計画と偶然と運命の関係-現実の濃度と引力に関する考察-

人はある行動をとる前に計画を立てるべきだ、というのが当世流行の礼儀であるかのように言われている。物事の原因と結果は一対一に対応すべきであり、われわれはできる限り可能な制御によって望ましい結果を得るべきである、と。

しかし、現実はそのように紙の上の算術がそのまま適用できるほど単純だろうか(それでも、ある範囲で、ある物事に関わる人間の総数が限定されている頃はまだその計画も有効だったかもしれない)。事態のフェーズは変わり、限定性の定義が地域的・時代的なものではなくなり、人々の関心・好奇心に移ってきた。これは主としてテクノロジーの発達による情報へのランダムアクセス性のもたらす結果であり、情報記憶容量の飛躍的向上の帰結である。

そのような背景のもとで、「計画制御」という発想そのものが魅力を失っている(もちろん有効性も)。この状況は人生に関する認識、出来事に対する意味付けが変わってしまったことを意味する。

しかし、計画自体が完全に無効になってしまったわけではない。行き当たりばったりで事態が好転することは稀であり、そのような奇跡に期待する姿勢は、結局のところ状況に対する服従態勢を正当化することになる。

では、どのような形で計画を練り、実行に移していくべきだろうか。そしてどのようにすれば途中で計画を変更して、よりよい結果、自分の運命に沿っていると思われる道に到達することができるのか。

あくまで一つの仮説として以下考えていることを述べたいと思う。

①計画は事前に立てておくことは必要。ただし、あまり事細かに決めるべきではない。全体の方向性・ざっくりとした大枠を定義しておく必要がある。そうでないと、どこに行って何をするかさえも決めることができなくなる。
②計画途中で、おそらく予期せぬことが起こるであろう。重要なのはそこで立ち止まって(あるいは後から振り返って)、その意味を考えることだ。もし、その出来事が運命に沿っていると思うのであれば、それを生かすような方向に踏み出すべきだ。
③上記の判断は、当人がその出来事にどれだけの重みづけ(濃淡)をするか、どれだけ惹きつけられているか(引力)にかかっている。

重い現実、自分が惹きつけられている運命的なものに、重要な地位を与え、それに付き従って、歩むこと。それ以上に、確からしいことはないように思える(ここでは一般的判断、常識的判断は度外視している。事態はそのような解釈ではとくことができず、個々人の運命性に対する認識の差の総和として世界を定義するような世界観こそが今問われている、と思うから)。

いつの世も、運命などない、惹きつけられることなどない、現実はこのようなものであり、このようなものでしかあり得ないといって、自らの個体性を放棄することほど、破壊的なものはない。それは世界を後退させるだけだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?