見出し画像

絵画の様式論(一)

もし極く簡単に芸術を定義せよというなら、芸術は「感覚が自然の中に、霊魂のヴェールを透して認めるものの表現」だと言おう。
──エドガー・アラン・ポー


美術家にとって「様式」とは何だろうか。先ごろまで東京都美術館で開催されていた「没後50年 藤田嗣治」展(10月19日から12月16日まで、京都国立近代美術館へ巡回)で、もっとも深く印象づけられたのは、このような問いであった。様式とは、一般的にはバロックやロココのように時代を象徴する表現様式を指すが、だからといって個々の美術家の中に存在しないわけではない。事実、かりに様式を芸術作品の特徴となりうる統一的な表現形式として定義すれば、藤田の長い画業を通覧する者は誰であれ、そこにはっきりと様式の痕跡を見出すことができるにちがいない。それをひとつの批評的な問題として設定したいのは、藤田の場合、「何を描くか」という主題の水準だけでなく、いや場合によってはそれ以上に、「どう描くか」という様式の水準にこそ、美術家としての個性や本質が体現されているように思われるからだ。

藤田嗣治は一見すると絵画の様式を次々と変転させていたようだ。よく知られているように、藤田にとってキュビスムとの出会いは決定的で、もし第一次世界大戦が勃発していなければ、藤田は帰国することなくパリに滞在しながらキュビスムを追究していた可能性が高いと言われている。その後のいわゆる「すばらしき乳白色の時代」は色彩をおさえることで女性の白い肌の美しさを強調することが多かったが、1930年代に中南米で描かれた絵画は濃厚な色彩が鮮やかになるし、晩年の宗教画では細密描写に一転する。主題の面でも、描いたのは風景や人物、そして神まで、じつに幅広い。藤田の絵筆がさまざまな様式をまといながらキャンバスの上を貪欲に走っていたことは想像に難くない。

だが、より微視的にその絵肌を吟味するならば、そこにある一定の様式が通底していることがわかるはずだ。それを、かりに「陰のうねり」と言ってみたい。たとえば《タスピリーの裸婦》(1923)には墨で描き出された繊細な輪郭線の外側に、それに沿ったかたちで、陰がうねるように置かれている。視覚効果の観点から言えば、その陰こそが微細な輪郭線と乳白色の下地を逆説的に引き立てていることはまちがいない。宇野亜喜良は、この陰を「汚し」と言い表しているが*1 、あえて「陰のうねり」と言いたいのは、それが輪郭線を補う補助線の役割にとどまらず、文字どおり「うねり」となって藤田の絵画の大半に及んでいるように思われるからだ。たとえば、同じ《タスピリーの裸婦》ではケシの花が模様となったジュイ布や裸婦が腰を下ろしたシーツの陰影を表現するためにも用いられているし、《二人の少女》(1918)のように、輪郭線の外側にいくつもの陰を重ねることによって、あたかも後光が差しているかのような視覚効果を与えることもある。ことほどさように陰のうねりを見出すことができることを踏まえれば、藤田にとって曲線状の陰は、肉感を伝えたり背景を彩ったりするためのたんなる表現技法ではなく、それを自覚していたかどうかは別として、藤田の本質を体現した統一的な表現形式、すなわち「様式」だったと言えるのではないだろうか。


*1 「日曜美術館 知られざる藤田嗣治〜天才画家の遺言」、NHK Eテレ、2018年9月9日


事実、陰のうねりは藤田の画業の初期から一貫していた。パリ留学時代に制作された《雪のパリの町並み》(1917)が描いているのは、雪に覆われたパリの街並み。ひときわ目を引くのは雪道に残された轍だが、藤田はこれをうねるような陰で表現した。黒い陰を強調することによって白い雪を逆説的に浮き彫りにする描写法は、画面の随所に黒い陰を置くことで裸婦の白い肌を逆説的に際立たせる描写法と、明らかに連続している。路上に積もった雪の湿った雪質を巧みに描いた《ドランブル街の中庭、雪の印象》(1918)にしても、やや高い視点からパリの街並みを俯瞰して描いた《パリ風景》(1918)にしても、画面の中央を占めているのは、やはり陰のうねりなのだ。それは、少なくともキュビスム以降の藤田にとっての原点だった。

陰のうねりという様式上の特徴から藤田の画業を通覧したとき、それが頂点を迎えると言えるのが戦争画である。とりわけ《アッツ島玉砕》(1943)に代表される後期の戦争画には、画面の中で陰のうねりが縦横無尽に跋扈しているように考えられるからだ。肉弾戦を繰り広げる兵士たちの軍服や肉体にいくつもの陰が重ねられているだけではない。それらが現実とは思えないほど密集することによって、陰と陰が重なり合い、結果として特異な光を発しているようにも見えるところが、この絵の醍醐味である。背景の中に特定の光源を見出すことは難しいが、だからといって暗闇に完全に包まれているわけでもない。殺戮の現場そのものから、もっと言えば兵士の肉体そのものから、鈍い光が放たれているように見えるのだ。菊畑茂久馬が言う「陰惨な光芒」*2 とは、陰のうねりが極限まで凝縮して描きこまれたことに由来しているのではなかったか。


*2 菊畑茂久馬「フジタよ眠れ」、『菊畑茂久馬著作集1 絵描きと戦争』海鳥社、1993年、p6


あるいは、こうも言えるかもしれない。戦争画において初めて、陰のうねりは繊細な輪郭線を効果的に引き立てる補助線としての機能から解放され、模様や肉感を表す役割からも自由になり、まことに自立的に運動することができたのではないか、と。藤田にとって戦争画とは、彼の絵画的核心である陰のうねりを思う存分に躍動させることができる絶好の機会だったにちがいない。じっさい、藤田は「戦争畫といふものは始めたら面白くて止められないですね」 と発言しているが*3、これはイデオロギー的な観点からすれば非難の対象になるのかもしれないが、戦争画に向けられた藤田の心の高ぶりを如実に物語っている。おそらく藤田は「殺戮の大画面に歓喜の声をあげて飛びついていた」*4 にちがいないのだ。だとすれば、《アッツ島玉砕》の迫真性は、敵も見方も判然としないまま土と泥にまみれて殺し合うという主題の血なまぐさい暴力性に起因するというより、むしろ絵描きとしての藤田が陰のうねりを画面上で思う存分に表出しえた、魂の高揚感に由来していると言えるだろう。だからこそ、この絵は後の絵描きたちを「ムラムラ」*5させたのである。


*3 山内一郎、藤田嗣治、中村研一、中島健蔵、山口蓬春、日名子實三、住喜代吉座談会、『畫論』23号、1943年7月

*4 菊畑前掲書、p36

*5 会田誠「藤田嗣治さんについて」、『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか」幻冬舎文庫、2015年、p220


だが、戦後の藤田の絵画から陰のうねりは消えてしまう。繊細な線は健在だが、乳白色が退いたのに伴い輪郭線を補う役割も消失したのだろうか、線を緻密に重ねながら色彩をていねいに置いていく描写法に変化したのだ。晩年の《黙示録》のシリーズにしても、緻密に描き込まれた微細な線を確認することはできるが、かつてのような陰のうねりはもはや見るべくもない。戦争画においてあれほど躍動していた陰のうねりが藤田にとっての絵画的核心だとすれば、それを失った戦後の藤田の絵画をいったいどのように理解したらよいのだろうか。それらは核心を喪失した後のたんなる惰性にすぎないのだろうか。あるいは核心が別の位相に転位したということなのだろうか。それとも——。
[この稿続く]

没後50年 藤田嗣治展
会期:2018年7月31日~10月8日
会場:東京都美術館

会期:2018年10月19日~12月16日
会場:京都国立近代美術館


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?