見出し画像

【エッセイ】 懴悔 〜スピリチュアルジャーニー 人生のレッスンはしつこい〜

 私には謝りたい人や謝りたいことが山ほどある。そのひとつひとつを思い返し始めたら、次から次へとエンドレスのように出てくる後悔の数々に、いくつ命があっても死に切れないほどだ。
 特に何か罪を犯したわけでも、肉体的に人を傷つけたわけでもない。軽罰と呼ばれるような犯罪だって、何ひとつ犯したことはない。ただ、後になって思い出す度に、「あぁ、あの時は本当に申し訳ないことをした」と、今すぐ駆けつけて土下座をしたいほど悔やまれる出来事が実にたくさんあるのだ。
 もしかしたら、その相手の人たちはすっかり忘れているかもしれない。私という存在すら、その人たちの長い人生においてはたったひとつの豆粒でしかなく、憶えてすらいないかもしれない。それでも謝りたいという強い気持ちが噴き出てくる。そんな塵たちが積もり積もって、遂にはドでかい真っ黒な影となって頻繁に私を襲ってくる。何せ、その後悔の塵たちは、遡れるだけ記憶を遡り、小学生か幼稚園の頃まで到達するのだ。そんな大昔からほんのここ最近までの長い長い月日を経て蓄積しているのだから、償っている間に死んでしまうだろう。

 私のネガティブ歴は非常に長い。何と言っても、私はハナっから生まれてくることすらイヤイヤで、仏陀のように生きることの苦悩を最初から知っていたようだった。自分の中の大きなネガティブエネルギーに打ち勝つことが私の人生の前半に自分に課した「今生、生まれて来る目的」だった。前世で自ら命を絶ったことに起因するようだった。
 何故そんなことが分かるのかと言えば、それは本格的にセラピーを学び出した頃、自分を癒す為に受けていた数々のセラピーの成果だった。中でも、オステオパシーと呼ばれるセッションを何度か続けて受けた後、意識にの表面に表れてきたことがどうにも腑に落ちた。
 通常、赤ちゃんは母親のお腹を蹴って頭から出て来るのだが、私は生まれたくなくて、ずっと母親のお腹の中にいたくて、いつまで経っても逆子のままだった。挙句の果てに足を引っ張られてこの世に誕生した。「さぁ、生まれるぞ」と自分で決意し、自分のタイミングで母親のお腹を蹴って誕生したのではなかった。「いい加減、覚悟を決めなさい」と天から強制的にスタートさせられたようだった。
 そうやって、「まだ覚悟ができてなかったのに」といつまでもイヤイヤで生きて来たから、心ここに在らず、常に何か失敗をやらかして、「あぁ、こんなはずではなかった」と後悔するネガティブサイクルが出来上がっていた。
 だから、生きれば生きるほど、後悔も懺悔も貯まっていった。そして、その後悔と懺悔の念が貯まるにつれ、自己嫌悪が増し、特に何と言う理由もないのに、いつでも「死にたい」「死んだら楽になるのに」という思いに取り憑かれていた。
 これが、私の今生で解消しなくてはいけない課題だったことに、ようやく気づくまでにはどれだけ月日が経っていたことだろう。果てしない貴重な時間を無駄にして生きて来てしまった。そして、それに気づけばまたすぐに「あぁ、なんて、貴重な時間を無駄にして生きてきたのだろう」と、うっかりネガティブスパイラルの渦に引っ張られ、後悔の念は続いていく。
 「そうだ、これから脱出しなくてはいけないのだ」
 ネガティブスパイラルという渦は、何とも、魅惑的で、誘惑上手で、タバコやアルコールや甘いもののように人々を中毒化することがとても上手らしい。
 しかし、これこそが私が私の人生前半に課した課題なのだ。ネガティブスパイラルの渦に巻き込まれている自分に気づき、そこから脱出することだ。今からでも遅くはない。人生の前半を終える前にぎりぎり間に合ったではないか。自分のカルマの大きなひとつを解消したのだ。素晴らしいことだ。
ところが、だ。そうは思いながらも、やっぱり過去に自分がしでかした失敗や失礼の数々には謝りたい思いが拭えない。

 「そうだ、懺悔をしよう」と思ったきっかけは、お寺で挙げた友人の結婚式に招かれた時だった。寺院での結婚式では、何やら結婚を誓う前に、般若心境や三帰依文などと共に、懴悔文を唱えて始まる。結婚するのにまずは懺悔をするのだ。新しくことを始める前に、まずは懺悔をする。何と良い考えなのだ。「そうだ、懺悔をしよう」私はそう心に誓った。
 謝りたい人に直接会って謝ることは、実はなかなか難しい。謝りたい相手が果たして今どこに住んでいるのかも、連絡先も分からないことが多い。女性なら、結婚して苗字が変わってしまい、益々探せない。謝りたい私ですら相手の名前が思い出せないことも多い。何と言うことだ。それに、万一、謝りたい人と連絡が取れそうであっても、突然、大昔のすっかり忘れていた人から、「あの時のあのことで」などと言われても、「この人は気がちがってしまったのか」と思われておしまいのような気もする。そう思うと、連絡先が分かったところで、なかなか勇気が出ない。
 そこで、私は考えた。「誰々さん、あの時の私の馬鹿な言動をお許しください」「誰々さん、あの時の私の失礼をお許しください」「名前は忘れちゃったけど、あの時のあの方へ、あの時はごめんなさい」などというような後悔と懺悔の念が起こった時には、お寺の結婚式で出会った「懴悔文」を「誰々さん」に当てて、写経し、唱えることにしたのだ。
 もちろん、直接謝れる人にはなるべく直接謝ることにしている。たとえ、「突然、何を言っているのだ」と奇妙に思われても、私の心の曇りを拭うために、多少のびっくりは許してもらおう。これもエゴかもしれない。単に自己満足かもしれない。しかし、私はそうすることにした。
 ある日、突然、母が妹を出産する為に入院していた頃のことを思い出した。幼少の私は父をえらく困らせた。そして、父に申し訳なくてたまらなくなった。父親からしたら、「そんなことよりも、他にもっと謝ることがあるだろう」と思うに違いない。実際、詫びなくてはいけない謝罪が山ほどあるのだが、どうしてもこのくだらない一件を謝りたくて仕方なくなった。母がいない朝が淋しくて淋しくて、私は父が一生懸命作ってくれたホットケーキを「これはホットケーキじゃない」と言い、激しく泣き叫び、出勤前の忙しい父を困らせた。時間のない中、私を母に合わせる為、祖父母宅へ預ける前にわざわざ病院へ私を連れて行ってくれた。
「あの時は、『これはホットケーキじゃない』って言って困らせてごめんね」
幼少期や思春期の私は、実力を発揮して両親の手を焼かせていたため、こんなホットケーキのような一件は、手を焼かせた部類には入らないかもしれない。案の定、両親揃って大笑いしながら、「そんなことよりももっと他に謝ることがあるだろう」といった顔をしていた。しかし、私の気持ちは軽くなった。
 こんな風にして、思い出す度に謝れる人には直接謝り、直接謝れない人には懺悔文を捧げた。
 ところが、私のネガティブも大概しつこい。意識というのは何層にも何層にもなっていて、奥底からあとからあとから湧き上がってくる。一番奥底の層まで綺麗にするまで、何度でもしつこく出てくるものらしい。私も少し工夫を凝らし始めた。
「誰々さん、あの時の私の無神経な言動を許してくださり、本当にありがとうございます」と、懺悔文に付け加える文言を変えてみた。私の心に「私は許されたのだ」と強く刻み込むためだった。そして、更に趣向を凝らし、
「誰々さんに多くの幸せがありますように」と付け加えることにした。こうして、私の懺悔文は完成したが、まだ懺悔文は続いている。きっとこれは一生やり続けることになるだろうと確信している。何故なら、まだ一番奥底の層の掃除までは終わっていないことと、私のおっちょこちょいやケアレスな言動は現役で、今でも続いているからだ。掃除しても掃除しても、汚して歩く。でも、まぁ、良い。多少は汚し方も頻度もマシになったのだし、そもそも、私はまだまだ人間様なのだから。
 私の過去の悔やみ癖は懺悔だけではなかった。お礼を言いそびれた後悔や、あの時のあれに十分お礼ができていなかった、もしくは全くお礼どころじゃなかった、などの「お礼し損ない後悔」をどうするかもまた課題であった。

 ひょんな折、医学博士の高田明和氏が著書の中で「延命十句観音経」を勧めていたことを思い出した。途端に私は、「そうだ、観音経を唱えよう」と心に決めた。その一番の理由は、お経なのに全部で42文字と、世界一短いお経だからだ。 
 その上、観音様はとても寛大で慈悲深く、何でもかんでも願いを聞きれて叶えてくれるのだとその本の中から学んだ。私が懺悔文を続けられるのは、懺悔文は更に短いからだが、懺悔文はお経の中の一部であるのに対し、「延命十句観音経」はそれ自体でひとつのお経なのだそうだ。面倒くさがり屋な私にはこれ以上の長さでは続けられない。般若心経も写経するにはちょうど良い瞑想になるのだが、これだけ頻繁にやってくる私の後悔癖には、般若心経の長さでは対応できない。短く、簡単でなければ、とにかく何事も続かない私には無理だ。
「これはちょうど良い」
 私は思い出す度に感謝の念に尽きない相手や出来事に対し、十分にお礼ができなかったことを悔やむ際、「延命十句観音経」を写経し、唱え、「誰々さん、その節は本当にありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えることにした。そして、懺悔文の時と同じように、「誰々さんが健康で幸せでありますように」と締めくくる。伝えたい相手へ伝えられないもどかしさを惜しみながら、いつか死んで天に帰った時にでも、「あぁ、きっちゃんったら、感謝してくれてたのね」と分かってもらえることを信じながら、私は私の後悔癖と闘うのであった。
 若い頃の私は非常に甘ったれた乞食根性旺盛な、いじきたない娘だった。その見苦しい根性に、今でも思い出す度、赤面する。
 ある時、もうひとつ良い案を思いついた。自分が少し経済的に余裕ができた時、「誰々さんからです」と言いながら寄付をすることだった。「このお金は私からではなく、私が誰だれさんにお返しをする為に使うはずだったお金です。もはや受け取ることのできない誰々さんの代わりに、どうぞ受け取ってください」と心で思いながら、寄付をする案を思いついた。これなら、誰々さんが天へ帰った後も、天から見えるだろうと、この後に及んでも乞食根性を発揮しながら思っている。しかし、これまた良しとしてやろう。私はまだまだ人間様なのだから。
 
 世界一、短いけど何でも叶えてくれるお経と、懺悔のお経。
 
『延命十句観音経』
観世音。南無仏。(かんぜおん。なむぶつ。)
与仏有因。与仏有縁。(よぶつういん。よぶつうえん。)
仏法僧縁。常楽我浄。(ぶっぽうそうえん。じょうらくがじょう。)
朝念観世音。暮念観世音。(ちょうねんかんぜおん。ぼねんかんぜおん)
念念従心起。念念不離心。(ねんねんじゅうしんき。ねんねんふりしん)
 
『懺悔文』
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ
 
 ところで、懺悔という字は小難しくて、いかにも懺悔している感じがしてとても良い。写経の際には、この面倒くさい漢字を書かされていることが、文字通り懴悔になっているような気すらしてくる。
 いけない、いけない。余計なことは考えず、せめて写経をしている間は、心を込めて謝罪と感謝の念に集中せねばならん。
 私のスピリチュアル修行は続く。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?