男はなぜ『アナと雪の女王』を見てもやもやしたのか

※このコラムは、『アナと雪の女王』の結末まで含むネタバレに言及しています。未見の方はあらかじめご了承ください。

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『アナと雪の女王』は、表層の物語の下に、「ジェンダー的抑圧」という裏コードが走っていることに気付けるかどうかで、作品のおもしろさや革新性ががらっと変わる映画です。

(1)女性は成長するにつれて「理想の娘」というジェンダーロールを押し付けられて、本来の個性や感情を抑圧される。

(2)彼との恋愛によって女性の人生をすべて引き受けて救ってくれるような「運命の王子様」なんていないし、必要もない。

この映画は、どう贔屓目に見てもこの2つが主なテーマとなっています。

特に後者については、クライマックスで決死の覚悟で駆け寄るクリストフを、アナが目の前で思いっきりスルーし、姉エルサへの「真実の愛」に目覚めることで氷の魔法が解けるという、(クリストフにとっては)かなり肩すかし的な展開となるインパクトが大きかった。
ディズニーが、従来の異性愛規範やロマンティックラブ・イデオロギーに対する痛烈な皮肉/否定/自己批判を、ずいぶん意図的に盛り込んできたな、という印象です。

途中からヒールに転向するハンス王子だけならまだしも、「スペックは低い三枚目だけど誠実でいいヤツ」的ポジションとして描かれていたクリストフまでもが、アナの「真実の愛」の相手に選んでもらえないというのは、まるで「男なんていらない」と言われているような気がしてショッキングだった、というのが初見時の私の正直な感想でした。

とはいえ、よくよく物語を最後まで追えば、クリストフはアナにキスしてもらってこの先の恋愛の可能性を予感させつつ、王族公認の氷商人となって「氷屋は氷屋のままでOK」という承認を得るわけで、「男だって王子様にならなきゃいけないという抑圧から解放されていいんだよ」というフォローをきちんと感じます。

それに、女王エルサが背負わされてきた呪縛や抑圧と、その放棄(Let it go)は、なにも女性だけのものではなく、男性も共感しうるものでしょう。

しかし、それを差し引いても、『アナ雪』に関しては、制作者にもかなり意識的にはっきりと「女性の」側の解放を描く意図があったように思います。

悪役として描かれたハンス王子だって、「地位や権力を手にして王位を継げなければ自己承認できない」という「男の抑圧」のいわば被害者です。
そんな彼に手をさしのべ、抑圧から救い出す展開もあってよかったかもしれませんが、そこは物語をわかりやすくシンプルにするために、あえてペンディングにして切り捨てたのでしょう。

まず女性を先に解放させたという意味で、この映画は過渡期的な作品であり、これまでも先進的な自己批判を繰り出してきたディズニーのことだから、次は男女共闘して同じ抑圧と戦う作品をいずれ送り出してくれるのではないかと期待しています。

この映画に関しては、ラジオで伊集院光が「毒にも薬にもならない作品」と言ったとか、太田光が「ブスがありのままでいいわけないだろ」と茶化したとかで、フェミニスト陣営からぼろくそに叩かれるという事案が発生したわけですが、彼らが自覚的だったにしろ無自覚的だったにしろ、『アナ雪』という作品が男性の心情にある種の「置いてきぼり」感のようなものを感じさせ、それが批判的な感想につながった可能性は十分にありそうです。
(とはいえ、これに関して個人的には、伊集院氏や太田氏の発言を批判するつもりはないです。というのも、深夜ラジオやロフトのイベントみたいに、何かを「こっそり」自由に言える場所は守られるべきで、でもその「こっそり」が利かなくなってる=不用意な文字起こしや無粋なチクリによって可視化され批判の題材にされてしまうことのほうが問題だと私は思ってるので)

また、Twitterで見かけた感想の中で印象に残っているのは、エルサは結局、山に氷の牙城を建てて一人で閉じこもっていたときが、一番自分の能力を解放できていたんじゃないか…というもの。
妹たちと和解して城に戻ってからのエルサは、国民のためにスケート場を作ってあげる程度のぬるい能力しか発揮できなくなってしまった。本来は、あんなにすごい氷の城を建てる力があるのに。
最終的に、社会の規範や抑圧の中に押し込められることを受け入れたエルサは、本当に幸せなのだろうか…? という指摘です。

これに関しては、劇中でもっとも痛快な解放感をもたらす「Let it go」の歌が、実は物語の中では「中盤の山場」という通過点に過ぎない…ということがポイントではないでしょうか。
社会の中でしか生きられない以上、私たちは思いのままに個性を野放しにしていることは許されず、必ずそこには規範や制約や抑圧という鎖が存在します。
それを不自由な鎖ととらえるのではなく、最大多数の最大幸福を保つための命綱として受け入れなきゃいけないよ(そしてその根拠が「真実の愛」という感情労働っぽい無償の思いやりに委ねられているところがちょっとブラック企業っぽくはあるけれど)…というのが、現時点でのディズニーが提示できる回答の限界だったのかなという気がします。

たとえ「ジェンダー的抑圧」からは解放されても、『アナ雪』では結局、「真実の愛」は肉親とのきょうだい愛の中にあったよ、と言っている(厳密には肉親に限らない「他者への献身の気持ち」なんでしょうけど、間接的にきょうだい愛を肯定している)わけで、そこには「毒親を愛せない私は不幸なの?」といった、また別の抑圧や息苦しさを感じる人も出てきちゃうでしょう。
でも、それ言ったら何も言えないしなあ……。

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