「好きだ」と思う感情そのものには、相手にとって何の価値もないんじゃないの?

とある女性に、こんなことを言ったことがあります。

「サプライズのプレゼントは正直めんどくさい。特に服やアクセサリーの好みやセンスについて、男は本当に無知で判別がつかないから、きっと的外れなものを選んでしまうし、女性だってもらって嬉しくないものを受け取る羽目になる。だったら、最初からこれが欲しいと指定してもらうか、一緒にお店に行って選んで買うほうがお互い幸せじゃない?」

それに対して、その女性は「別にこれっていう特定のアイテムが欲しいんじゃなくて、“私のために一生懸命考えて選んでくれた”というプロセスや、“私のこと、こんなにわかってくれてたんだ”という喜びが欲しいからサプライズをねだるんだよ」と言いました。

「だから、その試されてる感じがプレッシャーなんだよな〜。“好きな人からもらったものなら何でも嬉しい”とは言うけどさ、どうしても気に入らなかったら、やっぱり身に付けなくなっちゃうでしょ? せっかくそれなりのお金を出して買うんだから、確実に気に入って身に付けてもらえるものをあげられなかったら、もったいないじゃん」

すると、その子は半ばあきれたように「これ教えちゃったら意味ないんだけど、ちなみに元カレはこうしてくれていたよ」と言ってある方法を教えてくれたので、私はこんなツイートをしました。

なるほどな〜! と感心すると同時に、それって結局、うまい手口を知っているかどうかじゃん! ずるい! とも思っちゃったんですよね。

私のように、長いこと「非モテの檻」に閉じこもっていた者にとっては、「ドアを開けて私の部屋に入ってきて!」と言われても、「合鍵が作れないから入れないよ〜!」ってなってしまって、ピッキングでもサムターン回しでもいいから開ければいい、という手口に思い至れないんですよ。

で、ものすごく大人げない屁理屈を言わせてもらうと、「ドアの向こうの君に会いたい」という思いの強さと、「ピッキングという手口を知っているか/調べて実行に移せるか」というスキルは別のもので、実はあんまり関係がないよね、ってことを私は思い知ったのです。

相手の好みをさりげなくリサーチしてぴったりのものをプレゼントできる男と、自分のひとりよがりの感覚で(たとえばティファニーのオープンハートとかを)プレゼントしちゃう男。
そりゃあ前者のほうがスマートで素敵でモテるだろうなっていうのはわかるけど、それは相手を喜ばせるための「知恵」と「技術」に優れていただけのことで、「愛」や「誠実さ」の証明にはならないわけで。
ひょっとしたら、単に遊び慣れていて女の扱い(「扱い」という言い方がよくなければ、「より多くの女性を喜ばせやすいパターン」と言い換えます)をよくわかっていただけかもしれないわけです。

『永遠のゼロ』を見て号泣できる人もいれば、親が死んでも涙をこらえて見せない人もいるように、涙の量は、悲しみの質や重さを意味しない。
それと同じで、相手を喜ばせるための「手口」の巧みさは、相手への「思い」の強さや「好き」の度合いとは、本来なんら関係がない別のものなんですよね。

だからといって私は、「不器用でも純粋なんだから、非モテの愛情表現はありがたく受け取れよ」と言いたいのでは、決してありません。
逆に、人の心の中にある「好き」という気持ちや思いの強さは、たとえ純粋だろうがうまく相手に(しかも相手の望むような形で)伝わらなければ何の意味もないのだ、ということを言いたいのです。

むしろ、人の気持ちなんて所詮その程度のものであって、「知恵」や「技術」にあっさり負けることもある。
それを、「思いはきっと伝わる」とか言って、「好き」という感情や欲望を、過剰に崇高で価値のある「伝わる/伝えるべきもの」なんて思っているから、人はストーカーやDVに走ったり、「女は打算的で怖え〜」「どうせ女はチャラい男のほうが好き」などといったミソジニーをこじらせたりする男が生まれてしまうんじゃないかとすら思ったのでした。

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