パスピエ "四月のカーテン"

いつまでも充足しない、わびしい、うだつの上がらない、なんだか孤独、、
と、いくら上手く言い表そうとしてもことばではいまいち捉えきれない、我々の生活に常に介在するあの感触感情。その言語や科学の限界ゆえに、その感情感触は芸術によって表現が試みられ、音楽作品にもそれを表現した作品がたくさんある。たくさんあるからか、それが表現されているだけではもう別にグッとこない。むしろ簡単に共感をさらおうとしやがってと思わせる量産型偽エモ作品もこれまで沢山聴いてきた。

パスピエの最新作『ukabubaku』収録の"四月のカーテン"もその感情感触を捉えようとした作品だ。雑で汎用的なコード進行とシンプルな楽器構成、歌詞の内容は抽象/概論的と写実/各論的のどちらにも寄っておらず、焦点があっていない感じ。
だがこの曲はめちゃくちゃ良い。
ひとつの良さはいつもスキルフルでロジカルな音楽を作るパスピエがあえてぼやけたものを提示しているところ。「自分たちの持っている技術とか頭脳を存分に出してやろう」というのではなく、「上記の感情感触を表現するなら少し雑な外観をつくりあげよう」みたいなある種の余裕を感じさせる。例えば、2駅歩く描写とかはとても写実的だけど、何をきっかけとして気持ちが落ちているのかは明示されてはいなくて。おそらく歌詞の焦点をあえてあわせていないのだろう。
それでいながらサウンドと歌詞のマッチはばっちしだ。あの感情感触を表現するために歌詞で前提固めをして、あとは先述の言語では言い表せない世界をサウンドで表現している。か細いんだけど運指が落ち着かないギターのメロ。言い表せないけどあれ!あれがいつも我々が感じてるやつ!
歌詞の上にサウンドがのっかって(普通は逆だと思うけど)、本当に稀有で素晴らしい表現となっている。

と、なるたけ客観的に魅力を示せるように文を書いたところで、もっかいこの曲を聴いてみてさらに気づいたことがある。
あれだけダウナーな曲のくせして、よく歌詞をみたらふざけてるよねこれ笑バチバチに韻踏んでるじゃん。ふざけてるじゃんか。
でも、確かにおセンチになったときとかあんな感じなはず。精神は本当にダウナーになってるんだけど、他方で同時進行で客観視してちょっとふざけてるメタな自分もいる。パスピエのことだから歌詞でふざけることであの感情感触をより解像度高く表現してんのかなと、そういうことさえ思ってしまう。

さらにこの曲の歌詞について一番大きな要素にも気づかされる。
きちんと私たちの人生が"マストゴーオン"であることを描いているということだ。
言い表せないあのマイナスの感情感触はみんなが絶対に持っているが、時間は勝手に進んでいっていつまでもおセンチにはなっていられない。あの感情感触は決して解決されることはなく、人間は解決されないまま生きなきゃいけない。この作品はあの感情感触に解決を与えようとはしていないし、絶対に解決しないからこそ、リリックの中ではカーテンの開け閉めで自身の中でひとつの区切りをつけている。こういうのは本当にどの人間にもあることだし、それをバチっと捉えているのが"四月のカーテン"だ
はじめの導入では「ぼやけている」と書いたが、よく聴いていくと映画や写真のように明確な場面を描く3人称のアプローチではないというだけで、この作品は人間の心の中、一人称でリアルを捉えていることに気がつく。

先のふざけているという話も含めて言語の世界たる歌詞の部分でしっかりリアリティを描く。そして残りの言語が入り込めない精神世界の表現を非言語の音像の部分にゆだねて、あの音、あのギターを示してくる。四畳半フォークともベッドルームミュージックとも違うけど確かに素晴らしい作品。

我々はパスピエによるこの"四月のカーテン"を師走に聴き、年の瀬のわびしさと相まって、気づけば涙まで流しながら、不安だらけの年明けを迎えるのである。

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