「女性を性的に扱うこと」を巡る議論はなぜいつも平行線になってしまうのか

おっぱい募金にしろ、のうりんポスターにしろ、「女性を性的に扱うコンテンツ」に関する議論が噛み合わずいつも平行線になってしまうのは、「今この国で性的な表象(特に女性の)をどう扱うか」という問題の難しさ、その本質を浮き彫りにしているなあと思う。

というのも、まず大前提として「女性の体を客体として消費すること(A)」それ自体は、本来ならいいことでも悪いことでもないニュートラルな事象にすぎないと俺は思うのです。特に、その体の持ち主である本人の主体性と自己決定に基づいていれば、誰が文句を言う筋合いもない。

別にこれは女性に限らず、男体も女体も、どんなジェンダーであっても、本来は「これエロいなー」「これ萌えるよねー」と、お互い自由に消費し合っていいはずなのです(もちろん、実際に搾取や侵害といった被害の及ばない限りにおいて。ここでは「消費」と「搾取」は区別するという立場に立ちます)。

ただ問題は、現在の日本で「男女に不均衡があり、Aがあまりにも当たり前のこととして世間に溢れている(B)」せいで、恐怖や脅威、嫌悪を感じている女性が多い(中には直接的・具体的な侵害や搾取の被害を被っている人も少なくない)ということ。

つまり、この「ひとつひとつの個別のAそのものに悪の原因や非の責任があるわけではないが、その総体として形成されているBという空気が女性を脅威にさらしている」という状態が、議論を非常に複雑でわかりあえないものにしていると思う。

俗に「フェミ」と括られる人たちが性的コンテンツを問題にするとき、決して「A自体をなくせ」と主張しているわけではなく、「Aが当たり前に蔓延することでBの空気に加担していることを自覚し、配慮してほしい」という意味で批判している場合が多いと思う。でも、そもそもBの空気を問題だと認識できない人たちには、「Aが悪だというのか」「Aをやめろというのか」と短絡的に受け取られてしまう(だから「フェミは性嫌悪なだけだ」などと言われる)。

実際、Bの責任を個別のAにつきつけてAをなくすのは無理筋なのも事実だとは思う(おにぎりマネージャーを賛美する風潮は批判できるが、マネージャーになることを選んだ彼女本人の意志は批判できない、というのと似ている)。だけど、それだといつまでもたってもBという状況は改善されない。

とはいえ、Aがどうなれば「Bがなくなった(男女の不均衡が解消された)」と言えるのかは、まさに「空気」「感覚」の問題なので判断が難しいんですよね。あえて雑な言い方をすれば、「これまで傷付いてきた女性の受け止め方が変わるまで」としか言いようがなくなってしまう。

ひょっとして、男性社会に加担している側の人(あるいはアンチフェミ)にとっては、男女の不均衡が完全に逆転でもしない限り、際限なく彼女たちの溜飲は下がらないのでは?という疑念・懸念があり、それがBの問題を彼らに受け入れにくくさせている本音の理由なのではないかという気もしています。

ゾーニングで隠れてさえいればいいのか。申し訳なさそうな態度をとれば許されるのか。Aそのものがよくないのか(それを誰が判断していいのか)。私たちはマジョリティによる抑圧は悪だと思っているが、ある欲望や消費のあり方が適切か不適切かのジャッジもまた、それによって傷付いたという人の数の多さや声の大きさ(すなわちマジョリティかどうか)で決まってしまうのではないか。決めてしまっていいのか。

結局、個別のAが適切か否かについては、安易な白黒はつけられず、すべてはグレーであることを受け入れた上で、そのつど検証するしかないわけですが、それだけでは一向にBという状況が変わらないという問題を、誰がどう変えていけばいいのか。どうにか建設的で包摂的な議論が進まないものかと思います。

(それとは別の論点として、性産業などにおける女性の主体性や自己決定がどれだけ守られているのかという議論もあると思うのですが、俺はこれ、もはや女性とか性産業とかに限らず、人間の主体性や自己決定なんてものがどこまでアテになるのかって問題に踏み込んでしまう気がして口を出せないでいます。特に恋愛やセックスに関しては、たとえば子どもや知的障害者は性的自己決定権を正しく使えないので、なんらかのパターナリスティックな線引きで保護しなきゃいけないというのにはもちろん賛成なのですが、じゃあ定型発達の成人どうしであっても、性的自己決定権が正しく使える状態の人としか恋愛・セックスしちゃいけませんとなった場合、現状かなりの人がアウトになるんじゃないかと思うんですよね。そしてそれは、男女の不均衡や権力勾配の問題以前に、なにか人間という生き物の脆弱性のような気がしてしまうのです)

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