傷つきやすさと本音と心の平安について

人はしばしば本音を話したいと言います。
でも、実際のところ本音を話すというのは勇気のいることです。
なぜなら自分の最も傷つきやすい部分を表に出して、コミュニケーションしているように思えるからです。しかし、そのような直接的なコミュニケーション抜きでは、人はなかなか充実感をもって「生きている」とは感じることができません。

現代社会では、誰もが直接的なコミュニケーションに飢えている。
これは真実だと思います。しかしここで恐ろしいのは、そのような心の開示の際に深く傷つけられた(裏切られた)経験の蓄積によって、私たちの心の中心に重石がのってしまっており、それが枷となって直接的なコミュニケーションの機会が奪われてしまうことです。

どうすれば、この重石を横において、直接的なコミュニケーションの回路を回復することができるのでしょうか。問題になるのは「傷つく可能性がある場面で、なおそれでも傷つきやすい部分をさらして直接的なコミュニケーションをとろうとしている人を、どのようにして暴力から守るか(あるいはそのような自分をどのようにして守るのか)」ということになります。

コミュニケーションは実にさまざまな暴力の契機を含みます。それはこうすれば防げるだろうといってある程度システム化することはできるかもしれませんが、完全に暴力の芽を摘むことはできません(また、そのようなシステム化が強固になればなるほど、その中で行われるコミュニケーションは面白味のないものになる可能性は高まります)。

したがって、システム化による暴力の停止は期待できません。またそのようなものに期待すべきでもありません。では、何を使うか。

人間の生の力しかありません。「やめてください」と強い態度で言明すること・主張すること、これに尽きるのです。実際のところ、暴力には暴力で抗するしかないという表現がありますが、これはある意味で正しいのです。暴力には暴力か気迫で反撃するしかない。ひるまない。これしかありません。

「非暴力・不服従」運動で有名なガンディーは著書で確かこういう意味のことを述べています。非暴力・不服従は相手に痛みを悟らせるために、自らが痛みを引き受ける行為である、と。そしてそれは生半可な覚悟では効果がなく、強くなくてもよいが本気である必要があると。

本気で怒る、本気で異議申し立てをする、ということを現代社会はそのシステムに組み込んでいません。そのため、それは非常に場違いな行為に見えます。しかし、その行為は暴力の当事者たちをシステム化される以前の人間どおしに立ち返らせます。裸の人間として、一人の傷つきやすい身体と心を持った個人としてお互いがお互いを捉えます。そのまなざしの強さがもつ説得力が相手の態度を変更させるのです(実際はそれでも暴力が止まないことはありますが。しかし、効果は十分なくらい大きいのです)。

実に難しいのは、人をひとりの裸の人間に立ち返らせること、これなのです。そのような回帰(立ち戻り)が起これば起こるほど、人はその生きる力の核にあるものに触れ、そして進むべき道を進むようになるのだと思います。

おそらく、そのような生の・直接的なコミュニケーションの総和が、本当の意味で人生を生きることとの基礎となるのだと思います。

閑話休題。それでは。

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