世間で言うところの『恋愛感情』とは、そもそもきもい欲望のことなのではないかという疑惑。

先日、こんなツイートをしました。

ここで私が言いたいのは、少なくとも現代に生きている以上、ほとんどすべての人は男女問わずそういう欲望(=相手のコンプレックスを使って自分の欲望を満たそうとする)を持ってしまっていて、その欲望を原動力にしないと恋愛が成り立っていかないのが現状ではないかということです。

なぜなら、男女問わず、

このように私は考えているからです。

より正確に表現するなら、今、世間一般的に「恋愛感情」とされているものの正体は、そのほとんどが「早い時期に植え付けられた自分の欲望やコンプレックスを、相手に投影することで自己愛・自己承認欲求を補完・充足しようとする、性欲をともなった感情」ではないかということです。

この「植え付けられた欲望やコンプレックス」のことを、二村ヒトシさんは「心の穴」という言葉で表現していますし、相手を利用して「自己愛・自己承認欲求を補完・充足しようとする」ことを指して、峰なゆかさんは「男の8割は私が言うところのロリコン」と表現したのだと思います(ただし、俺の定義で言うと、男女問わずそもそも「恋愛感情の8割はロリコン」です)。

もちろん、本来なら「恋愛感情」と「相手を対等な人格として尊重する親愛の情」とが、イコールで一致するのが理想だと思います。そういう交際や結婚を実現している人もたくさん存在するでしょう。

ただ、たいがいにおいて「恋愛感情」は「性的な欲望」と結びついていて切り離せなくて、そして「性的な欲望」というのは、ほとんどの場合、本人の意思とは無関係に小さい頃の環境によってすでに植え付けられてしまっていて、簡単には変えられない(もしくは、どっぷり浸かっているので変えようとも思わない/変えられることに気付いていない)ものなんですよね。
それは得てして、不公正だったり、不健全だったり、男女非対称だったり、非道徳的だったりするものです。

こう書いたのは、「どんな欲望であっても、欲望を持つこと自体はしょうがない」ということを前提として肯定しておきたいからです。
たとえば、ある女性がジェンダー的に公正でありたいと思うフェミニストであることと、その人が男性から支配的に乱暴に扱われないと性的に興奮できないという欲望の持ち主であることは、矛盾しません。
それは、同じ欲望を共有できる相手と満たしあっている分には、なにも問題ない。

ただ、「欲望を持つこと」自体と、「それを公然と表明していいかどうか」は、本音と建前のように当然住み分けされるべきだというだけです。

昨今、マッチョイズムや男尊女卑的な男性の言動が、ネットですぐに叩かれてしまうのは、男がこれまで、秘めておくべきいやしい欲望(本音)を、公正さが求められる場面や社会的行為(建前)に、平気で持ち込むことを許されてきたからでしょう。

この男女非対称の状況を乗り越えるためには、今のところ

(A)男が公然と欲望を漏らしていい風潮を自重させる(女性と同程度に抑圧させる)
(B)女もそういう欲望を表明して当然だと認めさせる(男性と同程度に野放しにする)
(C)現行の恋愛とは、個人の歪んだ性欲やコンプレックスがあらかじめ投影されているものであると割り切り、恋愛至上主義に陥らないようにする
(D)恋愛から性欲とコンプレックスを切り離し、新しく再定義・再構築する(その施行は次世代の教育に託す)

これくらいしか方法はない気がするんですけど、今は(A)と(B)ばかりが目立っていて、意地の張り合いみたいになっちゃっている気がします。

この社会がどんなに男に有利で、男に権利があって、男の都合で動いていて、男が好き勝手しているように見えても、その抑圧がもたらす苦しみは、男にも女にも等しく降り注いでいると俺は考えています。
「恋愛」を「相手を自分のものにすること」だと錯覚している人は、男女問わずたくさんいるし、「相手を自分のものにする」ために、「相手を支配する」「相手を自分に依存させる」「自分のことを脅かさない存在として相手を見下す」という手段しかとれない人も、男女問わずたくさんいます。

男女の抑圧に圧倒的な非対称性があるのは事実ですが、少なくとも「恋愛」という点において、男だけが一方的に女を欲望とコンプレックスのはけ口にしているとは、俺にはどうしても思えないんですよ。

まあ、さらに言ってしまえば、本当は男も女も「本音」と「建前」を完全に切り離して何かを考えることなんてできないのでは、とも思っていて。

だからこそ、欲望についてどこまでが本音でどこからが建前なのか、どこまでが指向でどこからが嗜好なのか、どこまで配慮してどこから切り捨てていいのか、という線引きをはっきりさせるのは難しい。

最終的にはこのような視点に立って、恋愛というものに対して(C)や(D)のような考え方をとっていくしかないんじゃないかな、とも思っています。

「相手を対等な人格として尊重する親愛の情」をパートナーシップのベースにしたいと考えたときに、それはやがて、性欲やその他のコンプレックスのはけ口を我々はどこに求めるべきなのか(セフレ肯定論や婚外恋愛、恋愛のブラック企業化、ロマンティックラブの無理ゲー化)という問いかけにもつながっていくわけですが、それはまた別の話。

まだまだ、思索の途中です。

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