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【エッセイ】 100円ショップと1ドルショップ 〜やっぱり今でもカルチャーショック〜

 日本の100円ショップの商品はとにかく気が利いている。
 日常生活で、不便とまではいかないが、もう少し何とかしたいと思っているようなストレスの卵たちを取り除いてくれるアイディア商品に満ちている。
 それらのどれもが別段なくたってどうってことはないのだが、日常の生活をより便利でよりスムーズにするためだけに、わざわざ商品化されているから驚く。痒いところに手が届くほど、実に良く、使う人の身になって考えられている。しかも、100円なのに100円には決して見えないほどの質の高さだ。見た目にもお洒落で可愛らしい。
 100円ショップの大型店などに足を運んでしまえば、「こんな便利な物があるんだぁ」と、驚きの発見や感激ばかりで、楽しくて仕方がない。いつだって、滞在予定時間を大幅にオーバーしてしまう。
 
 一方、こちらの1ドルショップときたら、同じビックリでも正反対のビックリだ。どれもこれも、並んでいる商品はとにかく、粗悪でちんけ。日本のように気の利いた物などほとんどない。お世辞にも「お洒落」だの「可愛い」だのとも言い難い。「よく考えられているなぁ」と感心するような商品も、「おっ、すごい工夫がなされているぞ」などの感激もない。「こんな便利な物があるんだぁ」などという新発見など到底ない。
 日本のセリアなら、何でもかんでも100円だから、安心して買い物ができる上、「こんな物まで100円だなんて」と感激の連続だが、こちらの1ドルショップは、1ドルのものはほとんどない上、「こんな物が4ドルもする」と、ちんけなくせに高値で売りつけようという根性に感心する物ばかりだ。
 
 そんな不満を抱えつつも、私は1ドルショップに繰り返し買っているリピート商品がある。日常の掃除用アイテムのいくつかだ。同じようなものがどこのスーパーマーケットでも売られてはいるが、ちんけさはさほど変わらないのに、値段はえらく変わるので、1ドルショップのものを使って来た。
 
 ところが、だ。
 
 「商品の質が変わっている!」
 パッケージと装いはまるで以前のままなのに、何の前触れもなく、中の商品の質だけがこっそりと変わっていることに驚くことが度々ある。
 「変わっている」というのは、改良されて良い物になったという肯定的な意味ではない。日本の店で見かける「改良されて、更に使いやすくなりましたー!」などのキャッチフレーズが添えられたグレードアップ商品に変化しているという意味では全くない。正反対の意味だ。
 そのくせ、お詫びと忠告の文言などもなく、以前と全く同じ格好で、何食わぬ顔をして陳列棚に並んでいる。
「リピーターをだませると思うなよ!」
と、品質が落ちたことにフツフツとしていると、しばらくしてまた以前の商品と同じ状態に戻っていることに気づき、再度驚く羽目に遭う。こんなこと、日本であっただろうか。
 
 床を掃除するための使い捨てのクロス、日本の100円ショップ、セリアの名前で「フローリングワイパーシート・ドライ」という商品もその一つ。
 セリアなら45枚も入って100円なのに、こちらの1ドルショップで売られているものは20枚しか入っていない。しかも1ドルショップのくせに1ドル25セントの上、税金も取られる。
 シートの一枚一枚の質だって、「セリアの45枚も入って100円」の商品の方がうんと優れている。大きさだって、標準のワイパーのヘッドを四方しっかり包み込む。こちらの「1ドル25セント」は左右にあまり余裕がないから、掃除中に時々剥け出たり、ワイパーヘッドの底の部分の角や左右が汚れてしまうことが多々ある。
 パッケージの点線の開け口だって、「セリアの45枚も入って100円」は点線に沿って綺麗に割れる。「1ドル25セント」はビニール包装ではなく厚紙で出来た小さな箱に入っているが、日本の箱ティッシュのような取り出し口をくり抜く点線が必ず点線通りに破れない。点線の外側に破れて、口の周りにケチャップがついたままの子供のような顔をした取り出し口を、シートがなくなるまで見ていなくてはならない。
 何でもなくたって、私の基準は「セリアの45枚も入って100円」だから、常にこちらの「1ドル25セント」に冷たく当たってしまいがちだ。
 そこへきて、どういうわけだか、突然、質やサイズが悪化することがあって、安心ならない。私の「セリアの45枚も入って100円」への信頼度には至らない。
 
 ある時は、明らかにシートの手触りが違っていた。何となく、色にも違いがあるように感じられた。
 またある時は、シートの薄さが更に薄く、より透き通っていて、頼りなさが増していた。
 いずれにしても、しばらくしてまた購入すると、元通りの1ドル25セントに戻っていた。
 
 そんな中、たった一度、改善の方向へと変化していることがあり、私を驚かせた。いつも物足りない左右の端が、ワイパーヘッドから優に有り余ることがあった。いつも、「セリアの45枚も入って100円」と比べられているこちらの「1ドル25セント」も、この時ばかりは私に誉められた。このまま変わらずいてくれればいいのにと願ったものの、案の定、また左右がもの足りないいつもの薄いシートに戻ってしまっていた。
 
 「どうして、こういうことが起こるのか」
「同じ商品のフリをしておいて、消費者は気づかないとでも思っているのか」
「これくらいのちょっとした違いなら、リピーターだろうが消費者は文句を言わないとでも思っているのか」
 しかし、私は騙されない。
 出くわす度に、日常の些細なことには気づかない夫にわざわざ見せに行き、私は文句を垂れるようにしている。そして、夫を企業の品質管理のトップに模し、「責任者としてどういうつもりなのか」と問い詰めてみる。
 
 すると、突然1ドルショップの品質管理者にさせられた夫は、グローバルサウスのどこか人件費の安い国で構えられた工場内の現場の様子を想像して答える。
 「工場では日本の100円ショップ行きのものと北米の1ドルショップ行きのものを両方作っているのだけれど、日本の100円ショップ行きと北米の1ドルショップ行きのものでは扱いが違うんだよ」と弁明する。
 何やら、日本の100円ショップ行きのものは100円と言えども、質にこだわり、商品基準が厳しく、出来上がりのチェックも入念らしい。しかし、北米の1ドルショップ行きのものはとにかく「安上がり」が重視で、基準も低く曖昧、とりあえず、格好だけ商品になっていればすぐにOKが出るので、工場の労働者も余計な気を使わないのだと言う。
「きっと、そうだね」
私たちは大笑いしながら、想像をふくらめていた。
 
 「『あー、今日は材料の何とかが不足しているけど、まぁ、これを代用して間に合わせるか』だとか、『シートをカットする機械を誤設定しちゃって、ちょっとサイズが違っちゃったけど、まぁ、いいっか』って感じで出荷しちゃってるんだろうね」
と結論づけた。
 つまり、工場から集荷された商品の中には一時的なミスを伴って出来上がった商品のバッチも混じっていて、それがそのまま店頭に並んだのだろう。
 
 実際、本当にそうかもしれない。
 日本の100円ショップだろうが、こちらの1ドルショップだろうが、しまむらレベルだろうが、ニトリレベルだろうが、ユニクロレベルだろうが、はたまた、NIKEだろうが、PUMAだろうが、工場はすべてグローバルサウスだ。ブランドものだからきっと現地の人たちに高い人件費を払っているだろうと思ったら大間違いだ。どの企業も出来るだけ人件費を安く抑え、元手の経費を下げることに必死だ。
 ただ、そんな中、日本へ出荷されるものだけが、異様に厳しい品質チェックを受けているのではないかという想像は当たっているかもしれない。そんな気がする。
 
 ある時、1ドルショップへトイレ用のビニール袋を買いに行った。
 ビニール袋の使用を極力控えたいという思いに駆られていたため、数十年間、ビニール袋に入っている商品を取り出した後は必ずそのビニール袋やパッケージを取って置き、ゴミ袋や何かの入れ物にことごとく再利用していた。だから、ゴミ袋をわざわざ買うことはあまりなかった。
 毎週水曜日、スーパーマーケットの広告を集めたチラシの束の入ったビニール袋が各家々の玄関前に配達され、私はそのビニール袋を裏返しにしてトイレ用に使っていた。ちょうど良い大きさだった。ところが、そのチラシの束が、突然、むき出しで配られるようになってしまった。きっと、経費削減とグリーン政策で、ビニール袋がカットされたのだろう。
 急にトイレのゴミ袋を失って、代用品に困っていた時、ふと、1ドルショップでトイレ用のビニール袋を購入してしまった。突然、目に飛び込んで来たのだ。
 1ドルショップなんて、日本のセリアやダイソーやキャンドゥに比べたら、可愛いものも気の利いたものも全くないのに、小さく丸められ、いろいろな色の揃ったトイレ用ビニール袋コーナーにふと目が吸い込まれてしまった。通常、ビニール袋には使われないような色ばかりが並んでいたからだった。
 なぜか、それだけで急にトイレがオシャレになるようにすら感じられてきた。緑か紫か、自宅のバスルームを想像しながら、頭の中で色合わせを行なう。
 私は床に物を置くのが好きではないので、ゴミ箱を置いていない。代わりにゴミ袋を洗面台の横に吊るしている。そのため、意外と目につく。貧乏くささが、結構なインパクトとなって目に入って来る。可愛い色に代わり、中身のゴミが見えなくなるのは非常に嬉しい。トイレのゴミ袋ひとつで気持ちがわくわくしてきた。
 20枚も入っているのに1ドル25セントプラス税金だった。プラスチックをわざわざ買うことにも、わざわざゴミを増やすのも抵抗はあったが、ビニール袋らしからぬ色と値段に惹かれてしまった。
 紫を選び、帰宅後、真っ先にバスルームの所定の場所に吊るしてみる。艶消しの曇ったビニール袋はビニール袋のガサガサ音もなくうるさくない。色もとても可愛いらしい。トイレのごみ袋ひとつで、私は非常に幸せな気持ちになってきた。
 そして、ふと、気がついた。
 あのチラシのビニール袋は大きさもちょうど良かったけど、配られる時に放り投げられるため、表面に泥がついていたり、汚れていることが多かった。そのため、汚い面を内側に裏返しにした後、ゴミが丸見えにならないように、要らないチラシをひとつ中敷きにしてゴミ袋を作らなくてはいけなかった。
 中敷の隙間からは時々ゴミがチラチラ顔を見せている。
 チラシ配達員がチラシを配達しそびれる週もあり、バックアップ用も溜めておかなくてはならない。
 こういった些細なことがチリも積もって、思いのほかストレスになっていたことに気づいた。
「そうだ、余計なストレスは除去して行こう」
 ビニール袋らしからぬ綺麗な紫色は吊る下げて置いても目に不快感がない。気づかずうちに溜まっていたストレスも無くなった。よし、気に入った。
 
 ところが、だ。
 突然、グローバルサウスの工場では紫の色素が不足したらしく、ある時、購入した紫はまるで紫とは言えない色をしていた。包装を開けた瞬間に、丸まったビニール袋の塊の紫が以前とは違うことに気がついた。何とも拍子抜けでまぬけな色をしている。ビニール袋らしからぬ色が気に入っていたのに、これでは、どこからどう見てもビニール袋だ。これじゃあ、「ビニール袋を吊る下げております」と訴えているようなものだ。急に腹が立ち、いつものように、品質管理係へ持って行って文句を垂れた。
 品質管理係の夫の答えはいつも通りだった。
「紫色素の不足だよ。このバッチだけだよ。またすぐいつもの紫に戻るよ」
 案の定、しばらくするとまた私のお気に入りの紫が戻って来た。
 
 私は段々、確証を得て来た。
 日本の100円ショップでは商品はいつでも同じ商品のままだが、こちらの1ドルショップでは、「同じような感じ」でしかない。段々、工場での確認作業も目に見えてくるような気がした。
 日本行きの責任者が老眼鏡を外し、目を凝らして細部まで凝視した挙句、
「あー、これじゃ、出荷できないよ、やり直し!」と言っている横で、北米行きの太った責任者はドーナツを片手にまるでチェックなどせず、商品のどこも見ていないのに、「はい、OK」と言っている姿まで想像するようになってしまった。
 
 カナダの企業の製品クレーム係だった男性が、こんなことを言っていたのを思い出した。
 その男性は日本からのクレームと日本以外の国からのクレームの違いを話してくれた。
 日本からのクレームの内容は常に社員たちの想像の及ばないことが多く、驚かされるのだと言う。さしたることのない、その他の国では全く問題にもならないようなことが、日本では大問題になってクレームとしてやってくる。話を聞いているだけでも、日本だけが厄介な特殊ケースとして取り扱われているようだった。
 ある時、日本の企業から返品交換の依頼が来た。どうやら製品を収めていた箱に大きなダメージがあったらしいことが分かった。クレーム係が箱の中の製品はどうだったのかと尋ねると、日本側の担当者は箱は開けてはいないと答える。箱の中身に支障がないことを確認もせずに、箱に大きなダメージがあっただけで交換を依頼してくる日本の基準にクレーム担当チームは腰を抜かして呆れたのだと言う。
 他の国では「まぁ、いいか」と受け入れられるくらいのダメージでも日本ではまず返品になる。極め付けがこの段ボールのケースだった。
 せめて、箱の中身が無事かどうかくらい確認しても良さそうなのに、どれほど箱が傷ついていたかを訴えたい日本側は箱を開けることすらしてくれない。ダメージを受けた箱はよっぽどの見てくれだったに違いないが、こればかりは、企業側の努力だけでは到底叶わない。
 カナダから日本の港に荷物が届くまでに、いくつかの輸送運搬会社を経由しなくてはならない。その輸送運搬会社のどれもが、日本の輸送運搬会社のように丁寧には扱わない。日本の港に着くまでに既にダメージはいくつも出来上がっている。それを踏まえた上、企業側も日本行きには一際手厚いパッケージや保護をし、ダメージ防止を強化していたと言う。
 男性は「日本の基準は厳し過ぎる」とボヤいていた。日本だけが厄介で面倒くさい代表株となって、特殊な扱いを受けていることは間違いなさそうだった。
 クレーム担当チームの部屋で、
「あぁ、また日本からのクレームだよ」と、たまたま、日本からのクレームの電話を受けてしまった担当者がチームに文句を垂れている様子が浮かんで来る。
 
 こちらのamazon配達員の商品の扱い方を見ても、飛行機に預けるスーツケースの扱い方ひとつ見ても、日本と日本以外の国では労働者たちの物の扱い方がまるで違う。
 私はかつて、カナダの空港でAir Canada がスーツケースを飛行機から搬出している様子を見て、
「どれだけスーツケースに『取り扱い注意』の赤いステッカーを貼ってもらったところで、これじゃあ壊れるわけだ」
と、彼らの仕事ぶりに呆気にとられたことがあった。
 同じように、日本の空港でANAがスーツケースを飛行機から搬出している様子も偶然、目撃したことがあった。両者は月とスッポン、天と地ほどの差だった。
 飛行機の搬入搬出以外の場所でも同じだ。日本の空港でのスーツケースの取り扱われ方を観察した後で、カナダの空港内でのスーツケースの取り扱われ方を見ると、恐らく多くの人がショックで気絶でもしてしまうのではないかと思うくらいだ。Air Canadaの仕事ぶりを見れば、スーツケース自体も中身も破損する理由が一目瞭然だ。日本では有り得ないほどの投げ飛ばし方だ。引退した砲丸投げ選手たちをこぞって集めているのだろうか。どの選手も素晴らしく豪快な投げっぷりだ。
 
 日本の基準は世界の非常識だ。
 私はこれを悟るまでに非常に長い時間を要し、人生のかなりの時間を文句で費やして来た。悟っても尚、「日本の基準を世界の基準に引きずり下げるなんて」と抵抗し、もがき苦しんで来た。
 「あぁ、また日本からのクレームだよ」と、厄介者を扱わなくてはいけないイヤイヤ口調の担当者と、運悪く厄介者に当たってしまった担当者に憐れみを送る企業のクレーム係チームを想像しながら、改めて思った。
 そうだ、私も面倒くさい厄介な女だった。日本では常識でもこちらでは非常識だ。私は非常識な女だったのだ。それに、私が早く、世界基準に設置し直せば、私自身がもっと楽になる。そうだ、私の基準を世界基準にまで思いっきりずり下げようではないか。
 グローバルサウスの工場労働者たちの声も聞こえてくるようだ。
「えー、これ日本行きかよ。ちゃんとやんなきゃいけないじゃないか、面倒だなぁ」

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