個人の幸福感情と経済的価値をリンクさせる

 おはようございます。朝早くからですが、起き抜けに「ひらめき」があったので書き始めたいと思います。

 いきなりですが、人はなぜ嫌な仕事を続けてしまうのでしょうか。生きていく、食べていくためのお給金をもらうためでしょうか。家族を支えるためでしょうか。あるいは社会になくてはならない仕事だから、でしょうか。実はあらゆる表面上の理由づけの根底には、経済的背景があると思います。つまり、嫌な仕事は実際(現時点では)経済的価値があるのです。経済的価値があるというのは、ひらたく言えば生活を賄っていけるということです。そして、生活を賄っていけるというこの一点をもって、経済的価値がある、と一般に捉えられ、そのような生き方が許容されているのです。

 しかし、そのようなことを続けて個人の幸福感情、意味のある充実感はどうなってしまうでしょうか。知らず知らずの間に、嫌なことをすること、義務的に仕事をこなすことが人生の大部分を覆ってしまわないでしょうか。そして、その中で楽しみを、また充実感を見出すのが人生であるというもっともらしい文句に渋々納得してしまう、ということにならないでしょうか。

 社会的通念がそうなってしまえば、個人の幸福感情を起点とした行動は、相対的にずっと少なくなっていくでしょう。そして個人の幸福感情からスタートすることは次第に経済的価値を帯びないという点をもって蔑ろにされていき、現時点で経済的価値を持つものに無理矢理のっかり、感情をそこに紐づけていくという幸福感情の功利的操作が行われるようになるでしょう。それは社会を前進させるためにもたらされる「イノベーション」=「顧客の創造」というよりも、社会を停滞させ権力を固定化する「顧客の二次創作」に近いでしょう。

 結局のところ、問題は「個人の幸福感情」と「経済的価値」がリンクしていない、正の相関関係になっていないことです。現時点ではいわば負の相関に陥っており、そのために多くの人々は嫌な仕事をしながら生計をたてるという泥沼から足を洗うことができないのです。

 そこで私は考えました(というより思いつきました)。この負の相関関係を崩す必要がある、と。つまり、嫌な仕事をしている限り資産が増えないような形にバランスシートを構成し直す必要がある、ということです。ありていにいえば、嫌な仕事をしている限り割に合わない状況、を自ら作ってしまうのです。社会がそのような正当な循環体として(生産性の低い仕事に罰を、生産性の高い仕事に報酬を与えるように)機能していない限り、その状況を作り出す仕事は、個人が担う必要があるのです。個人が社会に働きかけ、正当性を担保していく必要があるのです。

 このような迂回を経ずに、素直に嫌な仕事を辞めることができれば、それが一番です。しかし、ついつい人は食えている・食っていけるということを正当性の根拠に据えてしまいます(実際食べていくだけにそれだけ稼ぐ必要があるのか、は甚だ疑問ですが)。このような重荷を背負わない限り動き出さないほど、人はズボラで怠け者な動物であるという結論をもって締めたいと思います。

ありがとうございました。

P.S. 『松原みき「女神の右手」』を聴きながら

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