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福山シティFC×福山のデニム産業

広島県福山市といえば、デニムの産地。その歴史を振り返ると、多くの人が関わっており、現在まで引き継がれている。私たち福山シティFCのホームタウンをより深く知るべく、福山の歴史をたどりたい。

そもそも、なぜ福山でデニム産業が発達したのか。それは今から約400年前に遡る。福山藩初代藩主である水野勝成が綿花の栽培を奨励していたからだと言われている。福山には海がすぐ近くにあり、塩分濃度が高い土地である。そのため米は育ちにくいが、綿花栽培には適していた。綿は加工すれば布や布団になることから、加工して江戸や大阪になど都会へ販売するための商売をしていた。

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1615年に福山城が竣工。その際に街の生業を何にするかと考えた時、びんご畳表松永下駄、そして福山の備後絣を挙げた。それから約300年後、富田久三郎が柄を開発。糸の一部を染めずに白く残し、その糸を並べ、それを織ることで柄が生まれる。福岡県の久留米絣(くるめがすり)」愛媛県の「伊予絣(いよがすり)」と並び、備後絣も日本三大絣とされている。

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オフィシャルデニムパートナー「篠原テキスタイル株式会社」の歴史

篠原テキスタイル株式会社は1907年創業。備後絣を手織りするところから始まった。今から40年ほど前に、主に作業服を作成する「ワーキング」と、デニムを作成する「カジュアル」に分かれている。篠原テキスタイルはカジュアル。ワーキングが発達していくのは第二次世界大戦で軍服を作り始めた頃だった。

創業時は外国向けに柄物の生地を織っていた。この頃から日本の生地は高品質だと称されており、中東向けのサリーにも日本の生地が使われていた。1966年に「輸出功労賞」として内閣総理大臣の佐藤栄作から授与される。その後、時代の移り変わりとともに、デニム製造に切り替わっていった。国内でデニムを織り始めて約50年になる。

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デニムはそもそも海外発祥である。Serge de Nimes セルジュ・ドゥ・ニーム」(ニーム地方の綾織物)という言葉が語源となっている。輸入時のデニムは非常に硬く、どのように履くか試行錯誤した結果、洗いの技術が発展した。そこから生地を輸入するのではなく、日本でこの生地を織れないかと考え、備後絣から続く織物の技術をもとに、国内でのデニム製造が始まった。デニムの特徴として、あえて糸の真ん中は染めないロープ染色という技術を使っている。糸を束(ロープ状)にしてインディゴ染料につけ、絞って持ち上げていくと、インディゴ染料が空気と反応して青く変化する。それを繰り返すことで糸の真ん中は染まらず、外側のみに色がつく。そうすることで、ジーパンを履いた際にさまざまな動作で表面が削れ、色落ちしていき「デニムっぽさ」が生まれる。

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福山を中心とする備後では、分業で繊維製品を作成している企業が多い。糸を作る人、糸を染める人、生地を織る人、縫う人。洗う人。その道のプロがそれぞれの業務を担当している。だからこそ、一つの製品を取ってみてもこだわりの強いものができる。篠原テキスタイル株式会社では、染められた糸を織って生地にしている。その道のプロだ。

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篠原テキスタイル株式会社は、今年で創業114年目を迎えた。三代目からデニムに切り替わり、今現在は繊維商社からOEM生産や自社企画でのデニム生地の開発を行なっている。産地内にある多くの会社はそれぞれ得意分野が異なる。だからこそ、その製品と相性の良い会社が連携することで、よりこだわりのある製品ができるのだ。篠原テキスタイル株式会社でも、いくつもの会社と連携して活動している。この産業は一社では残れない。今もなお多くの会社が積極的に協力し合っているため福山のデニム産業は廃らないのだ。

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弘文株式会社の歴史

福山シティFCオフィシャルトップパートナーであるコーコス信岡で、現弘文株式会社の社長の父が営業部長をしていた。コーコス信岡は当時からワークウェアの生産で発展していた。1977年に独立し、弘文株式会社を設立。ミシンを買うなど設備投資をして、デニムの作業用エプロンを製造メーカーとして発展。その当時から篠原テキスタイルの生地も扱っていたと言う。

創業当時はアパレル業界の独立ラッシュ。世界大戦が終わり、服という服が出回っていなかったことから発展していった。扱う生地は薄物と厚物の2つに大きく分けられる。薄物はレーヨン、リネンなど。厚物はデニム。厚物の生地を作ったり、綿花を育てたりするのは江戸時代から発展していたが、縫製技術はなかった。しかし、ミシンなら厚物を扱うことができる。作成基準の高い軍服を作るようになり、縫製技術が発展。その後軍からミシンが支給され、より綺麗に早く縫う技術が求められた。生地から縫製まで福山で成り立つことから流通の面でも評価された。

篠原テキスタイル株式会社と弘文株式会社の出会い

篠原テキスタイル株式会社篠原さんと、弘文株式会社児玉さんは共通の知人の紹介で出会った。今から約5年前に、当時篠原テキスタイル株式会社がサンプルを縫製する工場で展示会用の製品見本の製作をお願いしていたが、その工場が撤退。そこで使用していた型紙を、弘文株式会社が受け継ぎ篠原テキスタイル株式会社と仕事をするようになった。弘文株式会社は元々ワークウェアメーカーであったが、自分たちがやれること、好きなことをやろう。という社長の意向もあり、今もこうして共同制作している。

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福山シティFCとデニム産業の繋がり

2019年のU-24高校生大学生創業体験プログラムStash 福山で福山シティFC代表岡本佳大と篠原さんが出会う。そこで篠原さんは初めて福山シティFCを知ったという。

元来グッズに力を入れたいと考えていた岡本代表。Jリーグに所属するクラブではないため、試合の放映権や、クラブへの分配金、チケット収入はゼロ。この状況でスポンサー以外のキャッシュポイントを作るべく、グッズの売り上げを一つの柱として計画していた。岡本代表は元々ファッションが好きだったこともあり、クラブグッズの販売ビジョンはできていた。その数あるうちの1つがデニムのトートバッグ。男女ともに使えるものを作成したいと篠原さんに相談したという。製作にかかった時間は約半年間。何度も打ち合わせを重ねる中で、岡本代表はデニムの歴史を学んでいった。
デニムのコラボ商品としてはマスクも作成した。これらを作成している期間も、ジーンズの製作には取り組んでいた。

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幼少期よりサッカーをやっていた岡本代表は、サッカー選手ならではの「お尻と太ももが太い」という悩みを抱えているアスリートは多いと考えた。そこで、アスリートに合うジーンズを作りたいと篠原さんに提案した。そこから弘文株式会社の児玉さんと3人で「アスリート向けのジーンズ」の打ち合わせが始まった。和気藹々と雑談を繰り返してく中で、アスリートの体型似合う形は一般的な物とかけ離れていることから、篠原さんと児玉さんは不安に思っていたと言う。実際に弘文株式会社の工場でも、試作品が出来上がった際に不穏な空気が漂いざわついた。しかし、選手が着用したところ、誰もが納得するものが出来上がったのだ。製作期間は約1年間。選手の移動着だけでなく、監督の小谷野もジーンズを履いて指揮を取っている。

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これまで制作に関わってきた3人のベクトルは、「どのようにして福山を盛り上げていくのか。」皆同じ方向を見ている。
 福山シティFCはスポーツを通じて地元の魅力を発信していくクラブである。選手がジーンズを履いて移動していたら、気になった人はネット検索をするだろう。そこで、福山市はデニムの生産量が日本一であること、篠原テキスタイル株式会社、株式会社弘文を知ってもらえる。こういった小さな積み重ねが福山の課題解決へと繋がる。知名度の向上や福山の魅力への気づき。クラブを通じて福山を全国へと発信していくのだ。



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