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「太陽がいっぱい」と日本の家族

最近、1990年代という時代に惹かれていて、その頃流行った音楽や映画、テレビドラマを発掘しているところだ。それにはいろんな理由がある。自分がこの世に生を受けた年=1993年の前後ということもあるし、また世相的にもバブル崩壊や阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件といったエポックメイキングな出来事が立て続けに起こったということもある。そこから立ち直る間に日本は失われた20年と言われる長い下り坂に入り込み、その流れを確定してしまった。それが避けられる運命だったのか、不可避的だったのを検証する意味でも、その頃流行ったものがそれを暗示しているのではないかという強引な推理をしてみようと思ったのである。

今回は1997年にテレビドラマ放送されていた「太陽がいっぱい」について書く。バブルが弾け、東西冷戦体制が崩壊して、丸八年。日本は右肩上がりの経済成長が止まり、ほぼフラットな状態(ある種のエアポケット)に入った。世界の鮮明さが霞始めたこの時代について言えば、年の差婚というのが珍しかった時代であり、自立した女性ライターがもてはやされていた時代である。これまでの働いて出世することに十分な魅力を感じなくなっていた時代であり、メインストリームから一歩離れた生き方を、人々が模索し始めた時期。このドラマは時代の趨勢に抗った(かに見える)メッセージを発する。

「子供を守れ」「実直な人間を見捨てるな」「運命を信じろ」「愛はある」

これらのメッセージが持つ重要性が、今になって痛いほどわかるのは、私たちの今生きている時代が、あからさまな「フェイク」がまかり通る時代であり、身も蓋もない本音ばかりが表立って主張される時代になったことの逆説的な証明になっているのではないだろうか。この言わば「微笑ましい」1990年代を通過した今から考えれば、このドラマは一面においてその後(そして今に続く)日本や世界を覆うシニカルな物の見方の萌芽を宿しているように思うし、それに対置して人としての実直さや愛の大切さ・真実性を持ってきている。この構図(シニシズムvs博愛主義)は人類に不変のテーマだと信じるが、今の時代は大勢としてシニシズムが幅を利かせているのではないだろうか。


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