人知れぬ廃病院に潜むペスト菌

オウム真理教によるサリン事件が社会を震撼させた時から、しばらく過ぎたころ、まだ事件の余韻が残っていた頃の出来事です。

私の勤める会社に大手新聞社を定年退職された人(K氏としておきましょうか)が嘱託として勤めていました。お酒の好きな陽気な人で、誰とでも親しく話す、どちらかというとおしゃべり好きな人でした。会社に来るのは週に3回程度でしたが、週に1回、たいがい木曜日は仕事帰りにいつも3、4人で居酒屋へ行くのを日課としていました。私もそのメンバーの1人で、いつもくだらない話を肴にビールを2、3杯飲むのが定例行事となっていました。

いつもなら底抜けに陽気なK氏がその日は何か、浮かぬ顔をしています。

「Kさん、どうしたの。今日はやけに元気がないな」。その日はK氏、私、もう1人の3人でしたが、私以外のもう1人が声を掛けます。

「家に地元の警察署から『ご主人はおられるでしょうか』という電話があったらしい。いったい、何事かと思ったら戦争時代のことについて聞きたいことがあるとのこと。今さら、何かな・・・」

当時はまだ携帯電話など誰も持っていない時代です。地元の警察署からの電話に驚いた奥さんが会社に電話をかけてきて、K氏に事のいきさつを話したようです。

太平洋戦争の真っ只中に学生時代を過ごしたK氏、旧帝国陸軍の幹部候補生に志願、下級将校として3年間ほど戦地にいた経験を持っています。3年間の前半は歩兵として中国戦線でかなり激しい実戦を経験しています。その頃の話は何度か聞いていたのですが、まぁ、いろいろなことがあったようです。

「Kさん、中国で悪いことをしてきたから、戦犯として中国に引き渡されるんじゃないの(笑)」。本来なら笑いながらするような話題ではないのですが、酒の席の話として、ひやかします。「今さら、50年以上も前のこと、そんなことなどあるはずない」、Kさんも笑いながら返してきますが、50年以上も前の話をどうして今になって警察が聞きに来るのか不安なところもあるようです。結局、2日後の土曜日に自宅に警察の担当者が来ることになります。

K氏、中国大陸で歩兵として戦った後、陸軍の船舶部隊に転属となります。陸軍が船?と思われる人もおられるでしょうが、旧帝国陸軍では戦艦のような大型の戦闘用艦艇はないものの、輸送艦を中心に多数の艦船を自らの手で運用しています。K氏も航海術等に関する訓練を受けた後、そのなかの一隻の輸送艦(陸軍ではSB艇と称していた)に少尉として乗務することになりました。その船は1000トン弱というそれなりの大きさがあり、朝鮮半島と九州・中国地方間の輸送業務に従事していました。輸送業務ということもあり、中国大陸での戦闘のように直接、目の前の敵と銃火を交わすことはなく、何とか無事に終戦を迎えるに至りました。ただ、8月15日の終戦以後も武装を外したうえで、大陸・朝鮮半島からの軍や民間人の引き上げ業務に従事し、K氏が生家に戻ったのはその年が明けるころになっていたとのことです。

さて、土曜日の午後、K氏の自宅には3人の警察関係者が来訪します。1人は地元の所轄署の刑事、後の2人は東京の警察庁から来た人間です。所轄署の刑事は単なる道案内役のようなもので、あいさつ、雑談の後はほぼ無言でその場に退屈そうにいるだけ。質問は警察庁の2人がします。
「突然ですが8月15日の終戦直後のことを少し、思い出していただけませんか」、そんな言葉とともにK氏の記憶を呼び起こせようと持参した資料を基に話を進めていきます。いよいよ話は核心に近づいていきます。
「8月〇日、朝鮮半島の〇〇から日本の港にこんな部隊を乗船させませんでしたか」
50数年前のある日の出来事など、覚えている人は少ないでしょうが、その時の記憶はK氏の心に根強く残っていました。
引き揚げ業務で様々な部隊や民間人を乗せたのですが、その時に乗せた部隊はあまりにも異様だったのです。船に様々な荷物を積み込み、そのうえ荷物の前には自分たちの部隊の兵士を見張りにつけ、船の乗務員を一切、寄せ付けないのです。当時から人なつっこい性格のK氏、年齢の近そうなその部隊の将校を見つけて、笑いながら雑談を持ち掛けます。本来なら船に乗せてもらっている手前もあり、お愛想でも話に乗ってくるのが礼儀のはず。しかし、その部隊の将校は全く取り付く島もなく、一言も交わさずその場を立ち去ったとのこと。よほどそん時の態度に腹が立ったのか、いまでも「無礼な奴だった」と吐き捨てるように語っていました。
航海そのものは特に問題もなく、瀬戸内のとある港に入港します。港にはすでに数台のトラックが待機しており、荷物と人員を収容すると、風のようにその場を去っていっったのです。その手際の良さに船の乗務員は大いに驚かされました。また、乗船中、K氏以外にも何人もの乗組員がその部隊の人間と接しているのですが、皆一様にK氏と同じような体験をしており「あいつらはいったい何者なんだ」と話題になりました。それだけに記憶が鮮明に残っていたようです。

まぁ、そんなこともありながらもK氏、昭和21年の初頭には引き上げ業務を終えて生家に帰り、大手新聞社に就職、順調な人生を送ることになります。戦後も定期的に戦友会を開催し、艇長以下将校、下士官、兵士が集まって懇親を持ち続けていました。そんなある年の戦友会でもあの日のあの部隊のことが話題になったのですが、「どうもあれは中国で生物兵器を開発、使用していた例の731部隊だったようだ」とだれからともなくそんな話が出てきました。その時、出席していた艇長も否定することなく、それで参加者も事情がわかったとのこと。「いろいろと秘密にしておかなければならないものだったんだろう」。戦後、二十年以上たってK氏もあの時の出来事が合点ができたのです。

さて、警察庁の人間が詳しく訪ねてくるのは乗船中の彼らの様子、そして日本の港に入港後、彼らはどこへ行ったのか、ということです。「どんな些細なことでもいいから、思い出してほしい」としつこく聞いてきます。K氏もできる限りのことは思い出して、話したのですが、肝心のトラックの行き先については全く何も分かりませんでした。戦後の戦友会でも「彼らは開発中のとんでもない細菌兵器や保有していたペスト菌やコレラ菌をトラックでどこかに持って行ったんだろう」と話題になっていましたが、どうもそれはほんとうだったようです。
日本には持ち込んではいけないもの、存在していけないものを731部隊は終戦直後のどさくさにまぎれて持ち込んでおり、それを戦後半世紀以上たっても(当時)、警察は行方を追い続けているのです。
警察がK氏の家に来る前日、まだ存命であった艇長から「自分のところにも警察が来たが、何分もう高齢で何も覚えていない。当時、将校としては最年少であったK少尉のところに行くようにと伝えたから、よろしく頼む」という旨の電話がありました。警察はK氏だけでなく、輸送艦に乗船していた他の将校にも連絡しており、調査にあたっていたのです。
午後1時から午後3時過ぎまで、警察の担当者はいたのですが、帰り際には「社会に不安を与えるからくれぐれもこの一見は他言しないでほしい」と言って帰っていったのです。
「他言するな」などといえば話したくなるのは世の常、話好きのK氏にとってこれほどの話題はありません。翌週、定例の飲み会で「Kさん、警察は何を聞きに来たの?」と私が聞く間もなく、「実は大変なことがあるぞ~」とこの話を聞かせてくれたのです。

さて、皆さんがこの話を信じるか信じないかはお任せしますが、実はここから後日談があります。
この話を聞いた私もK氏に勝るとも劣らない話好きです。当時、通院していた歯科医院の院長にこの話をしたのです。この院長も歯科医というよりも散髪屋のノリでまぁ、噂話が大好きな人です。治療よりも雑談の時間が長いというなかなかユニークな人です。私が「先生、ここだけの話にしてほしいんですが、実は~」と先の話をしたのです。当然、秘密になどするはずはありません。これを当時、通院していたある患者さんに話したのです。その患者さん、警察OBなのですが、歯科医院で聞いた話を警察OBの集まり(懇親会)で話したのです。それからしばらくたったある日、その歯科医院に警察から電話がありました。「OO本部のOOと言います。先生が聞いた例の話なのですが、外で話さないでください。先生にその話を伝えた患者さん(私)にも話さないように伝えてください。ご協力、お願いします」。どんな経緯かわかりませんが、警察OBから県警本部に話が伝わり、そんな注意というか要請があったというおまけもついています。

人知れないどこかの廃病院の資料室でペスト菌やコレラ菌、正体不明の細菌がよに出る機会をうかがっているかもしれません・・・








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