僕とインタビュー

インタビューをするようになった

虹の環のセレモニーについての記事も終わっていないまま、今の活動のことを書くのもなぁ、と思いつつ、それがブロックになって思いをつづれないのはそれも違うなと思い、書いてみることにしました。

本当に心からやりたいことをやると決めたときに湧いてきたのが
「その人の人生についてとことん聴かせてもらいたい」
という想いが込み上げてきました。

塾講師として過ごしてきたこれまでや、自己内省や探究、対話の場に参加し続ける中で
いろんな人のライフストーリーとそこから受け取った思いに触れてきました。
その人その人しか体験していない、唯一無二で、それだけで貴い体験。

それなのに、現代社会ではそんな背景や信条はあまり吟味されることなく
ただ歯車として優秀であるかを求められている窮屈でささくれだった関係性が当然で、むしろそのような内面を吐露することなんてタブーだとさえ考えられている。

だから、安心して内面を語れる場が求められ、内省や対話的であることが素敵なことだと感じられるのだと思う。

一部のカリスマや好まれやすい突出を持つ人物のライフストーリーは誰しもが羨み求められ、そして凡庸な自分とは違うのだという新たな壁を生み出すループによって、同じ命をもつヒトとしての尊厳はかくも容易く損なわれる場面に何度も目の当たりにしてきた。それは自分の中でも同じ。

だけれど、虹の環のセレモニーを経て、僕は、人間ってなんてへんてこで愛おしいんだろうって感じるようになった。一つ一つの命として、みんな違うけれどみんな同じなんだって感じるようになった。虹の環のセレモニーで感じたことは、必ず言葉にします。

2022年の7月に体験したセレモニーのあと、インタビューをしてみたいという想いから、僕は「吾命ゆ鏡」というインタビューアートセッションを考え出し、モニターを20名募集した。
簡易な瞑想を通して色をきっかけに思い起こされるエピソードをそのまま語ってもらい、インタビューで感じたことを最後に一筆描きで絵を描いて、セッションは終わる。
そのあとにインタビューをまとめて、その絵と一緒に作品として仕上げてお送りする。

ありがたいことにあっという間にモニターは埋まり、嬉々とした中で、
僕は例の流行病になる。
予定していたスケジュールを後に詰める形になり、スケジュールは過密になった。
そこから体調は行ったり来たりしていて、20名のモニターのうち、作品として届られていないものが、まだある。

20人の方の反応は、セッションの動画を見返しても、とても好感触だったと思う。
それが、発送が遅れていることで残念なことになった関係もあるし、それでも待ってくれて、温かい声をかけてくれる人たちもいる。
言いたくないことをきちんといってくれて、むしろ応援をしてくれた人もいる。

反省もしながら、本当にありがたいです。
何度もお待ちくださいのお知らせをされてうんざりかもしれませんが、
まだ送れていない方も、もう少しでお届けできるので、お待ちください。

この体験から、無理はしない、キャパを決めてやる、自分を本当の意味で大切にしようと思えるようになった。 

インタビューのとき、ほとんどの人が
「私の体験なんて」「こんなのでいいの」
と口にする。

そして、インタビューの終わりには、
「自分の中にこんなことがあったんだ」
「だから今があるのか」という感想を出してくれる。

みんな、自分の尊さに気づいていく。
みんな、話をしたいんだな、表現したいよねと思う。
それを見て、僕もそんな命の一つなんだと気づく。

個別のインタビュー「吾命ゆ鏡」と
公開のインタビュー「スピリット・インタビュー」を今やっています。

また、このことについてもお話ししたいな。

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