『ごめんね青春!』第6話をレビューする

■第6話「ヒーローは最後にやってくる!」(2014.11.16OA)

ああ、恥ずかしい!
私はねえ、恥ずかしいですよ!

…あ、いきなり懺悔とかしてすみません。
何が恥ずかしいって、私は前回のレビューで<罪を犯した者にだけ母親が菩薩となって見える>というこのドラマの作劇上の仕掛けを指摘しました。
<自分の罪悪感を咎める存在でありながら、同時にそんな自分を慰めて自己憐憫の気持ちを満たしてくれるのもまた“母性”である>と、偉そうにもっともらしいことも書きました。
そしたら今回、第6話でこんな台詞が出てきたのです。

みゆき「後ろめたさのメタファーだからね。母さんは、後ろメタファーだからね

自分で言っちゃった!
この人、物語における自分の役割を自分で言っちゃったよ!
なんということでしょう(ビフォー&アフターの言い方で)。
本来、批評家やレビュアーが書くことを、先回りして脚本家に言われてしまったのです。
「言わせねえよ!」(我が家の杉山で)と言われてしまったわけです。
そんなん、こちらとしては「悔しいです!」(ザブングルの加藤で)と叫ぶしかないじゃないですか。

しかも、「後ろめたさが消えたら、母ちゃんもいなくなっちゃうの?」と聞く平助(錦戸亮)に、みゆき(森下愛子)は「ずーっといてほしいのかい?」と問い返します。
それに対して、平助はためらいながらも「うん」と答えてしまうのです。

なんということでしょう(12行ぶり2度目)。
またまた前回、<真相が明らかになって罪の意識と青春時代の悔恨から訣別したとき、彼の目に母・みゆきは見えなくなるのではないでしょうか>などとドヤ顔で語っていた自分がクソ恥ずかしいです。
クドカンは「そーゆーこと言うと思ってたよ」とばかりに、みゆきと平助のシンプルな会話によって、私が言わんとしていたその先のことまで、あっさりと見事に表現してしまったのです。

すなわち、自責や自罰、自戒の念は、この上なく甘美な自慰と同じであるということ。
「許されたい」という罪悪感の苦しさは、「許されないから自分は前に進めないのだ」という言い訳を自分に許す、責任逃れの甘えにもなるということ。
そして、母親はときに、子供に罪悪感を植え付けてはそれを責め、しかし「負い目を感じている限り私はあなたを見放さないでいてあげるよ」という脅しを“愛”にすり替えて、子供を支配しがちだということ、です。

「後ろメタファー」として菩薩の姿で現れる母・みゆきと平助との関係は、毒親と子供の支配関係そのものであり、また、ダメ男とメンヘラ女の共依存関係そのものでもあります。
男が「ダメな俺でごめんね」という負い目を感じている限りにおいて、女性(=母親)はずっと自分を責めたりなだめたりして、構ってくれる。愛されていると錯覚することができる。
自分と相手を繋ぎ止めてくれる罪悪感がなくなったら困るから、「ずーっといてほしい」のです。

* * * * * * * * * *

そんなこんなも含めて、ここにきて『ごめんね青春!』というドラマが、懺悔と許しの物語だという輪郭がはっきりしてきたように思います。

ライターの木俣冬氏によるエキサイトレビューの記事(http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20141116/E1416101998204.html)が指摘しているように、このドラマには、それぞれの罪の意識に苦しむ登場人物の「許されたい」という願いを受け止めてくれる場所が、そこかしこに描かれます。

三女には、吉井校長(斉藤由貴)が告解室で生徒の悩みを聞き入れる、“ゆるしの秘跡”と呼ばれる伝統的なカトリックの“懺悔の儀式”が描かれますし、みしまFMの番組「ごめんね青春!」は、リスナーからの“ごめんね”をパーソナリティーのカバさん(生瀬勝久)が聞いてくれる、俗世における“現代版・懺悔の儀式”です。
平助にとって母・みゆきと話す時間は、いわば自分の心の中にある菩薩=良心と対話するための“懺悔の儀式”とも言えます。

同様のことは、編集者の前田隆弘氏のツイートでも指摘されています。
https://twitter.com/maesan/status/534255507154808832
https://twitter.com/maesan/status/534256809783996417
https://twitter.com/maesan/status/534257884666683393

興味深いのは、伝統的なカトリック(ハイカルチャーとしての宗教)の告解室で行われる懺悔よりも、地元のFM局の番組(サブカルチャーとしてのラジオ)で行われている懺悔のほうが、市民から支持され、ドラマ上でも重視されているということ。
第6話では、とうとう告解室で懺悔を聞き入れる立場であったはずの吉井校長が、カバさんに電話をして「ごめんね」を聞いてもらう立場に回ります

現代を生きる私たちは、もはや狭い部屋で神にだけ罪を告白するのでは、満たされない。
「三島でしか流れてませんから。電波、弱いですから」とカバさんは自嘲しますが、まがりなりにも不特定多数の人に届く公共の電波を通して、できるだけ多くの人に自分の悩みや苦しみを吐き出し、受け入れ、許してほしいのです。
それは、2ちゃんねるやTwitterといったインターネット空間が、現実では言えない、言うべきでない本音や悪意、煩悩を垂れ流し、押し付ける場所になっている状況と、どこか似ているような気がします。
どこまでもわかられたい、許されたいという底なしの承認欲求に駆られた私たちにとって、罪悪感は、むしろ救いであり、快感なのです。

しかし、カバさんは、電話で一方的に悩みをまくしたてるリスナーに、いつも「一方的にしゃべらないで!」と怒ります。
つまりそれは、「自分の罪悪感ばっかり吐き出して、自分だけ気持ち良くならないで!」ということです。
懺悔には、告白をする相手がいる。その相手は、実際には神や仏ではない、生身の人間です。
自分の心と対話して、勝手に許された気になるのではなく、生身の相手ときちんと対話をして許されようと、カバさんは諭しているのです。

実はこれ、きわめて仏教的な態度でもあるんです。
そもそも“懺悔”とは仏教用語であり(仏教では“さんげ”と読む)、その名も“懺悔文(さんげもん)”と呼ばれる経典には、人間の悪い行いの原因となる3つの煩悩=“貪(むさぼり)・瞋(怒り)・痴(愚かさ)”が定められています。
しかし、仏教では欲望や煩悩の存在自体を否定はしません
煩悩即菩提(煩悩があるから人は悟りに気付ける)”という言葉すらあるように、煩悩に負けて悪い行いをしたとき、悔いるだけでなく、それをいかに改めるかのほうが大事だと説くのです。

現実ではお経すらろくに覚えておらず、相手の出方によって言うことをころころ変える日和見主義の三宮校長が、ラジオの中で“カバさん”になったときだけ、敬虔な仏教の実践者になれる、というのはおもしろいですね。
この辺り、深夜ラジオこそがサブカル世代にとっての“法話”なのだというクドカンのラジオ愛を感じることができます。

* * * * * * * * * *

さて、“懺悔と許し”という観点では、どんまい先生こと淡島(坂井真紀)との不倫にはまってしまった一平(えなりかずき)と、14年前の礼拝堂の失火の犯人であることを言い出せない平助、2つの大きな罪がいかに懺悔され、許されていくのかが大きな見どころですが、物語では他にも大きな動きがありました。
…ですが、今回はそれらについては割愛させてください。

というのも、この『ごめんね青春!』の全話レビュー、当初はジェンダー論/ジェンダー闘争的な主題を軸にして全話突っ走れるかと思ったのですが、回を追うごとに徐々にそういった側面が前景化されなくなり、ひょっとしてこのまま“男と女は手を取り合えばわかりあえる”的な牧歌的な方向性に収束してしまうのかな…? という危惧がややあるからです。

このドラマについて、知人の渋澤怜氏(@RayShibusawa)と話していて、なるほどと思った感想があります。
彼女いわく、「変質者を自分たちだけで撃退しうるような“強さ”こそが三女生たちの魅力だったのに、共学化することで、男子に遠慮してその“強さ”を隠したり、男子に委ねてしまうようになるのはつまらない。彼女たちには、そこにもっと葛藤してほしい」というのです。

つまり、三女生たちがせっかくもともと持っていた“男性性”を、共学化のせいで自粛してしまうようになるのは残念だ。それは結局、強いられてきたジェンダー規範を受け入れるという“後退”の姿勢ではないのか、というわけです。

私の目には、東高生と三女生がすでに十分ジェンダー規範を乗り越えて“対等”であるように見えていたので、これは私には気が付かなかった視点でした。この辺りは、クドカンが男性作家であるがゆえに、どうしても“男性視点からの変化と戸惑い”に偏りがちであるせいもあるのだろうとは思います。

とはいえ、異性愛が当たり前という自分のセクシュアリティに疑問を抱き、「(自分がゲイかは)わからない! でも、その可能性に賭けてみようと思う!」とゲイの村井(小関裕太)と付き合うことに決めた半田(鈴木貴之)の実直な姿勢や、デブキャラをあてがわれていた遠藤(富山えり子)が、頭のよさや切り返しの速さといった部分を魅力として昭島(白洲 迅)に惚れ込まれ、恋の対象として選ばれるなど、これまでドラマであまり描かれなかった恋愛模様が“普通にあり得る”こととして描かれる展開には、やはり新しさを感じます。

『ごめんね青春!』が提示する、男と女、聖と俗、仏教とキリスト教、あらゆる対立してきた価値観を、ごちゃ混ぜにして相対化してしまおうという試みは、“なんでもメタ的に上から目線で茶化す卑怯な態度”と昨今なにかと叩かれがちな“サブカル的な姿勢”について、「いや、まだサブカルにもできることはあるから!」という、サブカル側からの必死の提言であるようにも見えるのです。

ドラマは全10話のうち第6話、やっと折り返したところです。この先の展開、まだまだ期待して注視していきたいと思います。


■第6話その他の見どころ

・みしまケーブルTVで「箱根まで駅伝」の中継番組の司会をしているのは、芸人の末吉くん。「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」での平泉成のモノマネが有名です。また、中継先の三嶋大社でレポーターをしている水木ゆうなは、ラジオパーソナリティやナレーターとしても活動している静岡県出身の実在の女優。いわば本人役での出演です。

・大木(竜星 涼)が神保と入ったビデオ屋で手に取る映画『キスだけじゃイヤ』『キス・ミー・ボーイズ』はどちらも実在しないタイトルですが、『キス我慢』は、テレ東のバラエティ番組『ゴッドタン』の名物企画から生まれた『キス我慢選手権THE MOVIE』のこと。テレ東の佐久間プロデューサーにも事前に連絡があったようです。
https://twitter.com/nobrock/status/533955831998316545

・三択クイズは、①正解 ②引っかけ ③絶対ないやつという3つの要素で成り立っているという昭島。しかし、たまに絶対ないと思ってた選択肢が正解であることもあり、遠藤はそれなのだと言います。クイズ王らしい分析ですが、“引っかけ”と言われてしまった神保は浮かばれません。

・出走前に音楽を聴いて集中している遠藤が「話しかけないで、集中してる」と言ったことに対してりさ(満島ひかり)が「真央ちゃん気取りか?」とツッコミ。たすきを渡す前には、Qちゃん気取りでサングラスを投げ捨てる場面も。

・一平はこの日、黄色いポロシャツに青いウエストポーチといういでたちで“箱根まで駅伝”の会場に出現。奇しくもみしまるくんと同じカラーコーディネートで来てしまったことが、その後の取り違えの悲劇を生みました。

・一平と淡島の逢い引き場面という「高校生男子の知識と経験では、とても処理できない映像」を見せられた成田(船崎 良)は、その精神的ショックも祟って駅伝を途中リタイア。前回、保健室での壁ドンを目撃したのも成田だったことが、今回やっと伏線となって利いたわけです。

・りさが「勝ちよりも、負けのほうが、青春!」と意訳した「Sometimes, the best gain is to lose.(時として、負けることが一番の収穫)」は、70年代の男子テニス界最強の選手とうたわれたジミー・コナーズの言葉。ダブルハンドのバックハンドから繰り出される強打と、コート奥から送られる正確なグラウンドストロークを武器に長らくトップに君臨しました。

・カバさんの番組の中で読み上げられたラジオネーム“もうこはん”というのには、実は元ネタがあります。脚本のクドカンがパーソナリティーを務める実際のラジオ番組『宮藤官九郎のオールナイトニッポンGOLD』(ニッポン放送、毎週火曜22:00)の中で、“カリスマリスナー”としてたびたびメールを投稿してくるどんまい先生役の坂井真紀のラジオネームが、“もうこはん”なのです。ラジオリスナーだけがわかる小ネタというわけです。

・めちゃくちゃ頼りない根拠で、りさは平助に惚れている、と太鼓判を押してしまうサトシ(永山絢斗)。14年前の祐子(波瑠)のときと同じ過ちを犯そうとして、平助から「お前にまだやさしさ残ってるなら、俺のこと放っといて」と言われてしまいます。サトシは、薄っぺらな善意が無自覚に人を傷つけてしまう見本のような人物。この先、まだとんでもないことをしでかしそう(もしくは過去の真相を握っている)な予感がするのは気のせいでしょうか。

・3週間後に転校という理不尽な事情を突きつけられた中井(黒島結菜)。その焦りと持ち前の責任感の強さから、文化祭準備の負担を一人で背負い込もうとしてしまいます。「帰りたい人は帰れば。嫌々だったら手伝わなくていい!」とキレる彼女は、ブラック企業に就職したら感情労働の罠に陥ってしまうタイプなのでは…と心配になります。

・ふと気付いたのですが、東高は、偏差値の高い進学校の西高と常に比較されてきたせいで、“俺たちはどうせ東高”という卑屈な自意識を植え付けられたことになっています。つまり、東高は男の中でも”非モテ・非リア”側の象徴なんですよね。女子の側にはそんな葛藤は描かれないのに、男子だけがモテ格差=自尊感情の格差で分断されることになっている、というのはおもしろいなと思いました。


■第6話の名台詞

りさ「あんなおもしろい負け方したから、興奮したし、記憶にも残るし、それが青春なんじゃないかな?

普通に勝っていたら、あんなに盛り上がらなかったし、興奮もできなかったとして、子供時代に理不尽を味わうことの意義を「勝ちよりも、負けのほうが、青春!」という言葉で表したりさの台詞。

その他の名言候補
・みゆき「お前を人形焼きにしてやろうか!」
・りさ「真央ちゃん気取りか?」
・一平「大胆にもなるさ、君は僕だけのマドンナだからね」
みゆき「それは、高校生男子の知識と経験では、とても処理できない映像でした」
・みゆき「後ろめたさのメタファーだからね。母さんは、後ろメタファーだからね」
・平助「だからそんな田中義剛みたいなファッションなんだ」

■この記事は投げ銭制です。これより先、記事の続きはありません■

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