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【エッセイ】 外国の家には玄関がない 〜やっぱり今でもカルチャーショック〜


 外国の家には玄関がない。そもそも日本のような「玄関」という概念がなく、家に入るためのただの入り口、「エントランス」でしかない。私は、日本のお風呂と日本のトイレに並んで、日本の玄関を非常に誇らしく自慢に思っている。

 日本の玄関は靴を脱ぐ三和土(たたき)の部分が一段低く作られている為、玄関と家の中とは明らかな境界線がある。一段、段差を上らなくては家の中に入れない為、ここまでが外、ここからが家の中だということが誰の目からも明確だ。
 玄関は履いていた靴を脱ぎ、レインコートや厚手のコートを着脱し、物理的にも外からの汚れを家の中に入れない為の重要な役割を果たしてくれるのだが、せき止めるのは汚れだけではない。外からの見えない邪気を祓い、家の中にネガティブエネルギーを入れないようにする為の見えないエネルギーの検問所のような場所だ。

 ところが、外国の家ときたら、入り口の扉を開けた途端、もう家の中だ。バリアフリーと言えば聞こえはいいが、入り口から段差のないまま、居住スペースへと続いていってしまう。昔、「玄関開けたら2分でご飯♪」という「サトウのご飯」のテレビCMがあったが、私にとって外国の家はそのキャッチフレーズがとてもしっくりくる。
 入り口の扉を開けた向こう側に広い玄関ホールがあるような高級住宅などはまだマシなのだが、大抵の場合はそんな余計なスペースなどはない。特に近年の新築物件は土地の価格が高騰していることもあり、一軒家でもマンションでも、とにかく延床面積を減らして設計されている。例えば、タワーマンションなら、昔はひとつの階に6ユニットだったところ、同じ面積に8ユニットまたは10ユニットを作り、より多くの不動産収入を得られる工夫がなされている。だから、もちろん玄関などという無駄なスペースをわざわざ確保するようなことはしない。
 古いマンションや古い住宅でも同じだ。延床面積は日本のマンションや住宅に比べて広いものの、玄関にだけはスペースがないことが非常に多い。
「あぁ、なんてもったいないのだろう。こんなところに無駄なスペースがいっぱいあるのに、ここをもう少し削って、段差はなくとも、せめて入り口に玄関スペースを作ったらどうだ」と、とにかく、私には納得できない間取りの物件ばかりだ。どれもこれも、玄関としての機能を全く考慮していないのだ。きっと、玄関というスペースなど考えにも及ばないのだろう。
「あぁ、もったいない」

 しかし、それもそのはずだ。家の中で靴を脱ぐなんて習慣は、世界ではあまりメジャーな方ではない。今でこそ、ヒッピーやスピリチュアル系、グリーン系や環境活動家などの人たちが靴を脱ぐようになってはいるが、欧米諸国ではまだまだ主流とはいかない。
 だから、万が一「家の中でも靴民族」と生活を共にすることにでもなれば、まずは「靴が何故汚いのか」「靴は何故、家の中で履いてはいけないのか」というレクチャーから始めなくてはならない。

 靴は外を歩いている間、履いている本人も気が付かないうちに、犬の糞を踏んでいるかもしれない。犬の糞かと思ったら人間の糞かもしれない。誰かの吐いた唾を踏んでいるかもしれない。誰かのおしっこを踏んでいるかもしれない。細菌やバクテリアをくっつけたままかもしれない。
 ニュージーランドの入国審査では、入国者たちの靴底についた土や泥にもうるさい。靴底についた花粉や種子、微生物等によって国の生態系を荒らされることを防ぐ為だ。有名な話がポッサムなどの人間によって運ばれて来た外来種のせいで、ニュージーランド生息の飛べない国鳥、キーウィが絶滅の危機に晒されてしまったこと。そんな過去の悲劇の教訓から、しっかりと生物安全保障の取り組みがなされている。
 ここからも分かるように、人間の目には見えなくても、靴底にはいろいろなものがついていると考えるべきだ。汚い靴をそのまま家の中でも履いていたら、特に家の中に絨毯を引き詰めていた場合、外の汚れを家の絨毯で拭き取っているようなものだ。仮に、どこもかしこも木の床だったとしても、ビニール素材の床だったとしても、乾いた犬の糞が粉状になって床に落ち、それらが埃と一緒に部屋の空中に舞い上がる。そこがキッチンだとしたら、もしかしたら舞い上がった犬の糞の乾燥粉末が最終的に自分のご飯の中に舞い落ちるかもしれない。靴を履いたままベットに横たわろうものなら、私の頭の中の裁判所では軽罰では済まされまい。靴が布団を触っていないと言い張ったとしても、粉末犬の糞理論は十分に当てはまる。
 同じように、ハリウッド映画で良く見かける机やテーブルの上に「ドン」と靴を履いたままの両足を乗せるのも、私の中ではご法度だ。
 家の中で靴を脱ぐ。たかだかこれだけのことがシンプルにまかり通る日本はなんて素晴らしいのだ。それにしても、靴を脱がないくせに、家の中に絨毯を引き詰める「家の中でも靴民族」は絨毯に申し訳ないとも思わないのだろうか。絨毯に外からの汚れがどれほど蓄積しているかと思うと、私は家の中なのにおちおち寝そべることすらできやしない。

 そもそも、こちらで玄関を作ったとしても、せいぜい土足のエリアと土禁のエリアを玄関マットで仕切る程度しか方法はなく、段差のないバリアフリーなせいで、うっかり靴が玄関マット以外の場所を踏んづけてしまうことは往々にある。ドアの開け閉めの度に、靴についていた砂や泥もゴミも平気で玄関マットを飛び越えてくる。なんたって、バリアフリーなのだから境界を跨ぐのも楽ちんだ。この境界線の曖昧な玄関にはいつまで経っても気が休まらない。
 
 結婚してから10年間は、引越し貧乏時代だった。夫の仕事の都合で、または夫のエゴ都合で、毎年のように引越しをしていた。国を跨いでの大きな引越しもいくつかあった。安月給が引越し貧乏を更に応援してくれた為、行く先々で探すお家はもちろん「なるべく安く」が絶対条件だった。その為、玄関スペースのような無駄な空間のある物件などとはまるで縁がなかった。
 案の定、どこで探そうとも「玄関開けたら2分でご飯」の家ばかりだった。誰かにうっかり玄関を開けられると、醜い家着のままソファでひっくり返って寝ていたことが目の前の通りを歩いている人たちにまでお知らせできる家や、玄関を開けると、お皿の中身まで知ることができる、文字通り「玄関開けたら2分でご飯」が食べられる家や、玄関を開けただけで、家の隅々まで一望できる家など、とにかく気の利かない間取りの家が多かった。
「建築士は自分の設計した家に実際に住んでいる様子を想像してみることはないのだろうか」
「設計する際、玄関のドアの真正面のソファでぐうたらしている自分の姿を想像しないのだろうか」
「それとも、この設計士は日常全くぐうたらすることのない、『座る時はいつも直角』タイプの人間なのだろうか」
私は賃貸物件を訪問する度に、いちいち思いっきり夫に文句を垂れまくった。

 私は特に家に入ると「そこはすでにキッチン」という家が嫌いだった。
 まず大きな理由は、キッチンで靴を脱がなくてはならないからだ。雪国では、皆、構わずキッチンやキッチンダイニングの隅に脱いだスノーブーツを置いているのだが、私は靴を見ながら料理をするのも、靴も眺めながら食事をするのもとても嫌だった。臭い付きの靴の場合は、もちろん目だけでなく鼻にだって拷問だ。
 キッチンと言えば、洗濯機や乾燥機がキッチンに置かれている家も多い。日本の多くの家は、通常、洗濯機や乾燥機はお風呂場の脱衣所や洗面所に置いている。スペースがない場合はベランダであろう。ところが、引越し貧乏時代に移り住んだアパートでは、洗濯機はマンションの共同コインランドリーか、個々の世帯にあっても設置場所は必ずキッチンだった。学生の頃ならともかく、コインランドリーにはうんざりしていたところへ、洗濯機付きとなれば、玄関と並んで飛びつくところ。しかし、決まって洗濯機の置いてある場所はキッチンだ。
「何故、キッチンなのだ?」
汚れた服を洗濯するのだから、当然、汚れ物をキッチンへ運んでこなくてはならない。キッチンへわざわざ埃や汚れを落として回らなくてはならないではないか。
 欧米諸国では日本の家は狭いと思われているが、日本の家は良くできている。実に機能的に考えられている。住む人の気持ち、住む人の使い勝手を一番に考えてくれている。たとえ、少しばかり手狭でも、生活動線を踏まえ、効率を考え、きめ細やかな配慮の元で設計されていることが非常に多い。日本の家は誠に素晴らしい。
 
 引越し貧乏時代がようやく終わった頃、便の良い都会を離れ、田舎の家賃の安い地域へ引越しをしようと、再び物件を探し始めたことがあった。今までと同じ家賃でも田舎へ行けば、アパートでなく家が借りられる。

 ところが、だ。
またしても玄関問題勃発だ。アパートでなく一軒家でも、玄関問題だ。
 一軒家で多かったのが、二重扉になっていない玄関を開けると、すぐに上る階段と下る階段が目の前に立ちはだかるタイプの家だった。通常の階段の半分の高さくらいの階段が、右側は上へ、左側は下へと続く。ところが、その階段の一段目と玄関のスペースは、玄関の内開きの扉が開いてちょっと余裕がある程度だ。
 つまり、この家に住んだ場合、上の階から下の階へ行く時に、いちいち玄関マットを踏まなくてはならない。また、下の階から上の階へ行く時も玄関マットを踏まなくてはならない仕組みになっている。夫は「踏まないようにすればいいじゃないか」と呑気なことを言うが、これは毎日何回も繰り返す行動だ。小さなストレスが大きくなるのは目に見えている。玄関マットを踏まないようにいちいちジャンプをして飛び越えるのも、階段の手すりを持って、まるで猿のように足を浮かせてスウィングさせるのも、毎回毎回やっていたら気が狂いそうだ。そもそも、猿のようにやっていたら楽しいだろうが、手には何も持って移動できないではないか。玄関マットに付着した汚れを、せっかく綺麗に掃除したばかりの上の階へも下の階へもくまなく移動させて歩くなんて、なんと気の利かない間取りなのだ。
 あぁ、日本の家は素晴らしい。全くもって世界一だ。
 
 雪の多い地域では、冬の間、マイナス25℃や30℃に耐えられるウォータープルーフのブーツが欠かせず、毎日決まってスノーブーツを履くことになる。そして、スノーブーツで人々がバスや電車に乗り、お店に入り、建物の中へ入るので、溶けた雪や泥や融雪剤でどこもかしこもでぐちゃぐちゃのびちょびちょだ。大概、お店の入り口には玄関マットの長く延びた特大の大型版が敷かれているのだが、それでも間に合わないくらいびちょびちょになる。当然、家の中だって同じことが起こる。だから、冬の間はほとんどの人が家の中に入る前にスノーブーツだけは脱ぐようだ。
 それなのに、ゆったりとスノーブーツを脱ぎ着でき、スノーブーツを乾かして置けるスペースがない家があまりにも多い。二重扉になっていて、最初のドアと次のドアの間に畳三分の一畳ほどの正方形の狭いスペースがある家に巡り会えればラッキーな方だ。最もラッキーなケースは、最初のドアを入ると、温室のような屋根のついたテラスがあり、横に細長いたっぷりとした空間を設けている家に出会えることだ。そのような家であれば、スノーブーツもエスキモーコートも十分置いておけるし、その場で何人でもいっぺんに脱ぎ着ができる。

 もともと、欧米諸国では家の入り口の扉は外に向かって開かない。内開きに作られていることがほとんどだ。これは防犯の為のようだが、特に雪国では、玄関の扉は絶対外には開かない。雪で開かなくなってしまうからなのだろう。
 雪深い地域に住んでいた時には、運良く、家の入り口が二重扉になっているお家を借りれたこともあった。しかし、家に入る際、一枚目のドアが内側に開くので、畳三分の一畳程の狭い空間に図体のでかい夫と二人立つことは不可能だった。だから、結局、一人がその狭い空間で靴を脱いでいる間、もう一人は寒い外で待っていなくてはならなかった。
 そして、脱いだ靴はドアとドアの間のその狭い空間には置けない為、ぶら下げて持ち運び、二つ目のドアをくぐった先に置かなくてはならなかった。内側のドアもまた家の中へ向かって開くので、狭い廊下に靴棚を置くことも不可能であり、結局、廊下を少し進んだ場所、ドアから少し離れたところに靴を並べなくてはならなかった。寒い外気避けには重宝だが、玄関の機能としては全く不合格だ。雪で開かなくなってしまうからという理由は理解できるが、内開きでは、ドアの表面についた汚れや、蜘蛛が一生懸命張った巣や、雨や雪が玄関スペースに滴り入ってしまう。その上、ドアが開く時に邪魔になるので、せっかく少しばかりスペースがあっても、脱いだ靴を置いておくこともできない。全くもって不合格だ。
 日本の玄関はほとんどが外開きになるように取り付けられている為、靴を脱ぎ散らかしていても、ドアの開け閉めの邪魔になることはない。
 あぁ、日本の家は素晴らしい。つくづくと、再び三度、四度と五度と、日本の玄関への思いを深め、私のカルチャーショックはいつまでも癒されない。
 
 欧米諸国に靴を脱ぐ派が増えてくるにつれ、ホームパーティにお呼ばれする際には頭を悩ますことが多くなった。
 招待された家に招き入れられる際、「靴はどっちでもいいわよ」と言われることが多くなったのだ。
 私はこの「どっちでもいい」が大嫌いだ。どっちかに徹底してくれ、と心の中で叫ぶ。
 家主が「靴はどっちでもいい」と言うということは、大抵の場合、家主は靴を脱いで生活している。私たちが一番乗りだった場合、家の主たちの足元を確認し、「では脱いだ方がいいだろう」という判断をする。既に来ているゲストたちが靴を脱いでいる場合は、やはり脱ぐ方を選択する。
 ところが、後から来るゲストたちが、「そう、それならこのままで」と靴を履いたまま家の中に入って来ることもあり、そうなると、私は慌てて、入り口付近に粗雑に置き去りにされている靴たちの収集場へ、靴を履きに戻ることになる。靴を履いた組が汚す床を、靴を履いていない組はわざわざ自前の靴下でモップがけをしなくてはならないからだ。
 ゲストに靴を脱がせるなら脱がせる、脱がせないなら脱がせない、と、とにかくどちらでもいいから統一して欲しい、と私はつくづく思う。
 何故この「どちらでもいい」が存在するのだろうか。
 欧米諸国の靴を脱ぐ派は、あまり清潔の意味がよく分かっていないのか、または、日本人の「清潔」の定義と彼らの「清潔」の定義、その度合いがあまりに違い過ぎているのだろう。彼らは、「普段は靴を脱いで生活しているが、時には履いたままの時もある」という大らかさだ。
「昨日は寒かったし床も冷たいから靴のままだったけど、今日はお天気もいいし脱いでおこうかしら」なんて選択肢、家の中に限っては有り得ない。私にとっては家の中での土禁ルールに「どっちでもいい」はない。考慮する気もさらさらなければ、譲歩する気もさらさらなしだ。

 その徹底した思いから、どんな場合であっても自分の家では、私は家の中での土足を許すことができない。
 うっかり忘れ物をしちゃった時に限って、履くのに非常に面倒くさい靴を履いているものだが、私は容赦無く、脱いでもらう。夫だろうとゲストだろうと一貫して断固と例外を許さない。日本だったら当たり前だ。靴を脱ぐのが面倒くさいからと言って、靴のまま家の中へ忘れ物を取りに戻ることは絶対にないだろう。
 結婚当初、夫はそのままジャンプをしながら忘れ物を取りに戻ったことがあった。本人は靴が直接床につくことをできるだけ回避した模様だが、ジャンプをすることによって余計に汚れが飛び散るではないか。這いつくばって取りに行くことだって同じだ。靴の底や側面についた汚れは落ちる時には落ちるのだ。せっかく玄関で「必ず靴を脱ぐ」を徹底させても、こういった例外を許し続けると、ついつい例外ばかりになってしまうのがオチだ。「あっ、ちょっと忘れ物」の多い私たち夫婦には最初が肝心だ。
 
 夫に「家の中で土足の例外を許さない」を叩き込んでいた頃、もうひとつ、徹底指導していたことがあった。夫の靴の脱ぎ方だった。
 外国人が靴を脱ぐのを観察していると、多くが、脱いだ足を靴の後ろに置いている。そして、もう片方もわざわざまた靴の後ろへ置く。「三和土へポン」型だ。
 日本で家の中に入る際、多くは、体が家の中を向いた状態で靴を脱ぎ、脱いだ足を玄関の式台または上り框(あがりかまち)の向こうへ置き、もう片方も脱いで上り、その後で、上り框(あがりかまち)から玄関の三和土(たたき)へ向けて体を下がめ、靴の向きを変えて揃える。玄関入り口のドアへ体を向け、後ろ向きに上がる場合でも、脱いだ足はそのまま上り框(あがりかまち)へと置き、わざわざ靴下や素足のまま三和土(たたき)には足を置かない。
 ところが、外国人が日本の家へ招待されると、多くは、脱いだ足をわざわざ一歩後ろの三和土へ置き、もう片方の足も同じように三和土へ。そうやって両足を見事に土足の場の三和土へ着地させた後で、玄関の廊下に上る。三和土にあったゴミも埃も汚れも、一旦、自らの靴下で吸い取ったあと、その足で家の中へと入ってくる。
「何故、わざわざ靴を脱いだ足を三和土に置くのだ」
 夫は私と結婚するまでずっとこの方法で靴を脱いでいたようで、この習慣が変わるのにはかなりの月日がかかった。最近はちゃんと靴を脱げていると思った矢先、古い習慣が出てくることも多かった。無意識に脱ぐ時はやはり長い間の習慣が勝っていた。
 今では、ようやく、たとえ無意識であっても、脱いだ足を玄関マットや三和土へ置くことは全くなくなったのだが、そうなると人間は現金なものだ。
 食べ歩き動画で世界的に大人気のMark Wiens という先駆者 Youtuber がいる。彼の動画には度々、土禁の場所へ入る際の彼の靴を脱ぐ様子が収められているのだが、これが外国人典型の「三和土へポン」型だ。毎度毎度の「三和土へポン」を見る度に、夫が「汚いなぁ」「そうやって脱いじゃダメじゃないか」と言う。「おいおい、お前もやっていただろ」と私がいちいち過去の傷を掘り返すと、「そんなことはない」と抜かす。夫の良いところだ。都合の悪いことは忘れる、思い出さない、なかったことにする。
 現在の夫はまるで、「一度も素足で三和土を踏んだことはない」と言わんばかりの涼しげな顔をしている。
 でも、まぁ、良しとしよう。今ではすっかりそうなっているのだし、第一、「三和土へポン」が「汚い!」と感じられるようになったこと自体が大進歩なのだから。
 
 あぁ、それにしても、いつか、toto のトイレと合わせて、世界に日本の玄関が広まりますように。

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