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捕食的ジャーナルに接触した思い出

あるときこういうツイートが流れてきて記事を読んだ。

ここでいうハゲタカジャーナル(predatory journal)というのは、典型的には査読付き論文誌のようであってちゃんとした査読プロセスを経ずに簡単に論文を出版させ、論文の著者から高額の論文掲載料を徴収する的なビジネスモデルのオープンアクセスジャーナルのことである。

「ハゲタカジャーナル」という呼称についてはいろいろ議論があるが、とりあえずここでは英語直訳の「捕食的ジャーナル」という風に読んでおく。

私の身の回りでこの捕食的ジャーナルについて注意喚起がなされるようになったのは、私が博士後期課程のときだった。少なくとも私はその注意喚起が来るまでは捕食的ジャーナルというものの存在は知らなかったのだけど、実はその存在を知る前に私は捕食的ジャーナルに接触したことがある。

こういうツイートをしたら、書いてほしいという反応をそこここから頂いたので、今回はそれを書こうと思う。ただの体験談で、それほど教訓めいた結論があるわけではありません。


ジャーナルに通らなかった修士時代

私が初めて査読付き論文に筆頭著者として論文を通したのは博士後期課程に入ってからだが、投稿自体は何回か既に修士課程(私がいた名古屋大学の国際開発研究科では「博士前期課程」という)時代に行っていた。ただその時は書き方が未熟だったのか運が良くなかったのか(今思うと両方)、そのころは全く査読に通らなかった。ちなみに博士後期課程に入っても、ある国際誌に論文が採択されるまでは国内誌の採択率もあまり芳しくなく、特に英語を対象とした論文が通らず、そんななか日本語を分析対象にした論文が調子よく採択されたため、自分のことを日本語学・日本語教育の人と思っているひともいたらしいという時代もあった。

まだ修士号も持っていない修士課程の学生だったので、これから長い研究人生、それほど論文が通らないことに焦燥感を持っていたわけじゃないけど、なんかこうジャーナルに自分の名前が載る憧れみたいなのもあったし、落ちると結構なフラストレーションなので、早く論文が一本欲しいなーとは思っていた。

あるジャーナルの発見、投稿

そんななか、ジャイアンみたいな学年1こ上の先輩が私のところに一本の論文を持ってきた。

「これ、International Journalって冠してるジャーナルの論文だけど、このレベルだったらお前でも通るんじゃね?www」

もはやなんていう名前のジャーナルかも忘れたけど、その論文を読んだ時の印象としては、確かにそんなに質のいい論文には思えなかった。とんでもない主張をしているダメな論文というより、査読でちょっと細かい突っ込みどころをたくさん許しそうなタイプの論文。確かに、これならもうちょっと防御力高い論文を自分でも書けるかも…。

ということで、ちょうどその先輩と行っていた共同研究があって、学会発表も終わったところなので、試しにこのジャーナルに投稿してみようということになった。論文を1, 2か月で書き上げて、投稿規定に従って投稿した。ちょっと名前のかっこいい紀要論文に投稿するくらいの感覚で、この時点ではなんの違和感も持っていなかった。

ジャーナルからの返答と、その後の対応

査読には2か月かかるということで待っていると、ちょうどきっかり2か月たって返信がきた。さてどんな査読コメントがついたかな?と思ってメールを開いたが、どこにも査読コメントらしいものが見つからない。メール本文をよく読むと、なんとコメントなしの採択ということだった。メールの最後には、出版料の情報と振込先が書いてあった。

先に書いたように、この時は捕食的ジャーナルというスキームは一切知らなかった。なので、「わーい一発採択された!ようやく俺の論文の価値がわかる人が現れたか!」と手放しに喜んだ…とはならなかった。

まあ確かに、当時は査読に落ちたときに「くそう!俺の研究は価値があるのに周りがわかってくれない!」みたいな若い気持ちがなかったかというとうそになる。しかし一方で、自分がas isで採択されるような論文執筆能力があるとも思っていなかった。投稿時には全く違和感を持たなかったが、投稿サイトの杜撰さや2か月ぴったりで返信がきたことなどすべてが怪しく思えてきた。

ジャイアンに相談すると、「あー、止めといたほうがいいかも。普通に身近にある学会誌に投稿しておこう」という返答だったので、ジャーナルには取り下げの連絡を入れた。なんかゴネられて費用を請求されたらどうしようと少し不安だったが、それに対しては何の返信もなかった。

発覚

あーあ、せっかく採択されたと思ったのに取り下げちゃったよ、という気持ちがないでもなかったが、2か月あったら投稿できたジャーナル、他にもあったのに、という気持ちだった。しかもしばらくすると、そのジャーナルに(一方的に)知っている研究者の名前も見つけたりもした。

それから1,2年経ってから、捕食的ジャーナルをリスト化したもの、いわゆるBeall's Listが私の身の回りで話題になった。このリスト自体はこの時代からみても結構昔からあるものだったらしいが、いまGoogle Trendsで調べたところ、特にその時期に一気に捕食的ジャーナルに関連する語の検索が増えたというわけではないようだ(一気に検索が増え、その後もコンスタントに検索される契機になったのは2018年のことだそう。ただ、2015,6年には私のいた大学での注意喚起もなされ始めていた。この話はさらにその1,2年前のこと)。なので、研究領域によって話題になる期間が結構ズレているのかもしれない。

それで、ふとその経験を思い出し、Beall's Listを検索してみたところ、そのジャーナルの名前がしっかりリストに載っていた。うーわマジかよと声が出た。

もし自分が同じ時期に博士後期課程在籍中で、博論の審査を控えて業績が必要な時期だったらどうだっただろう。テニュアトラック期間中だったらどうだっただろう。また当時は少なくとも私の周辺ではオープンアクセスの機運が凄まじい勢いで高まってきていた(なおかつ伝統誌にオープンアクセスオプションがなかった)し、「査読なんて必要ない!本当に重要な論文ならレポジトリに出しておいても注目される」「現在の査読システムはオワコン。出版前でなく出版後にコメントを付けられるようになるのがこれからの時代」みたいな感じの未来予想もささやかれ始めた時代だった(いまでもそんな話はなくはないし、今後そうならないとも限らない。ただ、そういった試みは現状を見ていると当時想像していたほど簡単ではなさそうだ)。この捕食誌リストに掲載されたジャーナルからアクセプト通知を受けた時は漠然とした違和感に従って投稿を取り下げたけども、当時の雰囲気の中で少し考え方が違えばそのまま掲載料を払っていた可能性は十分にあった。その後いろいろなところでの注意喚起で、「こういうジャーナルに加担して名前を載せると研究者としての名誉も落とすことになりますよ!」的な呼びかけもあったので、そういうのを聞くたびに怖くなったものだった。

終わりに

こういう経験もあったので、自分はいまとなっては「あのジャーナルは捕食的ジャーナルだから、あのジャーナルに載せたあの人はダメ」みたいな論調には正直あまり乗れない。何かが少しでも違ったらもしかして自分もそうだったかもなあ、と思うと、「アッハッハッハそうですね」と濁すのもなんだかためらわれる気持ちになる。

もとより、捕食的ジャーナルかそうでないかという線引きは非常に難しいところもあるし、そこに掲載された論文の質はジャーナルの評判と論理的には関係がない。いわゆる「ブランド力の高い」「伝統的な」ジャーナルだけを選んで投稿していたら、リストに載るような捕食的ジャーナルに投稿することはなくなるかもしれないが、とんでもない金額をとってオープンアクセスを提供している伝統的な出版社にも思うことがある(ちなみにそのジャーナルの掲載費用は今の伝統誌のオープンアクセスオプションよりずっと安く、院生の私でもちょっと頑張れば支払える額だった)。私は捕食的ジャーナルというスキーム自体を全く支持はしないが、自分の執筆した論文の投稿先に関してはいろいろな考えもあるだろうと思う。なのでここでは捕食的ジャーナルの是非についてはあまり踏み込まず自分の体験だけを綴ることにした。ということで、とくに教訓めいたまとめもありません。

たむらゆうじゃないから、なにもゆわない。

おしまい。

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