人をキャラや属性といったネタとして消費することについて(1)

Twitterのある方のツイートで、「著名人の名前をツイートするとき、本当はさん付けしたくないんだけど、本人がエゴサーチする人だった場合を考えると、呼び捨てされて腹を立てないだろうか不安だ」といったようなことをおっしゃっているのを見かけて、その気持ち、すっごいわかるなあ…と思ったんですよ。

というのも、論文や批評などの原稿であれば、著名人に言及するときは敬称を付けないのが原則だし常識だと思うのですが(逆に、さん付けすると知り合い気取りですり寄ってるみたいでダサいという感覚すらある)、Twitterの場合、本人がエゴサーチすればそれは「本人に話しかけている状態」と変わらないわけです。内容によっては、それが単なる感想であっても不躾な印象を与えてしまいますよね。

面識のある人なら、悩むことなく敬称を付ければいいのですが、「面識はないけど知人の知人」くらいの距離感の人に言及する場合、「本人に見られたとき失礼だと思われたくない」という想像力が働く範囲の人には敬称を付ける、みたいにするしかなくて、それはそれで自分勝手な基準だよなと思って悩んでしまうのです。

たとえば俺が、何かを茶化す意図で「阿部寛のホームページみたいに素朴だね」と書いたとします。
それに対して、もし、もし万が一、阿部寛本人から「一生懸命作ってるHPをバカにされて傷付きました」とリプライがきたら(絶対こないと思うけど笑)、俺は真摯に謝るしかないし、謝るべきだと思うのです。
でも、きっと俺は内心「こんなことで謝んなきゃダメなのか?」とも思ってしまうと思います。

「何か(特に固有名)をネタにする」というのは、それがたとえ好意的な取り上げ方であっても、「自分の主張や目的(この場合は笑い)のために、当事者の繊細な事情や意図は、あえて切り捨てることを選ぶ」ということでもあります。
何かを主張するのに、それはある程度は仕方ないと思うし、これまで著名人に対してはそれが許されてきました。そうやって「キャラやコンテンツとして消費される」ことも、著名人の使命のうちだと思われてきたからです。
いや、正確に言えば、本人が見たら許していなかったであろうことでも、これまではそうした発言が本人の目に届くことはほとんどなかったし、反論の機会もなかったわけです。

ところが今は、Twitterで何かをつぶやけば、鍵垢でない限り自分の発言が「届いてしまう範囲」を自分でコントロールできません
著名人がそれを見つけて、自らの筆で「本当は傷付いていますよ」「私の意図はそうじゃありませんよ」「何言ってんだふざけんな死ね」と相手に直接言うことができます。
「本人から反論や不快感を表明される責任」を、素人や一般人も含めて、誰もが負わなければいけなくなったのです。

当然と言えば当然ですが、そのための覚悟も、モラルやマナーも、まだはっきりとは共有されていないのが現状でしょう。
「○○がおもしろくなかった」とつぶやいたら、本人から反論・批判されるかもしれない状況を、「おちおち一個人の感想すら書けないのか」と窮屈に感じる人もいると思います。
Twitterは基本的にゾーニングやレーティングが利かないツールであるという認識を、多くの人が実際には持てていないのではないでしょうか。「ネットって本音が言える場所じゃなかったの?」ということです。

かつて、コラムニストのナンシー関は、自らのテレビ評論において「顔面至上主義」というものを掲げました。
芸能人の誰それについて、「本当はいい人なんだって」「裏でこんな苦労をしてるらしいよ」といった事情を、視聴者がいちいち斟酌してやる必要などない、画面から見えているものがすべてなのだ、という考え方です。
「見えるものしか見ない。しかし目を皿のようにして見る。そして見破る」と言い切った彼女の批評の手法自体は、当時きわめて慧眼に富むものでした。

しかし、彼女の死後、「対象を当事者の意図する文脈から切り離し、外部者の視点からメタ的におもしろがる」というナンシーの延長線上にあるとも言える手法は、2ちゃんねるを始めとするネット文化において、むしろ当たり前の消費態度としてエスカレートしていきました。
その結果、最近では、対象を「キャラ」や「コンテンツ」として消費する態度に対して、本人が反論や批判の声をあげるというケースが増えてきているように思います。

そして、この問題に対して、ではどうすればいいのか、実は私は現時点で、まだ明快な回答を持ち合わせることができていません。
著名人を、「キャラ」や「コンテンツ」といった記号として扱うのではなく、「一人の人間」として尊重するのは、当たり前のことです。それが好意的であれ、批判的であれ、何らかの言及をするのであれば、それなりの責任がともないます。
一方で、私自身、著名人や固有名などを「本人」から切り離し、キャラやパブリックイメージといった「属性」や「記号」としてとらえ、メタ的におもしろがる消費文化にどっぷり浸かって生きてきました
一度コンテンツとして世間に解き放たれたものは、本人の意図や意志とは無関係に、自由に「いじられてしまう」ものだとも思っています。

たとえば、「西島秀俊が結婚しちゃってショック!」というところから派生しているさまざまなネタも、厳密に言ってしまえば、彼を「一人の人間」ではなく、「キャラ」や「コンテンツ」として消費する態度でしょう。
だって、彼が誰といつ結婚するかは、本来、他人が口を差し挟んだり、好き勝手にいじったりできる筋合いのことではないからです。でも、それは傷付いたり不快に思う人が、相対的に少ないから許されているだけです。
「なぜ西島秀俊の結婚をいじっていいと思ったの?」と聞かれても、正直なところ「彼はたぶん俺にいちいち絡んでこないだろうから」としか、俺には答えられません。
もっと言ってしまえば、もし結婚のことをネタにいじられて西島秀俊が傷付いていたとしても、それは俺にとっては切り捨ててもいい、大した問題ではないと心のどこかで思っているのです。

最初に書いた「著名人に敬称付けるか問題」と同じで、私たちはいつも、そのとき自分の想像力が働く範囲の人しか思いやることができない。
誰かに対して何かを言うとき、それは「その人」そのものではなく、その人の属している「記号」を、自分の都合に合わせて好き勝手に消費しているにすぎない。

自分の公正さや倫理観というのは、いつだってその程度にグラグラなものだということは、忘れずに生きていこうと思うのです。

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