
“グレディ”だ。
 スティーヴン・キングの原作小説では一貫して“デルバート・グレディ”として登場し、チャールズの名前はいっさい出てこない。
 日本人の観客はこの名前の変化に気付きにくい。なぜなら日本語字幕ではどちらの場面でも単に“グレディ”としか表記されず、ファーストネームは字幕に表れないからだ。

 何かの間違いなのか、それとも意図的に名前を変えているのかはシナリオを確認すればすぐ分かるだろう。しかしインターネット上では採録シナリオ(完成作品を文字起こししたもの)は見つかったが実際に撮影で使われたシナリオは見つからなかった。ロンドンのキューブリック・アーカイブに行けば、撮影用のシナリオを閲覧できるはずだ。もっともシナリオは撮影中でも頻繁に変更されたらしい。

 グレディのファースト・ネームが異なる理由には次のような可能性があるだろう。
 
 まず、何らかの間違いである可能性だ。
“デルバート・グレディ”と脚本に書かれるべきなのに、単純なミスで“チャールズ・グレディ”と書かれてしまい、誰もそれに気付かずそのまま撮影されてしまった可能性だ。
 
 そして“チャールズ”で撮影後に何らかの理由で役名が“デルバート”に変更された場合だ。
 いずれの場合でも、“チャールズ”で撮影した場面を再び撮り直すか、“チャールズ”のセリフだけをアフレコして映像に被せれば修正できる。

 
 

 また、脚本には“デルバート”と書かれていたが、俳優が“チャールズ”と言い間違えてしまい、それに誰も気付かなかった場合も考えられる。しかし撮影現場には大勢のスタッフがいるのだ。俳優の言い間違いに誰も気づかないなどということはあり得ないだろう・・・と言いたいところだが、別の場面にも辻褄の合わないセリフがあるのだ。

 映画の序盤、ウェンディは往診に来た女医に対して、酔ったジャックがダニーの肩を脱臼させ、同時に断酒を誓ったのは「5ヶ月前」だと言っている。
 ところが中盤、バーテンのロイドと会話する場面でジャックは、断酒期間は「惨めな5ヶ月間」だったと説明する一方でしばらくすると、ダニーを怪我させたのは「クソいまいましい3年前」だったと告白する。時期がずれているのだ。怪我をさせたのと断酒を誓ったのは同時期でなければおかしいので、ジャックのセリフの辻褄が合わないのだ。

「ジャックは5ヵ月間、少しもお酒を飲んでないんです」


「今日まで5ヶ月間、惨めな断酒を続けてきた…」


「あれはクソいまいましい3年前のことだ!」


 ここで私は大胆な仮説を提示したい。
 キューブリックはセリフの辻褄が合わないのを承知の上でそのテイクを使ったのではないだろうか?

「あれはクソいまいましい3年前のことだ!」というのはジャック・ニコルソンのアドリブだったのではないだろうか。その部分の演技が良かったのでキューブリックはセリフの間違いを承知の上で使ったのではないかと思うのだ。
 だから“チャールズ”というセリフも何らかの間違いだったのではないか。
 どうやらキューブリックはショットとショットの間の“つながり”(時系列の連続性や整合性)をあまり重要視しないようなのだ。“つながり”よりも演技や映像の面白さを優先するように感じられるのだ。
 実は“つながり”の不自然さはこれらの他にもたくさんある。例えば、同一の時間内なのにショットが変わると背景の家具が変化している。あるいは、飲み物や食べ物の量が増えたり減ったりする。タイプライターの色が白色から灰色に変わっている…

 シャイニングは心理的な側面を持つ物語なので観客はつながりの不自然さに意味を読み取ろうとしがちだ。しかしそのような深読みには実はあまり意味がないのかも知れない。IMDb(インターネット・ムービー・データ・ベース)で調べると、このような“つながり”のミスは他に幾つもある。

 キューブリックのように、同じショットの撮影を何十回も繰り返して長時間に渡ってテイクを重ねると、このような“つながり”のミスが起きやすい。
 おそらくキューブリックはOKテイクだけを使うのではなく、複数のテイクから最良の部分だけを摘み取るようにつなげて編集しているのではないか。演技が気に入れば、細かい“つながり”は無視するのではないか。“つながり”よりも演技の面白さを優先するのではないか。


 

 もう一つの可能性は、ホテルの支配人が雇った「チャールズ・グレディ」とジャックが出会った「デルバート・グレディ」とは別人だという可能性だ。
 

 撮影用のシナリオは公開されていないが「トリートメント」ならばネットで公開されている(※1)。
 トリートメントとは、シナリオの書式になる直前段階に、ほぼト書き(地の文章)だけでストーリーが書かれたものだ。セリフはまだほとんど書かれない。日本のシナリオ業界でいう「プロット」に近いがもっと詳しく書かれるようだ。日本では「トリートメント」という用語はほとんど使われない。
 共同で脚本を書いたダイアン・ジョンソンによると、キューブリックはこのトリートメントにさらに独自のルールを定め、紙1枚には一つの場面だけしか書かなかったそうだ。どんなに短くて空白だらけな場面になっても紙一枚にひとつの場面。そうして一つだけの場面が書かれた紙の順番を試行錯誤しながら何度も入れ替えて最良のストーリー展開を模索したという。
 とても興味深いことにこのトリートメントでは、グレディはジャックに対して「ダニエル・グレディ」と自己紹介している。「ダニエル」の愛称はもちろん「ダニー」である。
 ホテルの管理人であるグレディとジャック、そしてジャックの息子のダニーが名前によって関連づけられている。
グレディは単に直前の管理人ではなく、さらに過去の人格を意味付けられている。
そしてトリートメントは以下のように続く。
「ホテルの支配人との会話や例のスクラップ・ブックの記憶がジャックによみがえり、グレディが前任の管理人であり、妻とふたりの娘たちを殺したことを思い出す。グレディは言う。妻はキッチンで働いており、娘たちは眠っております。管理人は貴方でいらっしゃいます。存じてますとも。私はずっと此処に居りました。そして“貴方”もずっと此処に居られました」

 おそらくは血族同士であろう「グレディ」という同じ姓の別々の男が時代を違えてオーバールック・ホテルに勤めている、という輪廻転生めいた物語なのではないか。
 ラスト・ショットの写真が示すのは、ジャックの先祖もまたこのホテルを訪れていたことを意味するのではないか。

 “例のスクラップ・ブック”というのは、ホテルの地下室でジャックが見つけた、ホテルの忌まわしい歴史を記録した作成者不明の(おそらくはチャールズ・グレディが作った)スクラップ・ブックのことだ。このスクラップ・ブックにまつわる場面は重要な意味を持ち、実際にその一部は撮影されたのだが最終的にはすっかり削除されてしまった。共同脚本家のダイアン・ジョンソンはそれをとても残念がっている。

ジャックはスクラップ・ブックを置いて“新作”を執筆している
小道具のスクラップ・ブックには原作小説と同様に
「そして奴らは彼の金玉を切り取っていった」という殴り書きがある。
小道具で使用されたスクラップ・ブック

※1:https://cinephiliabeyond.org/wp-content/uploads/2015/05/shining-treatment1.pdf?x99442 2023年11月19日閲覧

 


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