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「十全の守護」について

コアLv▶︎▷▷▷▷

こんにちわ、福之助福太郎です。
今日は「十全の守護」について書いていきますが、僕の記事を初めて読んで下さる方は、まずこちらをご覧ください。

シリーズ「十全の守護」

「十全の守護」は僕の考え方の重要な要素になってくるので、これからしばらく「十全の守護」についての内容が続く予定ですが、まずはその全体像というか大まかなところと僕なりの解釈を書いていきます。

今回のポイント

親神様が根本
知識よりも感激
十全=完全
方位は重要

留意点

「十全の守護」について考えるにあたり、大切だと思う点をいくつか挙げておきます。

"月日が親神様で、あとなるは道具衆である。" 
"布教の上にこの十柱の理を重要視して説いてきたのでありますが、事実それぞれ独立した御守護であるのではなく、常に親神様の御守護というものがあり、お力があって初めて、こういうような動作が、御守護の理が、創造の時にも現れた如く、我々にも及んでいるということを忘れてはならない。"
(『天理教教典講話』93-94頁 ) 

"こういうみことという方がおられて、御守護を下さるのではなしに、親神様の御守護があって、その守護に応じて、こうしたお名前が後からつけられたのであります。この本末をしっかりと心にお治め願いたいと思います。"
(『天理教教典稿案講習録』145頁 ) 

"御守護の理を詳しく又徹底的に我々の腹に治めなければならないのは勿論であります。そういう心の悟りをつける角目として、その一つの手段として、十の御守護の理を色々と勉強さして頂くということは、決して間違いではなく結構であります。"
(同、151頁)

神名について

「十全の守護」は普段から接する機会が多い教えの一つだと思いますが、かつては「十柱の神名」として用いられる事が多く、それぞれが独立した神様だと誤解されやすかったようです。

十柱の神名と神道との関係についてはいまだによく言われるところで、
・あくまで当時の人に分かりやすいように
・親しみ尊びやすいために
と見聞きしそのように認識していましたが、
AさんとBさんの名前が同じで、性格が同じでなくても不思議には思わないという説明もあり面白い解釈だと思いました。 (『天理教教典講話』82-83頁)

また個人的には、普段の人間関係でも名前とは別に、学校では校長、町では自治会長、家では夫や父親といったように同一の存在でも立場によって呼び方が変わるのと同じように、神さまの働きに応じて呼称を使い分けているのかなとも思います。

働きが重要なので昔ながらの神名を重く捉えない派の方もいると思いますが、個人的には神名はシニフィエ(イメージや概念を表すもの)としてもとても効果的だと感じています。
それぞれの働きに対する共通認識が広がれば"〇〇のみこと"はとても便利だと思います。
また同様の理由から象徴的に動物が配されているのもとても効果的だと思いますし、これについては今後載せていきたいと思います。

説き方の変遷

かつては神さまの働きについて、
「人間身の内では○○は、この神様のかりもの(かしもの)、世界では○○の守護」
と、人間身の内の場合はかりもの(かしもの)、世界の場合には守護と言っていたようです。これについては、体の場合には貸し主と借り主が分かりやすいが、世界の場合には借り主が分からないので守護という言葉を用いたのだろうと説明されています。(同、95頁)

また先人の山澤為次さんは、

"「この神様は世界でこういうような御守護を下さる」というだけではなしに「この神様のかしもの」と言われたところに、言うに言われん信仰の温かさが漲っておることに気付いたのであります。言い換えますと、お互いに自分自身の身の内の御守護を頂いている有難さを忘れて、一般的な説明を人に教えるというような考えで、唯冷やかな一片の説明として説くだけに終っては申しわけないと沁々悟らせて頂いたのであります。"

と言われています。(『天理教教典稿案講習録』148-149頁)

しかし教典を編纂するにあたり、第四章であまりにかりものという事を説くと、続く第七章と重複したりかえって分かりにくくなるかもしれないという理由から現在の説き方になったようです。(『天理教教典講話』96頁、『天理教教典稿案講習録』150頁)

また、かつては別席を運ぶにあたって初試験があり、十柱の神名と守護の説き分けの項目もありましたが、
・丸暗記的であり覚えることが修行になれば無意味
・知識よりもご守護への感激が大切
・独立した十の神様だという誤解が生じやすい
・拝の仕方も理の上からも親神様に帰一している
という点から初試験からは無くなったようです。(『天理教教典講話』96頁、『天理教教典稿案講習録』146頁)

10ではなく十全

神さまの働きを10に分けて説明されているので十という数が注目されがちですが、十全とは万全、完全というのが本来の意味のようです。
つまり十全とは、
10=ALL ではなく
十全=PERFECT で、
 「十全の守護」とは
10の神の働き ではなく
完全なる神の働き
だと言えると思います。

理解と見える化

10に分けて説明された解釈として、車の部品での例えを聞いた事のある人もいると思います。
「車に必要な2万近い部品を、専門家でもない人が理解しているのはそこまで多くなく、使う上ではある程度分かっていれば事足りる。そして車よりも遥かに複雑な人間の体を、働きが理解できる適度な数として10に分けて説明された。」
というもので、これも分かりやすい例えだと思います。

また神さまの働きを目に見えないものだとすると、十全の守護の説き分けは、目に見えない光をプリズムを使い分解すると光の帯(スペクトル)が見えるのと同じように、知覚しがたい神さまの働きの可視化に近い感じがします。

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(余談ですがスペクトルを発見したのはニュートンです)

これに近い話で、
色には赤や白や青といった様々な色があるが、これらの色は独立したものではないし、月日の光がなければ真っ暗で色はない。
という例えも素晴らしい表現だと思います。(『天理教教典稿案講習録』147頁) 

並記VS図式

ここまで述べてきた「十全の守護」ですが、天理教教典を編纂する際の会議において、神名と働きを並立して載せるかそれぞれの方位に当てた図式を載せるかで議論が分かれたそうです。

・ご守護の理合いはかぐらづとめでの配置と同じく、甘露台を中心に方角に相反して考えないと神さまの働きが分かりにくい。

という意見と、

・教典で急にそうすると今までの考えからすると受け取りにくいだろうし、十分説明すれば意味合いは徹底できるだろう。

という意見で、
結果的に、一応、現在目にする横に並んだ表記で載せる事になったようです。(『天理教教典稿案講習録』152-153頁、深谷忠政『たすけ一条・ひろめ一条』124-125頁)
また教典の編纂に際して、全員の賛成がない時は納得のいくまで何日も議論は続き、時には、
お道をやめてしまえ
という声が出るほどだったそうです。(深谷忠政『改訂 天理教教典講義』217-219頁)
ちなみに、どこで読んだのか記憶が定かではなく確認できていませんが、
教義書に図が載っているのはおかしいのでとりあえず横並びで書くが、これについては後々の人に任せよう
という理由で今の形になったというのも読んだ記憶があります。(勘違いならすいません)

ここから「十全の守護」が現在の表記になっている理由が分かり、どちらの意見の人も方位が重要という事は共通の認識だったと言えると思います。

最後に

今回は「十全の守護」について書いてきましたが、これに限らず
・普段信仰する中で疑問に思う事には既に回答されていたり、今の形式になった経緯もしっかりと説明されていたりする
・一つ一つ納得していく事は、信仰に対して当たり前にならずに、教えとの向き合い方を見つめ直す良い機会になる。
と思います。

次回からは「十全の守護」の内容について触れていきたいと思います。
お付き合いいただきありがとうございました。

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