ハーバード見聞録(45)

「ハーバード見聞録」のいわれ
 本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。

「二つの大東亜戦史」は長文なので、【前段】と【後段】に分けて掲載したい。


二つの大東亜戦史【前段】(2021年11月21日)

2006年の今年は、新年早々2冊の戦史書を読んだ。最初に読んだのが「マキン、タワラの戦い」(草思社)。次に読んだのが「悲しき帝国陸軍」(中央公論社)である。いずれもハーバード大学に留学されている私の友人(当地で知遇を頂いた)の御親族が書かれた貴重な本で、それを戴いた。

「マキン、タワラの戦い」は、農林水産省からハーバード大学国際問題研究所客員研究員として留学して来られている依田學様から頂いた。同書は、依田様のお母様方の御祖父であられる谷浦英男氏(故人)の御著書である。

谷浦氏は、海軍兵学校65期(昭和13年(1938年)卒業)。昭和16年、第6防備隊(マーシャル群島クェゼリン)分隊長で、ルオット高角砲台長の時、日米開戦。昭和17年、第6根拠地隊連合陸戦隊(中隊編成)指揮官。米海兵隊がマキン襲撃の際、救援のためマキンに転進。以後、アパママ、タラワ、オーシャンを経て、昭和18年、館山砲術学校で編成された佐世保鎮守府第7特別陸戦隊付兼分隊長。同陸戦隊第1中隊長兼部隊先任将校として、3月タラワに進出、同島の防備強化に尽力。同年8月末軍令部の命でタラワ離任(その直後にタラワ玉砕)。昭和20年伊号162潜水艦長(海軍少佐)にて終戦。昭和28年、海上自衛隊入隊。護衛艦艦長、術科学校・幹部学校教官、潜水艦基地隊司令、護衛艦隊司令等を歴任、昭和44年実用実験隊司令を最後に退官。海将補。同年、株式会社リョーサンに入社、取締役歴任。

一方、「悲しき帝国陸軍」は、ハーバード大学フェアバンクセンター客員研究員の東京大学教授高原明生様から頂いた。同書は、高原教授の御尊父高原友生氏の御著書である。

高原友生氏の祖父・石原盧大佐(高原教授の曾祖父)が日露戦争当時、第11師団歩兵第44連隊長として、最大の激戦となった旅順攻撃に参加され、また、友生氏の御尊父(高原教授の祖父)も海軍少将と三代に亙る軍人家系。友生氏は東京陸軍幼年学校42期、陸軍士官学校57期。大東亜戦争末期の昭和19年に少尉任官、歩兵第58連隊(新潟・高田)に配属され、激戦地のビルマ(現在のミャンマー)に赴き、インパールから敗退する混乱・惨状の中で連隊旗手に着任。昭和21年復員後、東京大学法学部卒業。伊藤忠商事に入社。常務取締役、海外担当役員を経て、CRC総合研究所社長歴任。日本・ミャンマー商工会議所ビジネス協議会会長。

友生氏は山崎豊子の「不毛地帯」の中で、主人公の壱岐正(瀬島龍三氏がモデル)の参謀長役とも言うべき兵頭繊維部長のモデルだといわれている。

この二つの戦史の共通点は、いずれの著者も大東亜戦争を体験したのが青年士官時代であったことだ。終戦時、谷浦氏が二十九歳で海軍少佐、高原氏が二十歳で陸軍中尉。その後谷浦氏は海上自衛隊で、高原氏は伊藤忠商事で、夫々の道を歩まれたが、自らの人生行路の経験を重ねる中で、半世紀近くに亘り過ぎし日の大戦を回顧され、その思索が熟成・凝縮された結実として、世紀が改まる直前の2000年に夫々の御著書を刊行されている。

谷浦氏の場合は、タワラ玉砕の直前、潜水艦甲種学生(艦長養成課程)入校の命をうけ内地に帰還し戦死(玉砕)を免かれたが、「見事な防戦をやり抜いて玉砕した戦友の偉業を記録し、もって英霊を慰めるべき」との思いから本書を執筆された由。

一方、高原氏は、「祖父の生誕から約150年の世界・日本を、三代目の軍人として省み、特に自らの体験を通して大東亜戦争についての所見を述べ、次世代に平穏と発展の希望を託すこと」を執筆の動機とされている。高原氏はかかる思いを実践する一環として、同じ国を守る努めを志す防衛大学校の学生達に対し暖かい眼差しで講演をされている。

二つの著書の共通点を纏めれば、①初級将校として体験した戦場の実相、②戦後半世紀近くもの思索等を通じて得られた大東亜戦争の評価――などについて記述されている。

先ず、①「初級将校として体験した戦場の実相」についてであるが、二つの著書はいずれも、圧倒的に強力な米英軍の猛進の前に帝国陸海軍の負け戦の惨状を余すところなく書いている。

谷浦氏の場合、私の目を引いたのは米海兵隊の蛮行の目撃証言である。昭和17年8月17日未明、開戦劈頭から日本海軍が占領確保していたマキン島に、突如、アメリカ海兵隊の急襲部隊が潜水艦で隠密上陸し、これを迎え撃った金光守備隊(金光久三郎兵曹長指揮)が全滅すると言う事態が生じた。

その直後、谷浦中尉は救援のため独立陸戦隊1個中隊を率いてマキンに上陸したが、敵は撤退した後だった。従って、谷浦中隊の主任務は金光守備隊の遺体処理となった。そのリアルな光景を谷浦氏は次のように書かれている。

日本の戦死体は100メートル四方に散乱している。椰子のこずえに引っかかっている戦死体もあった。臭気が戦場一体に立ち込めている。(中略)

妙なことに気がついた。どういうものか仰向けになった屍体が十五、六体あり、しかもすべて下腹部を露出している。原形は完全に崩れ、穴は真っ白な蛆である。筆者が初めて見る戦死体、それも死後一週間のもの。どうしてこんな格好をしているのだろう。なにぶん朝駆けのこと、便意が我慢の限界を超えて堰を切ったからか。それとも、被弾して苦痛の余り無意識にズボンを吊り下げたのか。(中略)

戦後五十年を経て意外な事実を知り、愕然とした。それはマキン襲撃の際なされた海兵隊の蛮行を物語る出版物を読んだからである。前にもあげたジョセフ・D・ハリントンというアメリカの戦史家が『ヤンキー・サムライ』という著書で次のように書いている。

『……ギルバート諸島中のマキン島にある日本軍前哨陣地を攻撃した、カールソン襲撃隊という一隊により、アメリカ海兵隊の歴史に、恥ずべき一ページが書き加えられることになった。……ローズヴェルト大統領の息子も隊員に加わっていたカールソン襲撃隊は、戦死した日本兵の死体を切り刻み、男根と睾丸とを日本兵の口中に詰めこんだ。』

『ヤンキー・サムライ』妹尾作太男訳、早川書房、1981年

このようにして、若干25歳の谷浦中隊長は約150名の海軍陸戦隊を率い、マキン島の戦場整理を行い45体の遺体を収容し、荼毘に付すと共にマキン島の警備を再構築・強化している。

余談だが、日本が戦争に勝っていれば、このような蛮行を行った米海兵隊カールソン少佐は戦争犯罪人として裁かれているはずだ。

また、若干19歳で陸軍中尉の連隊旗手だった高原氏の戦場体験もインパール作戦の負け戦の惨状に溢れているが、その中に、皇軍の象徴たる連隊旗の奉焼という衝撃的な記事が見える。高原氏はその光景について次のように書かれている。

南ビルマの八月は雨期の最盛期である。晴れ間を縫って連日飛来する英軍機の爆撃が突如やんだ十五日、前線では誰も何も分かりはしなかった。しかし、やがて『御真影、軍旗を奉焼せられたし』との公電が来るに及んで、二十二日、インパール以来一年有半、粘り強い死闘を繰り返してきた歩兵第五十八連隊も涙を呑んで軍旗の葬送を行うこととなった。

連隊は明治三十八年親授された軍旗の下、北越、東北の質朴な健児たちで組成されて精強を誇るだけでなく、名将宮崎繁三郎に率いられ、現地住民をしてその厳正な軍律を高く評価せしめるほどの文字通り第一級の部隊であった。

私はこの歴戦の軍旗を奉ずる最後の旗手であった。ビルマ第二の大河サルウィン河畔の小都市パアンの農学校において、将兵の最後の敬礼を受けて『ふさ』だけとなった旗帛(きはく)と硬質の旗桿(きかん)は、私が常時持ち歩いたガソリンによって荼毘に付された。そして御紋章は砕いて日章旗に包み、深夜、私独り大河に突き出たバンガローに至り、密やかに濁流へ投じたのである。

日本陸軍にとって軍旗の焼却は連隊長、連隊旗手の死を意味した。旗手がガソリンと共に持ち歩いた拳銃、手榴弾、軍刀は戦うためのものではなく、あくまで自決用と理解されていた。私はその時、これらの武器で命を絶つか、あるいは御紋章を抱いて水中に没しても別に不自然ではなかったのである。

今日、生きることを選んだことについては、連隊の戦友と共に悔恨はないが、軍旗の栄光の下に戦い、その奉焼に涙し、復員後その巻頭に軍旗を掲げた千ページを超える連隊史を編み、四十年連綿として戦友の会合を重ねるゆえんは何であろうか。

戦争は忌むべきものである。人間は賢明でなければならぬ。歴史は論理(ロゴス)で動くかに見える。だが、戦前戦後を通じ棒のごとく貫かれる人間の愚直なまでの誠と、軍旗の象徴の下、団結して懸命に任務を果たさんとした情熱(パトス)をだれが笑うことができよう。
世界のいかなる博物館にも日本の軍旗はないのである。

次に、両著者の「戦後半世紀近くもの思索等を通じて得られた大東亜戦争の評価」について興味深いのは、谷浦氏も高原氏も同様に「大東亜戦争の敗因は、日露戦争の教訓を誤ったからだ」、としている点である。
先ず、谷浦氏の御指摘。
 

東郷大将率いる連合艦隊は対馬沖でバルチック艦隊を殲滅した。しかも味方は一隻も失っていない。これは偉大ななる戦勝である。この戦勝以後、日本近海の制海権は完全に我が手に帰し、非武装の商船、漁船が平和時と何ら異なることなく海洋を利用することが出来た。これこそが理想的な海軍戦略である。日本は今後ともこれで行かなければならない。仮想敵国を米国と設定しても、日本の戦略企画者達は日本海大海戦と同じパターンを期待した。そのため、このパターンが形成されるような要因をせっせと捜し求め、このパターンが崩されるような要因はせっせと否定して、もっぱらこのパターンの維持にこれ努めたのではなかろうか

谷浦氏は上記のように指摘し、日本海海戦の大勝利が大東亜戦争開戦前夜までの大艦巨砲主義や艦隊決戦思想に繋がった、と分析している。しかも、大東亜戦争までの日本海軍の戦略――「決戦思想」――とこれを可能ならしめる大艦巨砲主義の具現である「八八艦隊」建設の理論的根拠となった日本海海戦における大勝利そのものが「勝利神話」に基づく虚構のものであったとして、次のように述べている。

日露戦争後、海軍『決戦思想』の拠り所となった日本海海戦とは実のところどんなイクサであったか振り返ってみたい。不思議なことに、大正13年(1924)には、日本海軍軍令部には露国海軍軍令部が編纂した日露海戦史を翻訳して資料としており、かなり現実的に、日本海海戦の『勝利』の実情を分析していた。にもかかわらず、その後の戦略企画者達は、その実情を考慮に入れず、ひたすら『決戦』勝利神話に基づいて、『大砲即艦隊』戦略を貫いていたように見受けられる。日露戦争直後、露国軍令部が把握していた日本海海戦とは、次のようなものであった。

バルチック艦隊は寄せ集めの艦隊であった。主力艦の半数は旧式艦であり、後の半分は新造艦であった。突貫工事で艤装をかろうじて間に合わせ、造船所の工員を乗せたまま出港したフネもあったくらいで、殆ど就役訓練も完熟訓練も済ませていなかった。射撃訓練にしても、タマが出るか出ないかを試す砲熕公試(新造船の公式射撃試験)程度で、訓練なる形は殆どとっていなかった。艦隊としての陣形運動もやってない。単縦陣とまではいえない一本棒になって旗艦の後に付いて行くだけがやっとであった。乗組員はと言えば、ロジェストヴェンスキー司令長官以下の高級士官は大部分が門地家柄だけでその地位を得ている者であり、下士官兵の半分は召集員であり、後の半分は新兵であった。(中略)

当時の科学技術であの大艦隊を引き連れ、しかも一隻の落伍艦を出すことなく、はるばる日本海まで到達するという大遠洋航海を成し遂げただけでも大成功と言うべきである。(中略)

この遠洋航海の末期にそのまま引き続いて日本連合艦隊と大決戦をやるなど論外であっただろう〉

谷浦氏は、この他にも露国軍令部の資料に基づき、日・露艦隊の間の有形無形の戦力差を具体的に挙げ、ロシア艦隊の劣勢振りを示し、暗に日本海軍が勝つべくして勝った戦だったことを明らかにしている。従って、かかる歪な海戦における勝利を「神話」にまで昇華せしめ、その教訓をことさらその後の帝国海軍戦略の支柱に据えるのは不適切であるとの考えを示唆している。

また、谷浦氏は、大東亜戦争前には海上権力を獲得し維持する兵器体系が大砲から飛行機に移っていたが、かかる日本海海戦評価の経緯から、大鑑巨砲主義を突き崩すことが出来なかった、とも述べている。
 

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